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きみは、もう、ここに、いない
4-②
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すこし切ないような散策のひとときを過ごしてから、ホテルのレストランに入った。かなとは本格的な中華は久しぶりだと言い、喜んでくれた。ビールで乾杯して食事が始まると、彼の綺麗な箸使いに、見惚れた。
ディレット・マルティールには、贔屓のスタッフのパトロン気分が味わえる「パトロヌス制度」というものがあって、指名料とは別に毎月幾らかの金を出すと、特典のうちのひとつとして、ホテルに入るビフォアかアフターに、スタッフと会うことが出来た。といっても30分だけなので、かなととコーヒーを飲んだことはあったが、食事をするのは初めてである。体つきから食が細いのかと思いきや、彼は健康的に料理を平らげる。今度自分の店の招待券を送ろうと結城は思った。
「そうそう、結城さんに僕の正体を明らかにしておかないと……今更がっかりされることもないでしょうし」
かなとは食事の合間に、2枚の名刺をくれた。一枚は長く勤務している会社のもので、もう一枚はこれから使う、研究者としてのものだった。本名も奏人ということ、システム・エンジニアであること、西洋哲学を専攻していること、大森に住んでいること……2枚の小さな紙には、驚かされる情報が沢山詰まっていた。
「じゃあこれからSEと講師の二足の草鞋を履くってことか」
「はい、でも5年前までもそうだったんですよ、定時まで勤務してディレット・マルティールの仕事をしていましたから」
「意外と体力があるんだなぁ」
高崎奏人はうふふ、と楽し気に笑った。ふと彼の左手の薬指に、シンプルな銀色の指輪が光ることに気づき、結城はどきりとする。そしてまた一抹のショックのようなものに襲われた。彼は今や、指名する客全ての恋人であった、ディレット・マルティールのかなとではない。コンピュータを触り、女子大生相手に教鞭を執って、家に帰れば一人の男性のものである「一般人」なのである。だから指輪を見て傷つく権利も自分には無い。
「神崎さんに聞いたんだけど……パートナーと一緒に暮らしてるんだって? どんな人?」
結城は訊かずにはいられなかった。奏人は無邪気な笑顔になった。
「僕にはもったいない人ですよ、僕の最後のお客様で……一部上場企業のサラリーマンです」
奏人の言葉に、結城はますますショックを受け、腹立たしいような気持ちになる。客、しかもサラリーマンだって? いくら上場企業であろうと、勤め人なんぞ収入も知れているだろうに、トップスタッフだった奏人を指名するなんて図々しい。
顔も知らない男に対抗意識と嫉妬を燃やす自分の滑稽さに、結城は嘲笑を禁じ得なかった。会話に不似合いな笑いを洩らしてしまった結城を見て、奏人は少し不思議そうな顔をする。
「どうかなさいましたか?」
「いいや、可愛らしい大学生だったきみが……誰かと暮らしていて、もう大学生に教えるような年齢になるなんて」
「……時間が経つのは早いですね、ほんとに」
話をごまかしたのに、奏人がそれに応じてくれるので申し訳なかった。
「でもこうやって……月に1回か2回、1時間会うだけの関係だった僕をまた指名してくださるのって、ほんと嬉しいです」
奏人が指名という言葉を使うのが、可笑しくてちょっと切ない。あなたとは客以上の関係ではないと、彼に言われているようにも取れたからだ。
奏人はやはり屈託なく、パートナーの話や留学先のカリフォルニアでの話をしてくれた。決して楽しいばかりではない日々を送って来たのだということがわかった。学生時代から、何となく憂いを帯びた空気感のある青年だったけれど、大嫌いだった父親の姿をパートナーに探していたと苦笑しながら話すのを見て、自分を悲しいくらい客観視するのだなと感じた。そしてそれは結城の胸を刺した。結城は、ゲイであることを隠し続けている以外は、比較的「普通」の環境で過ごして来た。もしかすると奏人のほうが、いろんなことに傷ついてきたのではないだろうか。
「だから僕、年の離れたお客様が好きだったんですよ……結城さんも含めて」
「そうか、ファザーコンプレックスね……僕は15こ上だな、パートナーは?」
「ちょうど10歳上です」
答える奏人は、スタッフとして接していた頃には見なかった、柔らかな表情をしていた。ああ、その人のことが好きなのだな。結城はやはりちょっと悔しく思う。
「……あの頃と違って……今日奏人に楽しい話をしてあげられなくて申し訳ないなあ」
結城は睡眠薬を服用している自分に合わせて、奏人が瓶ビール1本だけを空けて烏龍茶をオーダーしたことも申し訳なく思う。上等の老酒も取り扱っている店なのに。
奏人は長い睫毛に縁どられた目を見開き、そんな言い方しないでください、と言った。
「綾乃さんから結城さんが苦闘なさっていると聞いて、今度は僕が何かできないかと思ったんです……だって結城さんが支えてくださったから、僕は大学をちゃんと卒業できて、留学もさせて貰えたんだから……」
奏人は20歳になってすぐに、父親を急病で亡くし、学費を払うためにデリヘルで働き始めた(最初その話を聞いたとき、客の同情を引くための作り話だと思ったことは、未だに奏人に申し訳ない)。おそらく結城を含めた複数の客が、彼のために、指名料以上の金を出している。彼は大学卒業後に1年間アメリカに学びに行き、帰国後に一般企業に就職して、ディレット・マルティールに戻って来たのだった。
奏人は結城を見つめながら、初めて聞く真剣な重い声で、言った。
