10 / 394
ポッキーの日
ポッキーの日
しおりを挟む
珍しく先に帰宅した暁斗は、一番に米を洗って炊飯器にセットした。奏人が、得意先のシステムトラブルで現場に赴き、退勤が遅れたとLINEをくれていた。
今夜は鍋にしようと返事をしていた。準備の最後に椎茸の軸を落としていると、奏人が帰宅した。お疲れさま、と労う。
「ありがとう、全部任せちゃったね」
「ああ、いいよ……解決した?」
「うん、大丈夫」
交わされる何でもない会話も、楽しい。
「ご飯今スイッチ入れたばかりだから、ちょっと時間がかかる」
暁斗の言葉に、手を洗ってリビングに戻って来た奏人は、何故か明るい顔になった。
「暁斗さん、じゃあこれやろう」
奏人がソファに置いていた鞄から出したのは、知らぬ者の無いお菓子だった。
「ポッキー?」
「今日はポッキーの日だって、ゲームしようよ」
暁斗は奏人の右手の赤い箱を見て、沈黙した。奏人がどうしたの? と覗きこんでくる。
「奏人さんがやりたいのは……ポッキー罰ゲーム?」
奏人がきょとんとする。
「隅と隅から食べ合いするの」
「宴会の罰ゲームだろ?」
暁斗はつい憮然とした顔になってしまう。ポッキー罰ゲームにはろくな思い出が無い。
暁斗はジャンケンやあっち向いてホイなどの小さなゲームに弱いうえに、つまらない籤にはよく当たるため、これまでの人生のあらゆる宴のシーンで、不本意なポッキーチューを強いられて来ていた。そのお相手は、文化祭の打ち上げでの高校のクラスメイトに始まり、大学のゼミ友や担当教官、テニス部のあらゆる学年の者、バイトの先輩、会社の先輩や同僚はもちろん、取引先の担当者もいた。
「自分の結婚式の2次会でもやらされた」
「えっ、蓉子さんとじゃなく?」
「蓉子とはしたことない、男ばっかり」
暁斗のトラウマレベルの経歴に、奏人は複雑な顔をした。その意味を察して、暁斗は慌てて言う。
「どいつとも嬉しくなかったから!」
「……ゲイとしてそれもどうなんだろ? 中には暁斗さんとしたかった人がいた気がするなぁ」
「ノンケとしてもゲイとしても、少なくとも俺はしたくなかった……」
奏人は首を傾げたが、やけに明るく宣言した。
「じゃあ今から暁斗さんの嫌な思い出を上書きするね」
奏人はポッキーの箱を開けて、中袋を裂いた。本気か。暁斗は困惑する。
「僕、人づきあい悪い人生を送ってるから、やったことないんだ」
「学生時代のゼミや美術部でも?」
「うん、飲み会でそんなゲームしなかったよ」
暁斗は軽く衝撃を受ける。同じミッション系でも、大学の雰囲気が違うのか……。
奏人はポッキーの先を暁斗に差し出した。あまりに楽しそうな顔をしているので、がっかりさせたくなくて、チョコレートでコーティングされた細い棒を咥えた。奏人も同じようにすると、それだけで顔が近くて、照れてしまう。奏人の黒い瞳を見つめながら、暁斗は考える。よくこんなこと、好きでもない男とやってたな。これからは絶対拒否しよう。
どちらともなくポッキーを噛み始めると、2口目で鼻がぶつかり、3口目で唇の先が触れ合った。暁斗の胸がどきりと鳴る。奏人はぎゅっと、柔らかい唇を押しつけてくる。チョコレートの味と香りが、味覚と嗅覚に押し寄せた。……あ、気持ちいい。
唇を離すと、奏人はとろんとした目で暁斗を見つめた。何でこんなに色気を出してくるのだろうと、どきどきしてしまう。
「楽しいじゃん」
「いやまあそれは……したい人とするからだよ、でなけりゃ」
奏人はポッキーをもう1本袋から出した。半ば強制的に口に押し込まれる。ぽりぽりと軽い音が口の中でしたと思ったら、すぐに唇が重なる。
「ん……」
