今宵貴方と見る月は ～あきとかなnext 〜 《あきとかな後日談集》

チョコレートと豚まん

1

　寒い連休になり、東京都民は雪の予報に振り回された。暁斗は先週末、営業課で大切な商談や外回りを月曜に入れないように調整して、部下たちからちょっと大袈裟じゃないですかと言われたが、心配や混乱の種はあらかじめ潰しておくに越したことはないのだ。結局積雪は無かったのだが、そんな訳で、その日は営業課のフロアに課のほとんどの人間がいるという、珍しい光景が見られた。
　暁斗は複数の男子社員が何気にそわそわしていることに、朝から気づいていたが、昼休みにその理由をやっと理解した。何かと世話になっている先輩、企画部長補の山中やまなか穂積ほづみと社員食堂でコーヒーを飲んでいると、綺麗な紙袋を持った女子社員がこちらにやって来た。経理課の若き女帝こと、松山まつやま華はなである。中途採用で3年目に入る彼女は今や経理課のホープで、その仕事の処理の速さと正確さは他の追随を許さない。暁斗も彼女には全幅の信頼を置いている。
「休憩中申し訳ありません、今日はこういった日ですので……」
　彼女は領収書が出ていない時に苦情を申し立てるのと変わらない口調で、山中と暁斗を順に見ながら言った。そして、ベルギーの高級チョコレート店の紙袋を、ひとつずつ差し出した。
「おおっ、ゲイの俺たちにもバレンタインがやって来るの？」
　山中の口調がやや大袈裟になったのは、松山からチョコレートを手渡されるのが初めてだからということらしかった。彼はカミングアウトしてだいぶ経つが、モテキャラなので、例年社内外からチョコレートを多数受け取っている。
「はい、別に見返りを求めている訳ではなく、日頃お世話になっているお礼ですので」
「義理でもここのチョコレートはちょっと嬉しい」
　山中の弾んだ声を聞きながら、暁斗は手渡された紙袋が、山中のそれよりひと回り大きいので戸惑った。松山は営業課長の困惑に気づいて、業務連絡のようにあっさりと言った。
「大きさが違うのは出資者の数が違うからです……山中部長補は経理課有志からのみです、申し訳ありません」
　山中は苦笑する。暁斗は松山に、そうなんだ、とボケた言葉を返した。
「わかってる、こいつのファンクラブからだろ？　うちの課の子も入ってるからな」
　松山は山中に言われて、やや若い女子らしい反応を示した。暁斗をちらっと見て、マスクの上の目尻を染めたのである。
　暁斗はこの会社の中に、自分をマスコット的に見ている女子社員の一群があることには気づいていた。しかしこうして、その存在を直接アピールしてきたのは初めてである。しかもこの、男にあまり興味の無さそうな経理課のマリア・テレジア（などと言い出したのは現場管理課の清水で、オーストリアの高名な女帝の若い頃の肖像が松山に似ているのだという）が、自分にそういった感情を抱いているとは、至極光栄と言うべきなのか。
「ありがとう、味わって食べます」
「パートナーさんとご一緒にどうぞ」
　松山の言葉に暁斗はぎょっとする。奏人がチョコレートが好きだという情報を、彼女はどこで仕入れたのだろう。そんな話を誰かにしたことはあるように思うが、社内のそこらじゅうにスパイがいるのに違いない……営業課の中堅女子社員の竹内もスパイである。
　松山はお邪魔しました、と頭を下げてその場を去ったが、よく見ると足取りが軽かった。やや爪先に重心を乗せて足早に歩く様子が、両足でぴょんぴょん飛んで進む小鳥を連想させて、可愛らしい。
「モテる男はいいねぇ」
　松山を見送ってから、山中は唇を歪めて笑った。暁斗は紙袋を脇に置いて、憮然とした。
「山中さんだって取引先に熱心なファンがいるじゃないですか」
「ちょっと平均年齢が高いんだけどな」
「ゲイのくせに、女性の年齢なんてどっちでもいいでしょ？」
　まあな、と山中は笑う。そして楽し気に続けた。
「今夜は俺も隆史たかふみと食事するんだ、久しぶりだから楽しみだよ」
　彼にしては随分素直な言い方だった。隆史とは、奏人が所属していたゲイ専デリヘルの元スタッフで、現在は霞が関に勤務している超多忙な官僚である。隆史は学費のためにかつて風俗業に従事していて、山中は彼の得意客だった。何だかんだ言いながら今でも関係が続いており、その年齢差は暁斗と奏人の倍だ。
「へぇ、いいですね」
　暁斗は山中に答えてから、はたと思考を止めた。バレンタインデーって、俺は奏人さんに何にも用意していないんだけど……。何かするべきなのだろうか……。