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第5章 鶴呼びの娘、ナンパされる

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 湖畔のホテルは10年前に来た時と外観は変わらなかったが、オープンしてそれなりの年月を経ているからか、赤絨毯のロビー周辺は風格を増したような印象を受けた。チェックインすると、峯子の部屋が知沙の部屋のすぐ隣だとわかり、微妙な気分になる。しかし峯子は、意外にも夕飯までの2時間半の自由行動を提案してきた。

「どこにいらっしゃるかだけ、教えてくださいな」

 せっかく箱根まで来たのだから、峯子も羽を伸ばしたいのだろう。ホテルの近くには、かつて知沙も母と参拝した有名な神社がある。

「ホテルの外には出ないと思う、ケーキ食べて温泉……かな」
「ホテルのかたの姿がある場所にいらしてくだされば、私も安心です」

 知沙は了解し、夕飯時にレストランで会う約束をして、部屋の前で峯子と別れた。
 扉を開けると、ダブルルームだった。室内の広さを持て余しつつ大きなベッドに鞄を置き、洗面室で化粧を直した。鏡を見ながら、丸い目や描き足さなくてもいいはっきりした眉は、母ではなく父から来たものだとあらためて感じる。いつも美容室で梳いてもらう毛量の多さも、桐生家のものだ。
 知沙は自分が美人だとは思っていないが、自分の顔は嫌いではない。しかしこうして、拓人に似ていると理解してみると、頼子の繊細な美しさがもう少し混じっていてもいいのに、と思う。
 1階のカフェには他に客がいなかったが、店員は笑顔で窓際の席に案内してくれた。10年前に食べたアップルパイが美味しかったので、同じものを紅茶と一緒に注文する。窓の外の晴れた庭を眺めながら、1人の女性、1人の人間としての頼子に思いを馳せた。
 こんないいホテルを福利厚生施設にできる会社で勤務していたからこそ、ほぼ桐生家の世話にならずに知沙を育てられたのだろう。アマチュア合唱団で歌い、ソプラノパートの大きな戦力だった。知沙もその合唱団に所属していたので、そんな母が自慢だった。ただ彼女は、親しい団員にも家庭について話さず、桐生拓人と知り合った大学の混声合唱団(頼子は拓人の2学年後輩だった)の卒部生たちとは、つき合いを避けている様子が窺えた。プライベートに関する話を気兼ねなくできる相手を持たない頼子は、孤独ではなかったのだろうか。
 知沙のテーブルにアップルパイと紅茶のポットが運ばれてきた時、店内に男性が1人で入ってくるのが見えた。すらりと背が高くて、五分袖の無地のTシャツにパンツという何でもない恰好なのに、洗練されている。彼も窓際の、知沙の座るふたつ隣のテーブルに案内された。
 アップルパイを頬張りながら、綺麗なおにいさんだなぁと、知沙は男に見惚れるという状況を久しぶりに楽しむ。スマートフォンの画面に視線を落とす鼻筋の通った横顔は、それだけで絵になった。おかげでパイの美味しさまで増した気がする……このことは郁恵に報告せねば。
 りんごの甘みを堪能しながら、再度ちらっと男性のほうを見ると、彼はこちらを向いていた。じろじろ見ていたことがバレたと焦った知沙は目を逸らそうとしたが、その前に男性がふわっと微笑したのが目に入った。
 知沙は思わず周囲を見回すが、今ここには自分以外誰もいない。仕方なく、ぎこちない笑みを返した。すると男性は、想像を絶する言葉を投げかけてきた。

「そちらに行ってもいいですか?」
「へ?」

 驚いた知沙の喉から変な音が出た。想定外の展開にどきどきしたが、ちょっと待て、と警戒する自分が脳内で声を上げた。店内に客は知沙とこの男性しかいない。しかし、店員はホールに2人、キッチンにも誰かいるだろう。万が一男性がおかしな動きを見せたとしても、助けを求めることができる。
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