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今宵貴方と見る月は
2 あきと
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「あ……きれい」
暁斗が流しの水を止めた時、そんな声がした。ベランダに面した窓のそばに、愛しい人は佇んでいる。
奏人が留学から戻って、3週間が経つ。暁斗は毎日、彼が傍らにいる幸せを噛みしめている。
「どうしたの、……月?」
暁斗はタオルハンガーの手拭いを抜いて、奏人のそばに行った。彼は白い顔を夜空に向け、優しい表情になっていた。この部屋で一緒に暮らすようになってから、これまで見たことが無かった顔を、沢山見せてくれる。そのことが、暁斗の多幸感を増幅し、おかげで「桂山課長は幸せボケ中」などと会社で言われる始末である。
窓から覗くと、大きな月が雲を振り払うように輝いていた。奏人は月が似合う。暁斗が彼に出会った頃から感じていることである。
「ああ、きれいだ……ちょっと月見しようか? ビールちょうど買ってきたばかりだし」
暁斗はものすごく素晴らしい提案をしたと悦に入りそうになったが、自分に向けられた奏人の黒い瞳に「何言ってんの?」と言いたげな色が浮かぶのを見て、少し焦る。
「……俺何か変なこと言った?」
「そんなことない、いいと思うよ」
奏人は食器を拭くのを手伝うつもりなのだろう、キッチンについて来た。月見に賛同はしてくれたらしい。たまに起こる、こんな小さな齟齬。交際を始めた頃は、こういう瞬間さえも楽しかったが、今は少し違う。奏人は独りで、想定外に長い異郷での暮らしを強いられた。それを癒したくて暁斗は心を砕くが、如何せん頭の中身や美意識などがかけ離れているせいか、空回りすることがある。
自分は奏人に相応しくない。それを突きつけられるようで、そういう時は少し気分が萎える。
暁斗は気を取り直し、何かのおまけで貰った花柄のレジャーシートを引っぱり出して、物干し竿を下ろしてからそれを敷く。酒とつまみを持って裸足でレジャーシートに上がって来た奏人が、再度空を見上げて言う。
「きれいだね、秋って感じがする」
暁斗はそれに小さく相槌を打った。月の光が零れて、家々の屋根を光らせているのが神秘的だ。やや冷えた風に乗って、微かに駅側の賑わいが伝わってくる。
このマンションは駅からさほど遠くないが、周りが静かなのが気に入っている。ファミリータイプの間取りの部屋が空いた時に、管理会社の好意で(男と一緒に暮らすと話しても、嫌な顔はされなかった)、賃貸契約に伴う手数料を安くしてもらい、2階下の単身用の部屋から引っ越した。奏人も気に入ってくれているようだし、暁斗は良かったと思っている。
奏人はレジャーシートの上にちょこんと正座して、お茶を点てる人のように、柿の種を皿に出した。彼は育ちが良いので、何かと所作が美しい。暁斗は彼に見惚れつつ、その横に胡座をかき、ビールの缶を皿の横に並べた。1本ずつ手に取って、タブを起こすと、美味しそうな音が立った。こういう飲みも悪くない。奏人は迷わずビールに口をつける。
「美味しい」
月を見上げながら言う奏人の姿に、暁斗の頬が我知らず緩む。彼は日本酒が一番好きなのだが、ビールもワインも飲む。留学先のアメリカでは口に合う酒が見つからず、断酒状態だったらしい。
「秋限定だって、チューハイもこういうの沢山出てた」
暁斗は秋らしい柄のビール缶を眺める。そうできるほど、月の光は強かった。奏人の頬が、淡く青白く光り、彼が妖精か何かに見えた。
「明日チューハイ買って来るよ、いろいろ試そうよ」
奏人は楽しそうに言う。そして良い音を立てながら、柿の種を食べた。意外とお菓子が好きな彼は、酒のアテにも柿の種やチョコレートを好む。そんなところも可愛らしい。