唇をくっつけたままポッキーを飲み下すのは少し難しい。静かでおかしな間が笑えてくる。奏人は暁斗の下唇を軽く吸い、ちゅっと音を立ててから唇を離す。
「暁斗さんとこれするの、すごく楽しいかも」
奏人は頬を上気させていた。いろいろ話を聞いていると、彼は厳格な家に育ち、友達とふざけながら遊んだり、大人からの叱責を伴ういたずらをしたりしたことがないようだ。そんな風に育った人が、大学生や社会人になってから、素質がない限り急に遊び好きになったりはしない。本当に、酒席で羽目を外す遊興の経験が無いのだろう。
そう考えると俄かに奏人が愛おしくなってきた。ヘビーな風俗業に長年従事していたのに、妙に純な彼が。暁斗は泥の中に咲く蓮を連想する。
暁斗は奏人に乞われるまま、その後3度ポッキーチューにつき合い、最後に彼を腕の中に取り込んだ。こんなことで喜んでくれるなら、ポッキーの日でなくたって、いつでもつき合おうと思う。
「チョコレートに入ってるカカオって、18世紀のヨーロッパでは媚薬だったんだよ」
奏人は耳のそばで言った。聞いたことがある。それだけカカオは貴重なものだったのだ。
「チョコレート食べる度に変な気分になったら、世話ないなぁ」
「でも僕はチョコレート食べたら幸せな気持ちになるよ」
顔を上げてにっこり笑う奏人が可愛くて、彼の小さな頭を右手で引き寄せキスをする。今度はちょっと、しっかりと。奏人の舌には、まだ媚薬の名残りがあった。
夕飯はキムチ鍋にした。賞味期限の近いソーセージをどさくさに紛れて投入しておくと、それを見つけた奏人が小鉢に移した。彼はソーセージを咥えたかと思うと、それを暁斗に向かって突き出してきた。暁斗は笑う。
「お行儀が悪いですよ」
奏人はうーうー、と変な声を出しながら、暁斗に督促する。
「えーっ、マジなの!」
「ふんふん」
暁斗は仕方なく、ソーセージの端に歯を当てた。プチッと微かな音がしてそれが千切れ、唇がむぎゅっと重なった。
「……んんっ!」
奏人に首を押さえつけられて、暁斗は呻いた。口の中で転がるソーセージが熱いので、息を止めてしまう。
唇を解放され、暁斗はぷはっと息を吐いた。奏人は笑顔で口をもぐもぐさせる。
「……上書きできた?」
「ん、十分だよ」
暁斗はソーセージを飲み下し、嬉し気な奏人に答えて幸福を感じた。アメリカの大学院の仲間たちが一目置く知性を持ちながら、こんな子どもっぽい遊びに大喜びする、10歳年下の可愛い恋人。
俺は奏人さんのことを、まだまだ良く知らない。しかしそれは不安や不快感を催す思いではなかった。お互いを知っていく過程は楽しく、愛おしい。
白菜を美味しそうに頬張る奏人を見ながら、細長いものは当分、チュー食べしないといけなさそうだなと暁斗は思った。
〈ポッキーの日 完〉
今夜は鍋にしようと返事をしていた。準備の最後に椎茸の軸を落としていると、奏人が帰宅した。お疲れさま、と労う。
「ありがとう、全部任せちゃったね」
「ああ、いいよ……解決した?」
「うん、大丈夫」
交わされる何でもない会話も、楽しい。
「ご飯今スイッチ入れたばかりだから、ちょっと時間がかかる」
暁斗の言葉に、手を洗ってリビングに戻って来た奏人は、何故か明るい顔になった。
「暁斗さん、じゃあこれやろう」
奏人がソファに置いていた鞄から出したのは、知らぬ者の無いお菓子だった。
「ポッキー?」
「今日はポッキーの日だって、ゲームしようよ」
暁斗は奏人の右手の赤い箱を見て、沈黙した。奏人がどうしたの? と覗きこんでくる。
「奏人さんがやりたいのは……ポッキー罰ゲーム?」
奏人がきょとんとする。
「隅と隅から食べ合いするの」
「宴会の罰ゲームだろ?」
