今宵貴方と見る月は ～あきとかなnext 〜 《あきとかな後日談集》

きみは、もう、ここに、いない

４-③

「とても失礼なことだということも承知していますし、今の結城さんをまともに支えられる金額でもないんじゃないかと思います……でももし少しでも助けになるのであれば、来週にでも指定の口座に振り込みます」
　奏人の真剣な表情に、かつてのパトロンとしてのプライドが傷つく腹立ちよりも、パトロンとして支えた青年の成長を見た感動のようなものが勝ちそうだった。しかし結城は、それは駄目だ、と声を絞り出した。
「あのお金は……きみに喜んでもらいたくて出したものだ、それを僕の傾いた事業に使うなんて……惨め過ぎる」
　ディレット・マルティールのパトロヌス制度を使い、10年間で奏人に「貢いだ」金は少なくはなかった。しかしそれを惜しいと思ったことは、この数年間、一度たりともない。デリヘルで調子に乗って金を使っていた自分を振り返ると笑えるが、それを悔やんだことも無い。神崎綾乃に話したことに嘘はなかった。
「すみません、こんな話をしたら結城さんを傷つけることになると解わかっていました……でも、だからこそなんです、学費と最初の留学に使った分はお返しできません、でも帰国してから頂戴していたお金は……手つかずのままです」
　本当は、ディレット・マルティールを辞める時に、全てのパトロンに全額返したかったのだと奏人は言った。しかしそれは客に対して失礼だと、神崎に止められたのだという。
　奏人は困ったように俯うつむいた。デザートの杏仁豆腐と、美しくカットした果物の皿がやってきた。ああ、この子にこんな顔をさせたくない。
　それに正直なところ、喉から手が出るほど金は欲しかった。昨年11月に閉店した店舗を任せていた店長と料理長に、未だ退職金を支払えていなかった。再就職先を年明けに何とか見つけてやった時、十分良くしていただきましたと彼らは言ったが、だからといって踏み倒すわけにはいかない。
「そんな顔しないで、食べよう」
　結城は奏人を促うながした。温かいジャスミン茶が運ばれてきて、テーブルを華やかな香りで包む。スプーンで杏仁豆腐を口に運ぶ奏人を見ていると、昔のように、何をすれば彼を喜ばせてやれるだろうかと、習慣のように考えてしまう。昔は彼のことを良く知らなかった。今だって知っているとは言えないが、今どう返事をすれば、彼が喜ぶのかは解りきっていた。そのためには、つまらないプライドは捨て去るべきなのだった。
「奏人の好意を受けることにする」
　結城はジャスミン茶で喉を潤してから、ゆっくりと言った。奏人は顔を上げる。
「でもこれは……奏人から借りると考えることにする、そうすれば僕も自分を納得させられそうだから」
　奏人はふわりと微笑んだ。そう、この子のこんな顔を見ることができるなら、僕のプライドなんて安いものだ。結城も笑った。心から出た笑いだった。
「じゃあ無利息でお貸しするということにしておきますね」
「うん、これで金の切れ目が縁の切れ目にならないだろう？」
　結城の言葉に、奏人も首を傾げて、笑う。
「いやだなぁ、僕は昔も今もそんな風に考えたことはありませんよ」
　この桜の精はなかなか小悪魔だった。パートナーがここにいたとしても、同じように言えるのだろうか？　ああ、それを許せるような人物だからこそ、奏人が選んだのかもしれない。
　奏人は窓の外に目をやった。ホテルの明かりに照らされた川沿いの桜が美しい。風が吹けば花びらが舞い、川面に花筏をつくる。
　結城は思う。自分があの頃の自分とは全く違うように、あの頃のかなとはもうここにはいないのだ。しかしそれは嘆くようなことではなく、むしろ喜ばしく受け止めるべきことだった。かつて可愛がった華奢で童顔の青年は、容姿はほとんど変わらないけれど、その内部は大きく深く成長していた。いや、こんな言い方はおこがましいだろう。もう奏人は、自分と対等なのだ――。
「お返しできることがあまり無いんだけど、パートナーと一緒に店を覗きに来てよ、もちろんご馳走させてもらうから」
　結城は奏人に言いながら、通りかかった店員に向かって手を挙げた。財布からカードを出す。奏人は何か言いかけたが、結城は彼を制した。
「これは出させて貰うよ、そこまで恥をかく訳にはいかない」
　奏人ははい、と言った。微笑を交わす。暖かく幸福なひとときだった。