「結城さんからいただいたお金をお返しします」
結城はえ、と間抜けな声をあげてしまった。最後のデザートを持ってきてもいいかと店員が訊きに来たので、話が途切れる。
ディレット・マルティールには、贔屓のスタッフのパトロン気分が味わえる「パトロヌス制度」というものがあって、指名料とは別に毎月幾らかの金を出すと、特典のうちのひとつとして、ホテルに入るビフォアかアフターに、スタッフと会うことが出来た。といっても30分だけなので、かなととコーヒーを飲んだことはあったが、食事をするのは初めてである。体つきから食が細いのかと思いきや、彼は健康的に料理を平らげる。今度自分の店の招待券を送ろうと結城は思った。
「そうそう、結城さんに僕の正体を明らかにしておかないと……今更がっかりされることもないでしょうし」
かなとは食事の合間に、2枚の名刺をくれた。一枚は長く勤務している会社のもので、もう一枚はこれから使う、研究者としてのものだった。本名も奏人ということ、システム・エンジニアであること、西洋哲学を専攻していること、大森に住んでいること……2枚の小さな紙には、驚かされる情報が沢山詰まっていた。
「じゃあこれからSEと講師の二足の草鞋を履くってことか」
「はい、でも5年前までもそうだったんですよ、定時まで勤務してディレット・マルティールの仕事をしていましたから」
「意外と体力があるんだなぁ」
高崎奏人はうふふ、と楽し気に笑った。ふと彼の左手の薬指に、シンプルな銀色の指輪が光ることに気づき、結城はどきりとする。そしてまた一抹のショックのようなものに襲われた。彼は今や、指名する客全ての恋人であった、ディレット・マルティールのかなとではない。コンピュータを触り、女子大生相手に教鞭を執って、家に帰れば一人の男性のものである「一般人」なのである。だから指輪を見て傷つく権利も自分には無い。
「神崎さんに聞いたんだけど……パートナーと一緒に暮らしてるんだって? どんな人?」
結城は訊かずにはいられなかった。奏人は無邪気な笑顔になった。
「僕にはもったいない人ですよ、僕の最後のお客様で……一部上場企業のサラリーマンです」
奏人の言葉に、結城はますますショックを受け、腹立たしいような気持ちになる。客、しかもサラリーマンだって? いくら上場企業であろうと、勤め人なんぞ収入も知れているだろうに、トップスタッフだった奏人を指名するなんて図々しい。
顔も知らない男に対抗意識と嫉妬を燃やす自分の滑稽さに、結城は嘲笑を禁じ得なかった。会話に不似合いな笑いを洩らしてしまった結城を見て、奏人は少し不思議そうな顔をする。
「どうかなさいましたか?」
「いいや、可愛らしい大学生だったきみが……誰かと暮らしていて、もう大学生に教えるような年齢になるなんて」
「……時間が経つのは早いですね、ほんとに」
話をごまかしたのに、奏人がそれに応じてくれるので申し訳なかった。
「でもこうやって……月に1回か2回、1時間会うだけの関係だった僕をまた指名してくださるのって、ほんと嬉しいです」
奏人が指名という言葉を使うのが、可笑しくてちょっと切ない。あなたとは客以上の関係ではないと、彼に言われているようにも取れたからだ。
奏人はやはり屈託なく、パートナーの話や留学先のカリフォルニアでの話をしてくれた。決して楽しいばかりではない日々を送って来たのだということがわかった。学生時代から、何となく憂いを帯びた空気感のある青年だったけれど、大嫌いだった父親の姿をパートナーに探していたと苦笑しながら話すのを見て、自分を悲しいくらい客観視するのだなと感じた。そしてそれは結城の胸を刺した。結城は、ゲイであることを隠し続けている以外は、比較的「普通」の環境で過ごして来た。もしかすると奏人のほうが、いろんなことに傷ついてきたのではないだろうか。
「だから僕、年の離れたお客様が好きだったんですよ……結城さんも含めて」
「そうか、ファザーコンプレックスね……僕は15こ上だな、パートナーは?」
「ちょうど10歳上です」
答える奏人は、スタッフとして接していた頃には見なかった、柔らかな表情をしていた。ああ、その人のことが好きなのだな。結城はやはりちょっと悔しく思う。
「……あの頃と違って……今日奏人に楽しい話をしてあげられなくて申し訳ないなあ」
結城は睡眠薬を服用している自分に合わせて、奏人が瓶ビール1本だけを空けて烏龍茶をオーダーしたことも申し訳なく思う。上等の老酒も取り扱っている店なのに。
奏人は長い睫毛に縁どられた目を見開き、そんな言い方しないでください、と言った。
「綾乃さんから結城さんが苦闘なさっていると聞いて、今度は僕が何かできないかと思ったんです……だって結城さんが支えてくださったから、僕は大学をちゃんと卒業できて、留学もさせて貰えたんだから……」
奏人は20歳になってすぐに、父親を急病で亡くし、学費を払うためにデリヘルで働き始めた(最初その話を聞いたとき、客の同情を引くための作り話だと思ったことは、未だに奏人に申し訳ない)。おそらく結城を含めた複数の客が、彼のために、指名料以上の金を出している。彼は大学卒業後に1年間アメリカに学びに行き、帰国後に一般企業に就職して、ディレット・マルティールに戻って来たのだった。
奏人は結城を見つめながら、初めて聞く真剣な重い声で、言った。
「結城さんからいただいたお金をお返しします」
結城はえ、と間抜けな声をあげてしまった。最後のデザートを持ってきてもいいかと店員が訊きに来たので、話が途切れる。
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