「奏人さん、少し慣れた?」
暁斗は奏人に訊いた。元々お喋りさんではないが、ここ数日、口数が少ないのが気になる。
「うん、ちょっと慌ただしくて……疲れるかな」
奏人は目を上げ、正直に答えてくれた。気の強さを示している切れ上がり気味の眉に、相応しくない言葉ではあった。
奏人は研究者の雛で、SEでもある。留学直前に退職したコンピュータ会社は、暁斗の勤務先の事務機器メーカーとは正反対に、感染症の拡大に伴うテレワークの広がりで大忙しになった。新規客の激増で対応が追いつかなくなり、奏人は会社から泣きつかれてしまい、時差が許す限り、リモートでアメリカから顧客に対応した。
そんな訳で自動的に復職した彼は、帰国後に必死で就職活動をせずに済んだのだが、留学前と同様に外回りも多いようだ。帰宅が暁斗より早ければ、食事の準備もしてくれるが、本当なら博士論文の準備もしたい筈なのに、負担になっているのではないか。
「あまり力になれないとは思うけど、困ったことがあれば何でも言って」
暁斗は彼の顔を覗きこむ。自分はきっとあまり頼りにならないが、彼の背負っている重いものを分けて貰うことくらいは、できる。
奏人は少し俯いた。困っているようにも見えた。
「……ありがとう、でも僕が何とかしなきゃいけないことだから」
奏人の返事は、ある意味予想通りだった。暁斗と同じくらい、彼は人に甘えるのが下手だ。大学生になって以来ずっと独りで暮らして来て、誰かと暮らすこと自体への戸惑いもありそうだった。
女性との結婚歴がある暁斗は、育ちや生活習慣の違う人と暮らし始めると、独特のストレスがかかることを学んでいるが、奏人には初めての経験だろう……同居人をどれだけ愛していたとしても、ストレスが消滅する訳ではない。
「……どうしたの?」
ビールの缶を長い指で包んで、奏人がこちらを見つめていた。大きな瞳に、月の光が微かに映り込んでいる。
「ごめんなさい、営業課が再編になって暁斗さんも仕事きついのに、勤務時間が短い僕がこんなこと言ったら……」
「いいよ」
暁斗は奏人の言葉を思わず遮った。奏人が身をこわばらせたのがわかる。言い方がきつくなったかも知れない。
「ごめん、どうしてそんなに遠慮するのかと思って、ちょっと悲しくなった」
暁斗は正直に気持ちを述べて、もう一度奏人の目を見た。やや緊張した面持ちだった彼は、耐えられなくなったように顔を斜め下に向けてから、ビールに口をつけた。
奏人は暁斗にとって、同性愛者の自覚を得て初めての恋人だ。夢中になったのは暁斗のほうで、一般企業の営業マンである暁斗には、彼は高嶺の花だった。昼間は優秀なSE、夜は高級デリバリーヘルスのトップスタッフ。ただの風俗ではない。セレブ専門・一見さんお断りの、知る人ぞ知る会員制クラブだ。スタッフは皆容姿に優れ、知性と教養を兼ね備え、最高級の接遇とテクニックで客をもてなす。暁斗は同性愛者の先輩を通じてこのクラブの存在を知り、お試しで派遣されてきた奏人を「買った」。
いろいろあって、奏人は10も歳上の「新規客」であり、真面目に働くくらいしか能のない自分を選んでくれた。だから、一生大切にしたいし、彼が与えてくれる以上のものを返したい。
いつも堂々と真っ直ぐ前を向いている奏人の、今夜の様子はどうしたことか。そんなに疲れているのか。体調が悪い訳ではなさそうだが。
奏人は時にとてもシャイな顔を見せる。それがまた暁斗のそこらじゅうをくすぐるのだが、それが過ぎる時は、すぐに解決できないようなことに気を揉んでいる場合が多い。
暁斗は彼の白くてすべすべした頬に、右手を伸ばした。指先が触れると温かくて、胸の中にじんわり幸福感が広がる。それでつい、掌で頬を包んでしまった。