暁斗はつい憮然とした顔になってしまう。ポッキー罰ゲームにはろくな思い出が無い。
暁斗はジャンケンやあっち向いてホイなどの小さなゲームに弱いうえに、つまらない籤にはよく当たるため、これまでの人生のあらゆる宴のシーンで、不本意なポッキーチューを強いられて来ていた。そのお相手は、文化祭の打ち上げでの高校のクラスメイトに始まり、大学のゼミ友や担当教官、テニス部のあらゆる学年の者、バイトの先輩、会社の先輩や同僚はもちろん、取引先の担当者もいた。
「自分の結婚式の2次会でもやらされた」
「えっ、蓉子さんとじゃなく?」
「蓉子とはしたことない、男ばっかり」
暁斗のトラウマレベルの経歴に、奏人は複雑な顔をした。その意味を察して、暁斗は慌てて言う。
「どいつとも嬉しくなかったから!」
「……ゲイとしてそれもどうなんだろ? 中には暁斗さんとしたかった人がいた気がするなぁ」
「ノンケとしてもゲイとしても、少なくとも俺はしたくなかった……」
奏人は首を傾げたが、やけに明るく宣言した。
「じゃあ今から暁斗さんの嫌な思い出を上書きするね」
奏人はポッキーの箱を開けて、中袋を裂いた。本気か。暁斗は困惑する。
「僕、人づきあい悪い人生を送ってるから、やったことないんだ」
「学生時代のゼミや美術部でも?」
「うん、飲み会でそんなゲームしなかったよ」
暁斗は軽く衝撃を受ける。同じミッション系でも、大学の雰囲気が違うのか……。
奏人はポッキーの先を暁斗に差し出した。あまりに楽しそうな顔をしているので、がっかりさせたくなくて、チョコレートでコーティングされた細い棒を咥えた。奏人も同じようにすると、それだけで顔が近くて、照れてしまう。奏人の黒い瞳を見つめながら、暁斗は考える。よくこんなこと、好きでもない男とやってたな。これからは絶対拒否しよう。
どちらともなくポッキーを噛み始めると、2口目で鼻がぶつかり、3口目で唇の先が触れ合った。暁斗の胸がどきりと鳴る。奏人はぎゅっと、柔らかい唇を押しつけてくる。チョコレートの味と香りが、味覚と嗅覚に押し寄せた。……あ、気持ちいい。
唇を離すと、奏人はとろんとした目で暁斗を見つめた。何でこんなに色気を出してくるのだろうと、どきどきしてしまう。
「楽しいじゃん」
「いやまあそれは……したい人とするからだよ、でなけりゃ」
奏人はポッキーをもう1本袋から出した。半ば強制的に口に押し込まれる。ぽりぽりと軽い音が口の中でしたと思ったら、すぐに唇が重なる。
「ん……」
唇をくっつけたままポッキーを飲み下すのは少し難しい。静かでおかしな間が笑えてくる。奏人は暁斗の下唇を軽く吸い、ちゅっと音を立ててから唇を離す。
「暁斗さんとこれするの、すごく楽しいかも」
奏人は頬を上気させていた。いろいろ話を聞いていると、彼は厳格な家に育ち、友達とふざけながら遊んだり、大人からの叱責を伴ういたずらをしたりしたことがないようだ。そんな風に育った人が、大学生や社会人になってから、素質がない限り急に遊び好きになったりはしない。本当に、酒席で羽目を外す遊興の経験が無いのだろう。
そう考えると俄かに奏人が愛おしくなってきた。ヘビーな風俗業に長年従事していたのに、妙に純な彼が。暁斗は泥の中に咲く蓮を連想する。
暁斗は奏人に乞われるまま、その後3度ポッキーチューにつき合い、最後に彼を腕の中に取り込んだ。こんなことで喜んでくれるなら、ポッキーの日でなくたって、いつでもつき合おうと思う。
「チョコレートに入ってるカカオって、18世紀のヨーロッパでは媚薬だったんだよ」
奏人は耳のそばで言った。聞いたことがある。それだけカカオは貴重なものだったのだ。
「チョコレート食べる度に変な気分になったら、世話ないなぁ」
