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衝撃

8月⑨

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 お盆は先生方も休みたいということなのだろう、文化系部は明日から4日間の活動の休止を言い渡された。この期間、教室の鍵を貸してくれない。例年のことだが、三喜雄にしてみれば塾も休みなので、ちょっと時間がもったいない気がする。
 高崎は昼から美術室に行くと言って、10時半から三喜雄につき合ってくれていた。今日は彼に、大きな缶のクッキーアソートを渡した。普段食べないチョコレートをしばしば買う息子の行動に不信感を抱いた三喜雄の母が、しょっちゅう下級生に学校で伴奏を頼んでいると息子から聞かされ、驚いて買ってきたのである。
 高崎はクッキーを恭しく受け取り、よろしくお伝えくださいと頭を下げた。

「うふふ、片山先輩のお母さんってどんな人なのかな」
「何処にでもいるおばさんだ」
「お姉さんもバンドされてるんですよね、音楽好きはお母さんからですか?」
「母親の両親かな、どっちも今も歌ってる」
「へぇ、素敵ですね」

 いつの間にか三喜雄は、クラスやグリーの同級生にも話したことのないネタを、高崎に提供するようになっている。
 雑談が一段落着くと、高崎はピアノの鍵盤に向かい、軽く目を閉じてふたつ深呼吸した。それを見た三喜雄も、気持ちを鎮めて集中する。
 憂いを帯びた引きずる音形の前奏から、テンポを確認する。歌はあくまでも響きと伸びやかさを保って始める。

「はるのよい、さくらが、さくと……」

 高崎の伴奏はあくまでも静かだった。中田喜直の「さくら横ちょう」が過去形なら、別宮貞雄のこれは過去完了形かなと彼と話し合った。とっくの昔に終わり忘れていた筈の恋を、桜が不意に思い出させる。語り手の胸に去来するのは、諦念と微かな未練だろうか。
 先週末散々練習したアレグレットは、三喜雄自身も驚くほどテンポがするりと掴めた。

「おもいだす、こいのきのう……きみはもうここにいないと」

 引きずる音形がアダージョで戻ってくる。高崎は三喜雄にちらりと目配せして、レチタティーヴォに入る和音を響かせた。

「あいみるのときはなかろう……」

 和音が変わる。

「そのごどう……しばらくねぇと」

 ピアニストと同時に呼吸できたのを感じた。

「いったってはじまらないと、こころえてはなでもみよう……」

 テンポが次々と変わる部分だが、そのまま「春の宵」の3度目に滑らかに入ることができた。

「はなばかり、さくらよこちょう」

 引きずる音形が小さくなり、低い音で消えていった。残響がかき消えた瞬間、三喜雄は軽い眩暈を覚える。
 今日はグラウンドは静かだったが、窓を閉めていても蝉の声が聞こえていた。しかし曲が始まって3分間は、自分の声とピアノだけしか聴覚に触れないくらい、本当に集中していた。

「レコーダー持って来たらよかった」

 三喜雄は高崎に苦笑を向けた。良い演奏ができたと思った時に限って、録音していない。高崎も目に笑いを浮かべる。

「ちょっとびっくりです、初めてこの楽譜を片山先輩に見せてもらったのはそんな前だったかなって」

 短い期間でよくここまでやったとは、藤巻からも言ってもらえた。三喜雄は素直に嬉しくなる。

「この2週間、割と死ぬ気でやった」
「わ、そう言えるのが何か羨ましいです」

 高崎の笑顔が何げに複雑に見えた。

「僕は器用貧乏だから、そういうの無くて……あ、これ全然自慢じゃないです」

 藤巻の言った通りなのかもしれない。この才能豊かな2年生は、何でもできるけれど必死になったことが無い。それは、寂しいことなのかもしれない。
 ならば、巻き込んでやろう。三喜雄は言った。

「2曲とももう少し、細かく見れるかな」

 はい、と迷わず答えた高崎の瞳に、何かきらっとしたものを見た気がした。

「そうそう、予選の講評でイタリア語の発音のことを指摘されたって言ってましたよね」

 高崎はヘンデルの楽譜を広げた。

「片山先輩たぶん、tとdの発音苦手ですよね?」

 痛い指摘である。不得意なので、発音自体が遅れ気味だと藤巻からも言われている。

「『さくら横ちょう』は強拍にた行があまり無いからちょうどいいくらいだし、やっぱりグリーで日本語の曲を沢山歌ってるだけのことはあるなと思うんですけど……」
「おっしゃる通りです」
「スピーキングの先生も言うんです、tやdを大げさなくらい発音したら、こいつ英語話せるなと相手に思ってもらえるかもって」

 それを聞き、三喜雄は初めてスピーキングを選択しておけば良かったと思った。ネイティブの先生方は結構厳しいという噂だが、英語以外の発音にも役立ちそうではないか。

「わかった、気合い入れて発音する」

 三喜雄の発言に、高崎は笑う。気合いで乗り切るものではないと言いたいらしかった。
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