「焦らないで、出発前も言ったような気がするけど」
自分を見つめる黒い瞳にゆっくり語りかけた。奏人はうん、と呟いてから少し目を細めて、心地よく感じていることを伝えてきた。
「会社がきつくて勉強ができないなら辞めたらいい、奏人さんは嫌かも知れないけど、あなた一人を養えるくらいの給料は貰ってる」
何だ、これじゃまるで古臭いプロポーズだ。暁斗は胸の内で失笑する。奏人がちらりと笑いを見せた。そして小さいがきっぱりと応じた。
「それは考えてない」
「そう言うと思った」
そう、これが奏人だ。遥か彼方に飛ぶことのできる翼を持つ、孤高の魔物。でも自分の傍らで、その傷だらけの翼を休めることを選んでくれた。暁斗の役目は、次の旅のために、自分の許に帰還する奏人の疲れを癒すことなのだ。考えながら暁斗は、ビールの缶や柿の種の入った皿を脇によける。
「……あ」
暁斗が奏人を腕の中に取り込むと、彼は可愛らしくてやや蠱惑的な声を洩らした。そしてすぐに上半身を預けてきた。心地良さげにひとつ息をつく音がする。やがて小さく、しかしはっきりと話し始める。
「暁斗さん、……大好き、だから……僕を見放さないで、傍にいて……僕が困らせたら我慢せずにそれは嫌だってはっきり言って、僕に愛想を尽かす前に」
言い終わると、奏人は腕を回してきて、暁斗の背中に触れた。見放すとか愛想を尽かすとか、それはこちらが心配していることなのに。
「奏人さんに愛想を尽かすとか、俺的に太陽が西から昇っても無い気がするんだけど……」
そう言うと、奏人は強くしがみついてくる。宥めるようにその細い背中を撫でた。こんなことを口にする辺り、かなり疲れているのだろう。顔を上げないのは、ありのままを口にして恥ずかしくなったからかと推測した。
「やっぱり怖いんだね……それは俺も同じだ、一緒にゆっくり歩いて不安を一個ずつ消して行こう」
暁斗は腕の力を強めて、自分にも言い聞かせながら、言った。まだ自分たちは、始まったばかりだ。お互いの気持ちを確かめ合い、二人で生きて行こうと決め、奏人の留学というブランク――もちろんそれも二人の間に強い絆をもたらした――を経て、実際にそれを始めて3週間。焦ることはない。もし何か間違えたとしても、いくらでも修正出来る。
暁斗は少し身体を離し、きれいな形の額に唇を押しつけた。そこはひんやりとしていた。奏人が僅かに身じろぎするのが愛おしい。俺の可愛い、大切なひと。そう思いながら彼を抱いていると、さっきキッチンで感じたもやもやしたものが、月の光に溶かされていくようだった。
奏人は身体を離して、暁斗を真っ直ぐ見上げてきた。大きな瞳は少し潤んでいて、月の光を受けて輝いている。ああ、とてもきれいだ。暁斗がそんな思いに脳内をふやかしていると、彼はそっと目を閉じた。迷わず唇を重ねる。
温かく柔らかい奏人の唇を味わっていると、身体の中に小さな灯が点るのを感じた。よく考えると、彼が戻ってから毎晩愛し合っている気がするが、ちょっとガツガツし過ぎかも知れない。もちろんそれはお互いの気持ちをより深く確認し合う行為ではあるけれど……それだけでなく、もっと、いやまあ、奏人とするのはとても好きだし、キスだけで、今だってパラダイスへの階段を2段飛ばしで半分くらい駆け上がってるんだけど。暁斗の理性の枠が溶解し始めた、その時。
「桂山さん! こんばんは! あっ、お邪魔しちゃったかなぁ」
やたらに楽しげな女の声が、暁斗の聴覚を殴打した。奏人が反射的に上半身を離す。暁斗は軽い殺意を抱いて声の出所を振り返る。
「高崎さんもこんばんは、ああ~、お月見ですか? 今日お月様きれいですよね~、あははっ」
防火板から顔を出していたのは、隣家の高2の娘だった。黙っていれば客観的に見て可愛い女子だが、これがなかなかグイグイ来るので、油断したことが悔やまれた。