「でも僕はチョコレート食べたら幸せな気持ちになるよ」
顔を上げてにっこり笑う奏人が可愛くて、彼の小さな頭を右手で引き寄せキスをする。今度はちょっと、しっかりと。奏人の舌には、まだ媚薬の名残りがあった。
夕飯はキムチ鍋にした。賞味期限の近いソーセージをどさくさに紛れて投入しておくと、それを見つけた奏人が小鉢に移した。彼はソーセージを咥えたかと思うと、それを暁斗に向かって突き出してきた。暁斗は笑う。
「お行儀が悪いですよ」
奏人はうーうー、と変な声を出しながら、暁斗に督促する。
「えーっ、マジなの!」
「ふんふん」
暁斗は仕方なく、ソーセージの端に歯を当てた。プチッと微かな音がしてそれが千切れ、唇がむぎゅっと重なった。
「……んんっ!」
奏人に首を押さえつけられて、暁斗は呻いた。口の中で転がるソーセージが熱いので、息を止めてしまう。
唇を解放され、暁斗はぷはっと息を吐いた。奏人は笑顔で口をもぐもぐさせる。
「……上書きできた?」
「ん、十分だよ」
暁斗はソーセージを飲み下し、嬉し気な奏人に答えて幸福を感じた。アメリカの大学院の仲間たちが一目置く知性を持ちながら、こんな子どもっぽい遊びに大喜びする、10歳年下の可愛い恋人。
俺は奏人さんのことを、まだまだ良く知らない。しかしそれは不安や不快感を催す思いではなかった。お互いを知っていく過程は楽しく、愛おしい。
白菜を美味しそうに頬張る奏人を見ながら、細長いものは当分、チュー食べしないといけなさそうだなと暁斗は思った。
〈ポッキーの日 完〉
0
お気に入りに追加
57
あなたにおすすめの小説
食事届いたけど配達員のほうを食べました
ベータヴィレッジ 現実沈殿村落
BL
なぜ自転車に乗る人はピチピチのエロい服を着ているのか?
そう思っていたところに、食事を届けにきたデリバリー配達員の男子大学生がピチピチのサイクルウェアを着ていた。イケメンな上に筋肉質でエロかったので、追加料金を払って、メシではなく彼を食べることにした。
身体検査
RIKUTO
BL
次世代優生保護法。この世界の日本は、最適な遺伝子を残し、日本民族の優秀さを維持するとの目的で、
選ばれた青少年たちの体を徹底的に検査する。厳正な検査だというが、異常なほどに性器と排泄器の検査をするのである。それに選ばれたとある少年の全記録。
怒られるのが怖くて体調不良を言えない大人
こじらせた処女
BL
幼少期、風邪を引いて学校を休むと母親に怒られていた経験から、体調不良を誰かに伝えることが苦手になってしまった佐倉憂(さくらうい)。
しんどいことを訴えると仕事に行けないとヒステリックを起こされ怒られていたため、次第に我慢して学校に行くようになった。
「風邪をひくことは悪いこと」
社会人になって1人暮らしを始めてもその認識は治らないまま。多少の熱や頭痛があっても怒られることを危惧して出勤している。
とある日、いつものように会社に行って業務をこなしていた時。午前では無視できていただるけが無視できないものになっていた。
それでも、自己管理がなっていない、日頃ちゃんと体調管理が出来てない、そう怒られるのが怖くて、言えずにいると…?
赤ちゃんプレイの趣味が後輩にバレました
海野
BL
赤ちゃんプレイが性癖であるという秋月祐樹は周りには一切明かさないまま店でその欲求を晴らしていた。しかしある日、後輩に店から出る所を見られてしまう。泊まらせてくれたら誰にも言わないと言われ、渋々部屋に案内したがそこで赤ちゃんのように話しかけられ…?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる