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早春の言祝ぎ

13:00①

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 奏人はソファでうつらうつらしている恋人を見て、やっぱりさっき襲わなければよかったと少し後悔していた。ブランチを済ませて、ちょこっとシーツも汚したからと洗濯機を回し、晴れたベランダに干し終わったと思えば、この体たらくである。暁斗が絶頂を迎えた後にすぐに眠くなるということは、よくわかっている。少し眠らせてから、食事にしたほうが良かったのか。
 奏人は壁にかかる時計を見て、自分はもう準備したほうが良いと考えた。今日の披露宴で、新婦が学生時代に所属していたアカペラサークルの友人3人が、歌を新郎新婦にプレゼントする。奏人は何故か、彼らの伴奏をすることになっており、結婚式の40分前にリハーサルをするので、早めに会場に来て欲しいと言われていた。
 メンバーは現在も合唱団などで歌っている者ばかりだそうだが、新郎新婦がいかにも結婚式っぽいアカペラソングを拒否し、ボカロ曲を選ぶという横暴を為したため、伴奏者を探していた。そこで白羽の矢が立ったのが、披露宴にも出席する奏人だった。ピアノを弾かなくなって15年以上経つのに、無茶振り極まりなかった。しかし新婦自身から頼まれた(高校入学直前までピアノを弾いていたという奏人の話を、彼女は覚えていたらしかった)以上、断るわけにもいかない。奏人は帯広の実家に連絡し、母から子どもの頃に使っていたピアノの教本を数冊送ってもらった。時間払いの練習室を1日おきに2時間借りて、昨年末に実家に帰った時も母にレッスンしてもらうなどして、この3か月間練習に励んだのだった。
 留学に行く前年に、母校の美術部の後輩たちから、クラブの90周年記念展覧会に出品して欲しいと頼まれた時のことを、ふと奏人は思い出す。あれも、卒業以来ほとんど画材に触っていなかったため、大概な無茶振りだった。ただ、決して満足できる仕上がりではなかったとはいえ、あの展覧会は奏人にとって何かひとつの大きな区切りとなった。これまで世話になった人達と、これから世話になる人を、心を込めて描いた。評判は悪くなかったし、SNSで毎週スケッチをアップする現在の活動のきっかけになった。
 奏人はあの展覧会の絵の中の1枚のモデルであり、今も新作をアップすると、必ずその日中に最低100のいいねがつく人気モデルでもある男性の寝顔を覗き込んで、愛おしさを噛みしめる。彼は安心しきったような表情だった。それが自分のかたわらにいることで生まれるものであるなら嬉しい。
「あ……寝てた?」
頬に触れると、意外にもすぐに暁斗は目覚めた。奏人は子どもにするように、彼に微笑みかける。
「うん、僕そろそろ着替えるね、暁斗さんはもう少しゆっくりしてても大丈夫だと思う」
 そんなに大丈夫でもないのだが、寝ぼけ眼でぼんやりとしている暁斗を見ていると、つい言ってしまう。彼は、んん、と言いながら手足を同時に伸ばした。だから犬っぽいと言うのに、犬のようだと口にすると彼はいつもちょっとねる。
「奏人さん」
「はい」
 暁斗は腕を伸ばして奏人をその中に取り込もうとした。ちょっと距離が足りないようなので、奏人も少し身体を寄せる。温かい胸の中に抱かれる幸福を、奏人は満喫する。
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