「こんばんは、奈緒美さんは勉強の息抜き?」
暁斗は顔を戻し、羞恥のあまり俯いたが、奏人は笑顔で森山奈緒美に応じた。暁斗は彼のこういう図太さというか、太々しさにいつも驚かされるのだが、今も「キスしてましたけど何か?」と言わんばかりの平静ぶりである。
「そう、明日数学の小テストなの、クサクサしてきて空でも見ようと思ったら、もっといいもの見ちゃった、うっふ」
1時間半残業して帰ると、塾から帰ってきた奈緒美と一緒になるので、挨拶以上の会話を交わす関係ではあるが、どうも隣人として以上の興味を抱かれている気がしてならない暁斗である。
「……しばらく覗いてたでしょ、混ぜて欲しかったらそう言って」
暁斗は大人気ないと思いつつ、恨みがましい口調になる自分を抑えられない。奏人がぷぷっと笑った。
「いやぁそんな、大人の時間の邪魔なんてできません、一応未成年だし」
「もう邪魔してるから」
「桂山さん怒ってます? えーごめんなさぁい」
悪いなどと少しも思ってなさげな女子高生の声に、暁斗は辟易した。心の広い奏人は、楽しそうに笑みを浮かべ、奈緒美がベランダに身を乗り出していることの心配までしている。それを見ると、暁斗はまあいいか、という気分になってきた。
奈緒美は暁斗と奏人の年齢を訊くと、何故か感心し、満足したように部屋に戻って行った。会社でも感じることが多いが、若い女性の考えていることは、たまに面白く、大体は理解不能である。奈緒美の父親……どっしりとした体つきで、頭髪がやや寂しくなりつつある森山氏と同じ歳であるという事実とともに、自分が中年になった証拠のように思えて、ややへこむ。
「ねえねえ、桂山さんと高崎さんがお月見してた、あのふたり10歳離れてるんだって」
「まあ、あなたまた勉強もしないでお隣にちょっかい出してたの? 新婚さんなのよ、野暮なことはやめろって何回言ったらわかるの!」
隣家から漏れ出る会話に、思わず奏人と顔を見合わせた。奏人の顔にパッと明るい笑いが浮かんだことも嬉しくて、暁斗は声を立てて笑った。
「ああ、大声で笑ったら上に迷惑だな」
「角部屋で良かったね」
暁斗が座り直すと、奏人は肩に頭をもたせかけてきた。その姿勢で、ぽりぽりと音を立てて柿の種を食べるのが少し可笑しい。暁斗も、新しいビールの缶のタブを起こした。
3年半の間、こんな風に夜に月を見上げても、奏人はまだ寝ているのかなと思うと、ひとつ空の下という言葉が実感できなかった。だから今、彼が横に座って同じ月を見ているのは、当たり前の幸せではない。暁斗は考える。そういった小さな幸せを忘れないように、試練が与えられたのかも知れない。
華奢な奏人が月の光を浴びて、白い肌を明かりに透かせていると、彼がいつか月に戻ってしまうのではないかと、突拍子もない思いに捉われた。いや、と暁斗は思い直す。もし今、月から迎えが来たとしても、奏人はここに、自分の傍にいることを選んでくれるに違いない。根拠のない自信かも知れないが、きっとそうだろう。
これからもたぶん、ほんのちょっとしたことでお互い気持ちを揺らし、疑心暗鬼になってしまうだろう。でもそんな時こそ、時間を作って、きちんと向き合うのだ。そして将来、俺は奏人さんに看取ってもらい、幸福のうちに召される……いや、4年前にそんな話もしたが、ちょっとまだ考えたくないな。暁斗は一人で笑いそうになった。
風が階下の木々の葉をさわさわと揺らし、月がまた少し高くなった。二人の影も重なっている。あと少し、こうしていたい……好きな人といると、歌謡曲の使い古された歌詞のように本当に感じるものなんだなと、暁斗は思った。奏人は軽く目を閉じていた。暁斗の右腕に触れている身体が温かい。きっと眠いのだろう。彼への愛おしさが、暁斗の胸の内を喜びで満たしていった。
