上 下
1 / 342
今宵貴方と見る月は

1 かなと

しおりを挟む
「あ……きれい」
 奏人かなとの口から思わずそんな言葉が出た。わずかに雲がたなびく夜空に鎮座する、堂々たる月。まだ少し満月に足りないようだ。
「どうしたの、……月?」
 暁斗が手を拭きながら、ベランダに面した窓の前に立つ奏人のほうへやってきた。奏人が夕飯を作ったので、洗い物をしてくれていたのだ。決めているわけではないが、この3週間で何となく家事分担の流れが出来つつあり、一緒に暮らしている実感が湧く。それは奏人の胸の中をくすぐったくする。
 暁斗は奏人の横に来て、同じように夜空を見上げた。実は彼の横顔は、パーツの均整が取れていて美しく、絵になる。たぶんそのことに気づいている人はそんなにいない。奏人は一人で優越感に浸る。
「ああ、きれいだ……ちょっと月見しようか? ビールちょうど買ってきたばかりだし」
 暁斗の突拍子もない提案に、奏人は2、3度瞬いた。彼のチョコレート色の瞳に、微かな戸惑いのようなものが浮かぶ。あっ、別に嫌な訳じゃない。そう言おうとしたら、彼のほうから言葉が出た。
「……俺何か変なこと言った?」
「そんなことない、いいと思うよ」
 奏人は食器拭きを手伝うべく、暁斗についてキッチンに戻った。こんな小さな齟齬そごさえ愛おしい。ただいつも、暁斗を困らせるのは自分ばかりだ。そんなつもりは無いのに、奏人もそれをいつも上手く言えない。暁斗は優し過ぎるから、不用意な言葉で傷つけたくないし、……嫌われたくない。
 親しくなった頃から、いつか彼が、自分に振り回されて疲れ果てるだろうという思いが拭えない。奏人は、胸の中を温かくするものの中に、苦い雑味が混じることを自覚せざるを得なかった。

 奏人は暁斗が用意してくれたこの部屋が好きだ。少し古いけれど、南向きで明るいし、ベランダが広くていい。奏人はこれまでの人生で、一番高い場所に生活の基盤を置いたことになる。地上7階からの眺めは、天気が良くても悪くても好ましく、広いベランダは洗濯が沢山干せる。
 暁斗は物干し竿を片付け、レジャーシートを探し出して来て、ベランダに敷いた。奏人はビールを4缶と柿の種を持ち、ベランダに出た。雲が散ると、ほぼ丸の月が、その神聖な光を地上に降らせていた。
「きれいだね、秋だなって感じがする」
 遠い場所から虫の鳴き声が聞こえた。腕を撫でる風は少し温度が低い。奏人はレジャーシートに正座して、柿の種を開封し、皿に出した。さらさらと軽い音がする。
 暁斗はレジャーシートに胡座あぐらで座る。背の高い彼は、こういう所作が男らしくて見惚みとれる。柿の種の入った皿を二人の間に置き、缶ビールのタブを起こすと、プシッという音が辺りに響いたような気がした。……今この世界に、二人きりでいるような錯覚。
「美味しい」
 ひと口ビールを飲んでから、奏人は月を見て呟く。
「秋限定だって、チューハイもこういうの沢山出てた」
 暁斗はビールの缶を見ながら言った。月の光が、缶の柄を浮き上がらせ、彼の髪の色を明るく透かす。
「明日チューハイ買って来るよ、いろいろ試そうよ」
 奏人は言って柿の種を口に入れた。自分がこの豆入りのお菓子が好きなことを、暁斗はちゃんと覚えてくれている。そのことが嬉しい。
「奏人さん、少し慣れた?」
 暁斗が出し抜けに訊いてきた。一瞬何を言われたのか分からなかったが、アメリカから戻ってからのことを指していると理解する。
「うん、ちょっと慌ただしくて……疲れるかな」
 奏人はカリフォルニアの大学に、パンデミックのせいで、 3年半も居る羽目になった。修士論文を少し時間をかけて仕上げたが、それでもあと1年早く帰国できる筈だった。奏人を含む留学生たちは、観光どころかろくに買い物にも出られない時期もあった。
 ひたすら読書と担当教官とのディスカッションをして、寮に直帰し友人たちとマスク越しに、時間の上限を決めて語らう日々を送っていたため、出勤すれば外回りに打ち合わせという今の生活に、目が回りそうである……週3日しか出勤していないし、留学前に馴染んでいた仕事だというのに。
「あまり力になれないとは思うけど、困ったことがあれば何でも言って」
 暁斗に優しい表情で覗きこまれて、奏人は申し訳ない気持ちになり俯くしかなかった。
「……ありがとう、でも僕が何とかしなきゃいけないことだから」
 可愛げの無い言い方になり、奏人は悔やむ。言葉を探して、暁斗を見つめた。中身が少なくなったビールの缶を、無意識に両手で握っていた。
「……どうしたの?」
 暁斗は僅かに奏人のほうに顔を近づけて、問うた。優しくしてくれるのが、今は何故か辛い……何か、とにかく、謝るべきだと考える。精一杯の誠意をこめて。
「ごめんなさい、営業課が再編になって暁斗さんも仕事きついのに、勤務時間が短い僕がこんなこと言ったら……」
「いいよ」
 暁斗にしては強い口調で、奏人はぎくりとした。怒った? どうして? 3つの営業課が1つになって、2課の課長が転勤希望を受け入れられたこともあって、1課の課長だった暁斗がまとめ課長になった。部下も仕事も一気に増えて、感染症のせいでお客さんも戻っていないのに、無駄に忙しいと話していなかったか。それに比べたら週3日ちんたら働いている自分が、疲れるだなんて口にするべきでない。
 奏人が驚き微かに怯えたのを察したのだろう、暁斗は少しうろたえる。
「ごめん、どうしてそんなに遠慮するのかと思って、ちょっと悲しくなった」
 そう言う暁斗は、叱られてしょぼんとする大型犬のようだった。そのくせ視線を外してくれないので、奏人が先に目を逸らした。残り少ないビールを一気に喉に流し込む。
 あちらにいる間、ほとんど日本語を話さなかったせいだろうか。以前は言葉だけでも暁斗の心を掴む自信があったけれど、今は何かと上手く伝えられない。情けなくて、奏人は泣きそうになるのをこらえた。
 その時、左の頬が温かくて大きな手に包まれた。その手の持ち主は、少し困ったような、でも優しい微笑を浮かべている。
「焦らないで、出発前も言ったような気がするけど」
 奏人はうん、と小さく呟いた。暁斗の手は、心地良かった。……焦っているのだろうか? 何を? 暁斗としっかり結ばれて、自分の不在だった期間を埋めたい思いは、確かにある。
「会社がきつくて勉強ができないなら辞めたらいい、奏人さんは嫌かも知れないけど、あなた一人を養えるくらいの給料は貰ってる」
 男が女にプロポーズする時って、ドラマや小説の中でこういうこと言うんだよな。逆光になっていても、自分に優しい微笑を向けているとわかる暁斗の顔を見ながら、奏人は思う。蓉子ようこさん――別れた奥さんには、何と言ったんだろう。
「それは考えてない」
「そう言うと思った」
 暁斗は二人の間に並ぶビールの缶と柿の種の入った皿をどけて、奏人ににじり寄り、奏人の上半身を長い腕でゆっくりと包んだ。
「……あ」
 思わず声が出た。温かい。奏人は身体の力を抜いて、体重を暁斗に預けた。彼にこんな風にされるのが大好きだ。それまで誰から同じような抱擁を受けても、こんな蕩けてしまいそうになることはなかった。それでつい、鼓動の高まりに押されるように言葉が口を突いて出た。
「暁斗さん、……大好き、だから……僕を見放さないで、そばにいて……僕が困らせたら我慢せずにそれは嫌だってはっきり言って、僕に愛想を尽かす前に」
 ……喋り過ぎた、と奏人は恥ずかしくなる。熱くなった顔を見られないよう、その胸に顔を埋めてしまう。少し迷ってから、広い背中にそっと手を添えた。
「奏人さんに愛想を尽かすとか、俺的に太陽が西から昇っても無い気がするんだけど……」
 暁斗の声に照れが混じった。嬉しいことを言ってくれる。彼は自分の言葉の破壊力が割に大きいという自覚が無い。奏人が無意識のうちに彼の身体に回した腕に力を入れたので、彼の腕も力強く奏人の背を抱き、大きな手が肩甲骨の間を撫でてくれた。
「やっぱり怖いんだね……それは俺も同じだ、一緒にゆっくり歩いて不安を一個ずつ消して行こう」
 額に押しつけられた暁斗の唇は、ビールのせいか、やや熱を帯びていた。何となく、胸の奥がむずむずして来た。
 この家に帰って来てから今日まで、ほぼ毎晩暁斗と求め合っているけれど、それも焦り半分の行為のような気がする。でも今夜……これから風呂に入って、彼が奏人と暮らすにあたり、一番時間をかけて探したらしいベッドに入ったら、ちゃんと余裕を持ち、互いに向き合って愛し合おう。あ、まあ別にしなくても、こんな風に抱き合うだけでもいいけれど。でもちょっと、気持ちよくしてくれたら嬉しいかも。
 暁斗の頭上に輝く月が、自分たちを祝福しているように思える。奏人は少し身体を離して、嬉しそうに微笑む暁斗を見つめてから目を閉じた。暁斗の唇が、優しく奏人のそれを包み込む。ああ、気持ちいい。彼とキスするのも大好きだ。ちょっと不器用だけど、その唇は弾力があって、実はよく手入れされていて……暁斗は外回りをするので、相手に視覚的な不快感を与えないよう、こんなところにも気を遣っているのだ。今はマスクをしているのに、ただ真面目に、仕事のためにそうしているところが愛おしい。その生真面目さに、彼自身が意識していない熱を注いで、もっと自分を慈しんで欲しい。奏人が頭の中をほわんと緩めた、その瞬間。
桂山かやまさん! こんばんは! あっ、お邪魔しちゃったかなぁ」
 女性の高い声が良いムードを切り裂いた。暁斗の背後にある、防火の仕切り戸の脇から、小さな顔が覗いていた。奏人は驚いて、思わず暁斗から身を引く。暁斗もそちらを振り返った。
高崎たかさきさんもこんばんは、ああ~、お月見ですか? 今日お月様きれいですよね~、あははっ」
 若い女、正確には女子高生が楽しくてたまらないという笑いを発した。彼女は隣家の娘だ。
「こんばんは、奈緒美なおみさんは勉強の息抜き?」
 暁斗は無邪気な隣人の覗き見にダメージを受けた様子なので、奏人がにこやかに挨拶した。好き合っている二人がキスしているのだから、そんな罪悪感に満ちた顔をしなくてもいいのに、と暁斗を見て笑いを堪えながら。
「そう、明日数学の小テストなの、クサクサしてきて空でも見ようと思ったら、もっといいもの見ちゃった、うっふ」
「……しばらく覗いてたでしょ、混ぜて欲しかったらそう言って」
 暁斗は高校生相手に、恨みがましい口調になった。それが可笑しくて、奏人は思わず吹き出した。森山奈緒美はベランダの手摺りから上半身を乗り出すようにしている。
「いやぁそんな、大人の時間の邪魔なんてできません、一応未成年だし」
「もう邪魔してるから」
「桂山さん怒ってます? えーごめんなさぁい」
 お隣の森山家は、両親と娘2人の4人家族だ。奏人が帰国して、スーツケースを引いてこの部屋に初めて暁斗に案内された時、たまたま買い物から戻ってきた森山夫人と奈緒美と顔を合わせた。奏人が頭を下げて挨拶すると、森山夫人は奏人の頭から足までに素早く視線を送り、目を丸くした。暁斗がこの部屋に越して来た時、留学中の恋人が戻ったら一緒に住むつもりだと、彼女に話していたからだ。まあ、普通は女が来ると思うだろう。しかし母娘は、なるほど、想定外でしたと朗らかに笑った。
 暁斗は隣人に自分を連れ合いだと紹介してくれたことも、隣家の人たちが大らかに受け止めてくれたことも嬉しかった。
 奈緒美は、初めて身近に接するゲイカップルにやたらと興味を示し、休日に2人でベランダに出て洗濯を干す時などを狙って、接触を試みてくる。いつもは可愛らしいなと思う程度だが、今夜は少し油断したと感じてしまう。
「でも仲良しだし羨ましいな~、桂山さんと高崎さんって幾つ離れてるんですか?」
 奈緒美はベランダの外からこちらを覗く体勢を崩さない。まさか落ちはしないだろうが、奏人は少し心配になる。
「10離れてます……こっち来て話しますか?」
「いやそんな、お母さんに叱られます……10歳? あれっ、私もしかしたら高崎さんも桂山さんも歳を読み違えてる?」
「俺たちのこと幾つくらいと思ってるの?」
 いつの間にこの子とこんな気安く話すようになったのだろう? 暁斗は一部上場企業のトップセールスだという以上に、人と親しくなるのが早い。そんな彼を奏人は不思議な人だといつも思う。
 暁斗の問いに奈緒美は少し顔を上げて、うーん、と言った。
「桂山さんが40前で高崎さんが25、6くらいかなって」
「俺は42で奏人さんが32だよ」
 奈緒美は月明かりのなか、目も口も思い切り開いた。
「うっそ、桂山さんうちの父親と一緒? 高崎さん若く見え過ぎでしょ⁉」
 奏人は苦笑した。子どもっぽく見られるのは、最早自分のアイデンティティだ。アメリカでは寮に到着するなり、ジュニアハイの子がどうしてこんなところにいるんだ、迷ったのかと言われた。
 奈緒美は月に向かって、おおお、と意味不明な悶え声をあげた。暁斗が低く笑う。
「何かやる気復活しました、ありがとうございましたっ、お邪魔しましたぁ」
 奈緒美は何に満足したのか、こちらに手を振って上半身を引っ込めた。手を振り返す暇も無かった。網戸がガラリと開き、閉まる音がした後、彼女が家族に話す声がした。この時期は夜風が心地良く、ベランダ側の窓を開けている家も多い。
「ねえねえ、桂山さんと高崎さんがお月見してた、あのふたり10歳離れてるんだって」
「まあ、あなたまた勉強もしないでお隣にちょっかい出してたの? 新婚さんなのよ、野暮なことはやめろって何回言ったらわかるの!」
 奏人は暁斗と顔を見合わせて、声をあげて笑った。母娘共々、何かズレている。奏人は暁斗の実家の人々の顔を咄嗟とっさに思い浮かべたが、一緒にして欲しくなさそうなので、黙って一人で笑う。
「ああ、大声で笑ったら上に迷惑だな」
「角部屋で良かったね」
 奏人は改めて暁斗の肩に頭をもたせかけ、柿の種を口に入れた。噛み潰すと、香ばしい匂いが鼻腔を抜ける。暁斗が2本目のビールのタブを起こす音がした。

 すっかり雲が晴れて、月は煌々と輝いていた。満月に少し足りなくても、美しい姿だった。
 アメリカの大学の寮で仲良くなった社会経済学を専攻するフランス人は、日本のアニメ好きが高じて、独学で簡単な日本語を習得していた。奏人が月を見ていると、頭がおかしくなるよと笑ってから(あちらでは古くから、月の光をあまり浴びると気が狂うと言われていたので)、日本人はみんなそうやって、プランセス・デュ・ラ・リューン月のお姫様みたいに月を恋しがるのかと訊いてきた。日本は秋に月が大きく美しく見えて、たぶん日本人は、春の花見のように秋の月見が好きだし、自分も優しい月の光を浴びると気持ちが洗われる気がすると奏人は答えた。以来彼女がたまに奏人をカグヤと呼ぶので、その度に笑いそうになった。
 僕は月には戻らない。何故ならここに愛しい人がいるから。奏人は横に座る暁斗を見やり、彼も同じ月を見つめているのを確認する。こんな小さな日常のできごとも、それ自体がかけがえのない幸福であるいうことを、奏人は知っている。明日から続く毎日がどんなものであろうとも、自分自身と暁斗を信じて歩いて行こう。そう思えることもまた、幸せの証拠だ。奏人は恋人のぬくもりを左の腕に感じながら、そっと目を閉じた。
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

雪のソナチネ

BL / 完結 24h.ポイント:14pt お気に入り:20

【完結】呪われ王子は生意気な騎士に仮面を外される

BL / 完結 24h.ポイント:191pt お気に入り:506

転生先の異世界で温泉ブームを巻き起こせ!

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:92pt お気に入り:360

✿エロBL小話をAI挿絵と共に【1】✿

BL / 完結 24h.ポイント:49pt お気に入り:50

僕には幸福だけれどきっと君にとっては不幸だろう。

青春 / 連載中 24h.ポイント:28pt お気に入り:2

【R18】孤独な風俗体験記

大衆娯楽 / 連載中 24h.ポイント:7pt お気に入り:11

リシェールは旦那様から逃げられない

BL / 連載中 24h.ポイント:28pt お気に入り:1,008

秘密の師弟関係

恋愛 / 完結 24h.ポイント:63pt お気に入り:792

【完結】カエルレア探偵事務所《上》 〜始まりの花〜

ミステリー / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:3

処理中です...