〈今宵貴方と見る月は 完〉
暁斗が流しの水を止めた時、そんな声がした。ベランダに面した窓のそばに、愛しい人は佇んでいる。
奏人が留学から戻って、3週間が経つ。暁斗は毎日、彼が傍らにいる幸せを噛みしめている。
「どうしたの、……月?」
暁斗はタオルハンガーの手拭いを抜いて、奏人のそばに行った。彼は白い顔を夜空に向け、優しい表情になっていた。この部屋で一緒に暮らすようになってから、これまで見たことが無かった顔を、沢山見せてくれる。そのことが、暁斗の多幸感を増幅し、おかげで「桂山課長は幸せボケ中」などと会社で言われる始末である。
窓から覗くと、大きな月が雲を振り払うように輝いていた。奏人は月が似合う。暁斗が彼に出会った頃から感じていることである。
「ああ、きれいだ……ちょっと月見しようか? ビールちょうど買ってきたばかりだし」
暁斗はものすごく素晴らしい提案をしたと悦に入りそうになったが、自分に向けられた奏人の黒い瞳に「何言ってんの?」と言いたげな色が浮かぶのを見て、少し焦る。
「……俺何か変なこと言った?」
「そんなことない、いいと思うよ」
奏人は食器を拭くのを手伝うつもりなのだろう、キッチンについて来た。月見に賛同はしてくれたらしい。たまに起こる、こんな小さな齟齬。交際を始めた頃は、こういう瞬間さえも楽しかったが、今は少し違う。奏人は独りで、想定外に長い異郷での暮らしを強いられた。それを癒したくて暁斗は心を砕くが、如何せん頭の中身や美意識などがかけ離れているせいか、空回りすることがある。
自分は奏人に相応しくない。それを突きつけられるようで、そういう時は少し気分が萎える。
暁斗は気を取り直し、何かのおまけで貰った花柄のレジャーシートを引っぱり出して、物干し竿を下ろしてからそれを敷く。酒とつまみを持って裸足でレジャーシートに上がって来た奏人が、再度空を見上げて言う。
「きれいだね、秋って感じがする」
暁斗はそれに小さく相槌を打った。月の光が零れて、家々の屋根を光らせているのが神秘的だ。やや冷えた風に乗って、微かに駅側の賑わいが伝わってくる。
このマンションは駅からさほど遠くないが、周りが静かなのが気に入っている。ファミリータイプの間取りの部屋が空いた時に、管理会社の好意で(男と一緒に暮らすと話しても、嫌な顔はされなかった)、賃貸契約に伴う手数料を安くしてもらい、2階下の単身用の部屋から引っ越した。奏人も気に入ってくれているようだし、暁斗は良かったと思っている。
奏人はレジャーシートの上にちょこんと正座して、お茶を点てる人のように、柿の種を皿に出した。彼は育ちが良いので、何かと所作が美しい。暁斗は彼に見惚れつつ、その横に胡座をかき、ビールの缶を皿の横に並べた。1本ずつ手に取って、タブを起こすと、美味しそうな音が立った。こういう飲みも悪くない。奏人は迷わずビールに口をつける。
「美味しい」
月を見上げながら言う奏人の姿に、暁斗の頬が我知らず緩む。彼は日本酒が一番好きなのだが、ビールもワインも飲む。留学先のアメリカでは口に合う酒が見つからず、断酒状態だったらしい。
「秋限定だって、チューハイもこういうの沢山出てた」
暁斗は秋らしい柄のビール缶を眺める。そうできるほど、月の光は強かった。奏人の頬が、淡く青白く光り、彼が妖精か何かに見えた。
「明日チューハイ買って来るよ、いろいろ試そうよ」
奏人は楽しそうに言う。そして良い音を立てながら、柿の種を食べた。意外とお菓子が好きな彼は、酒のアテにも柿の種やチョコレートを好む。そんなところも可愛らしい。
「奏人さん、少し慣れた?」
暁斗は奏人に訊いた。元々お喋りさんではないが、ここ数日、口数が少ないのが気になる。
「うん、ちょっと慌ただしくて……疲れるかな」
奏人は目を上げ、正直に答えてくれた。気の強さを示している切れ上がり気味の眉に、相応しくない言葉ではあった。
奏人は研究者の雛で、SEでもある。留学直前に退職したコンピュータ会社は、暁斗の勤務先の事務機器メーカーとは正反対に、感染症の拡大に伴うテレワークの広がりで大忙しになった。新規客の激増で対応が追いつかなくなり、奏人は会社から泣きつかれてしまい、時差が許す限り、リモートでアメリカから顧客に対応した。
そんな訳で自動的に復職した彼は、帰国後に必死で就職活動をせずに済んだのだが、留学前と同様に外回りも多いようだ。帰宅が暁斗より早ければ、食事の準備もしてくれるが、本当なら博士論文の準備もしたい筈なのに、負担になっているのではないか。
「あまり力になれないとは思うけど、困ったことがあれば何でも言って」
暁斗は彼の顔を覗きこむ。自分はきっとあまり頼りにならないが、彼の背負っている重いものを分けて貰うことくらいは、できる。
奏人は少し俯いた。困っているようにも見えた。
「……ありがとう、でも僕が何とかしなきゃいけないことだから」
奏人の返事は、ある意味予想通りだった。暁斗と同じくらい、彼は人に甘えるのが下手だ。大学生になって以来ずっと独りで暮らして来て、誰かと暮らすこと自体への戸惑いもありそうだった。
女性との結婚歴がある暁斗は、育ちや生活習慣の違う人と暮らし始めると、独特のストレスがかかることを学んでいるが、奏人には初めての経験だろう……同居人をどれだけ愛していたとしても、ストレスが消滅する訳ではない。
「……どうしたの?」
ビールの缶を長い指で包んで、奏人がこちらを見つめていた。大きな瞳に、月の光が微かに映り込んでいる。
「ごめんなさい、営業課が再編になって暁斗さんも仕事きついのに、勤務時間が短い僕がこんなこと言ったら……」
「いいよ」
暁斗は奏人の言葉を思わず遮った。奏人が身をこわばらせたのがわかる。言い方がきつくなったかも知れない。
「ごめん、どうしてそんなに遠慮するのかと思って、ちょっと悲しくなった」
暁斗は正直に気持ちを述べて、もう一度奏人の目を見た。やや緊張した面持ちだった彼は、耐えられなくなったように顔を斜め下に向けてから、ビールに口をつけた。
奏人は暁斗にとって、同性愛者の自覚を得て初めての恋人だ。夢中になったのは暁斗のほうで、一般企業の営業マンである暁斗には、彼は高嶺の花だった。昼間は優秀なSE、夜は高級デリバリーヘルスのトップスタッフ。ただの風俗ではない。セレブ専門・一見さんお断りの、知る人ぞ知る会員制クラブだ。スタッフは皆容姿に優れ、知性と教養を兼ね備え、最高級の接遇とテクニックで客をもてなす。暁斗は同性愛者の先輩を通じてこのクラブの存在を知り、お試しで派遣されてきた奏人を「買った」。
いろいろあって、奏人は10も歳上の「新規客」であり、真面目に働くくらいしか能のない自分を選んでくれた。だから、一生大切にしたいし、彼が与えてくれる以上のものを返したい。
いつも堂々と真っ直ぐ前を向いている奏人の、今夜の様子はどうしたことか。そんなに疲れているのか。体調が悪い訳ではなさそうだが。
奏人は時にとてもシャイな顔を見せる。それがまた暁斗のそこらじゅうをくすぐるのだが、それが過ぎる時は、すぐに解決できないようなことに気を揉んでいる場合が多い。
暁斗は彼の白くてすべすべした頬に、右手を伸ばした。指先が触れると温かくて、胸の中にじんわり幸福感が広がる。それでつい、掌で頬を包んでしまった。
「焦らないで、出発前も言ったような気がするけど」
自分を見つめる黒い瞳にゆっくり語りかけた。奏人はうん、と呟いてから少し目を細めて、心地よく感じていることを伝えてきた。
「会社がきつくて勉強ができないなら辞めたらいい、奏人さんは嫌かも知れないけど、あなた一人を養えるくらいの給料は貰ってる」
何だ、これじゃまるで古臭いプロポーズだ。暁斗は胸の内で失笑する。奏人がちらりと笑いを見せた。そして小さいがきっぱりと応じた。
「それは考えてない」
「そう言うと思った」
そう、これが奏人だ。遥か彼方に飛ぶことのできる翼を持つ、孤高の魔物。でも自分の傍らで、その傷だらけの翼を休めることを選んでくれた。暁斗の役目は、次の旅のために、自分の許に帰還する奏人の疲れを癒すことなのだ。考えながら暁斗は、ビールの缶や柿の種の入った皿を脇によける。
「……あ」
暁斗が奏人を腕の中に取り込むと、彼は可愛らしくてやや蠱惑的な声を洩らした。そしてすぐに上半身を預けてきた。心地良さげにひとつ息をつく音がする。やがて小さく、しかしはっきりと話し始める。
「暁斗さん、……大好き、だから……僕を見放さないで、傍にいて……僕が困らせたら我慢せずにそれは嫌だってはっきり言って、僕に愛想を尽かす前に」
言い終わると、奏人は腕を回してきて、暁斗の背中に触れた。見放すとか愛想を尽かすとか、それはこちらが心配していることなのに。
「奏人さんに愛想を尽かすとか、俺的に太陽が西から昇っても無い気がするんだけど……」
そう言うと、奏人は強くしがみついてくる。宥めるようにその細い背中を撫でた。こんなことを口にする辺り、かなり疲れているのだろう。顔を上げないのは、ありのままを口にして恥ずかしくなったからかと推測した。
「やっぱり怖いんだね……それは俺も同じだ、一緒にゆっくり歩いて不安を一個ずつ消して行こう」
暁斗は腕の力を強めて、自分にも言い聞かせながら、言った。まだ自分たちは、始まったばかりだ。お互いの気持ちを確かめ合い、二人で生きて行こうと決め、奏人の留学というブランク――もちろんそれも二人の間に強い絆をもたらした――を経て、実際にそれを始めて3週間。焦ることはない。もし何か間違えたとしても、いくらでも修正出来る。
暁斗は少し身体を離し、きれいな形の額に唇を押しつけた。そこはひんやりとしていた。奏人が僅かに身じろぎするのが愛おしい。俺の可愛い、大切なひと。そう思いながら彼を抱いていると、さっきキッチンで感じたもやもやしたものが、月の光に溶かされていくようだった。
奏人は身体を離して、暁斗を真っ直ぐ見上げてきた。大きな瞳は少し潤んでいて、月の光を受けて輝いている。ああ、とてもきれいだ。暁斗がそんな思いに脳内をふやかしていると、彼はそっと目を閉じた。迷わず唇を重ねる。
温かく柔らかい奏人の唇を味わっていると、身体の中に小さな灯が点るのを感じた。よく考えると、彼が戻ってから毎晩愛し合っている気がするが、ちょっとガツガツし過ぎかも知れない。もちろんそれはお互いの気持ちをより深く確認し合う行為ではあるけれど……それだけでなく、もっと、いやまあ、奏人とするのはとても好きだし、キスだけで、今だってパラダイスへの階段を2段飛ばしで半分くらい駆け上がってるんだけど。暁斗の理性の枠が溶解し始めた、その時。
「桂山さん! こんばんは! あっ、お邪魔しちゃったかなぁ」
やたらに楽しげな女の声が、暁斗の聴覚を殴打した。奏人が反射的に上半身を離す。暁斗は軽い殺意を抱いて声の出所を振り返る。
「高崎さんもこんばんは、ああ~、お月見ですか? 今日お月様きれいですよね~、あははっ」
防火板から顔を出していたのは、隣家の高2の娘だった。黙っていれば客観的に見て可愛い女子だが、これがなかなかグイグイ来るので、油断したことが悔やまれた。
「こんばんは、奈緒美さんは勉強の息抜き?」
暁斗は顔を戻し、羞恥のあまり俯いたが、奏人は笑顔で森山奈緒美に応じた。暁斗は彼のこういう図太さというか、太々しさにいつも驚かされるのだが、今も「キスしてましたけど何か?」と言わんばかりの平静ぶりである。
「そう、明日数学の小テストなの、クサクサしてきて空でも見ようと思ったら、もっといいもの見ちゃった、うっふ」
1時間半残業して帰ると、塾から帰ってきた奈緒美と一緒になるので、挨拶以上の会話を交わす関係ではあるが、どうも隣人として以上の興味を抱かれている気がしてならない暁斗である。
「……しばらく覗いてたでしょ、混ぜて欲しかったらそう言って」
暁斗は大人気ないと思いつつ、恨みがましい口調になる自分を抑えられない。奏人がぷぷっと笑った。
「いやぁそんな、大人の時間の邪魔なんてできません、一応未成年だし」
「もう邪魔してるから」
「桂山さん怒ってます? えーごめんなさぁい」
悪いなどと少しも思ってなさげな女子高生の声に、暁斗は辟易した。心の広い奏人は、楽しそうに笑みを浮かべ、奈緒美がベランダに身を乗り出していることの心配までしている。それを見ると、暁斗はまあいいか、という気分になってきた。
奈緒美は暁斗と奏人の年齢を訊くと、何故か感心し、満足したように部屋に戻って行った。会社でも感じることが多いが、若い女性の考えていることは、たまに面白く、大体は理解不能である。奈緒美の父親……どっしりとした体つきで、頭髪がやや寂しくなりつつある森山氏と同じ歳であるという事実とともに、自分が中年になった証拠のように思えて、ややへこむ。
「ねえねえ、桂山さんと高崎さんがお月見してた、あのふたり10歳離れてるんだって」
「まあ、あなたまた勉強もしないでお隣にちょっかい出してたの? 新婚さんなのよ、野暮なことはやめろって何回言ったらわかるの!」
隣家から漏れ出る会話に、思わず奏人と顔を見合わせた。奏人の顔にパッと明るい笑いが浮かんだことも嬉しくて、暁斗は声を立てて笑った。
「ああ、大声で笑ったら上に迷惑だな」
「角部屋で良かったね」
暁斗が座り直すと、奏人は肩に頭をもたせかけてきた。その姿勢で、ぽりぽりと音を立てて柿の種を食べるのが少し可笑しい。暁斗も、新しいビールの缶のタブを起こした。
3年半の間、こんな風に夜に月を見上げても、奏人はまだ寝ているのかなと思うと、ひとつ空の下という言葉が実感できなかった。だから今、彼が横に座って同じ月を見ているのは、当たり前の幸せではない。暁斗は考える。そういった小さな幸せを忘れないように、試練が与えられたのかも知れない。
華奢な奏人が月の光を浴びて、白い肌を明かりに透かせていると、彼がいつか月に戻ってしまうのではないかと、突拍子もない思いに捉われた。いや、と暁斗は思い直す。もし今、月から迎えが来たとしても、奏人はここに、自分の傍にいることを選んでくれるに違いない。根拠のない自信かも知れないが、きっとそうだろう。
これからもたぶん、ほんのちょっとしたことでお互い気持ちを揺らし、疑心暗鬼になってしまうだろう。でもそんな時こそ、時間を作って、きちんと向き合うのだ。そして将来、俺は奏人さんに看取ってもらい、幸福のうちに召される……いや、4年前にそんな話もしたが、ちょっとまだ考えたくないな。暁斗は一人で笑いそうになった。
風が階下の木々の葉をさわさわと揺らし、月がまた少し高くなった。二人の影も重なっている。あと少し、こうしていたい……好きな人といると、歌謡曲の使い古された歌詞のように本当に感じるものなんだなと、暁斗は思った。奏人は軽く目を閉じていた。暁斗の右腕に触れている身体が温かい。きっと眠いのだろう。彼への愛おしさが、暁斗の胸の内を喜びで満たしていった。
〈今宵貴方と見る月は 完〉
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