夜は異世界で舞う

穂祥 舞

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 晴也は知らなかったが、東京とロンドンのヒースロー空港を結ぶ直行便は、羽田が発着地だった。晶は出発の日も出勤して、深夜の羽田発の飛行機に乗った。時間の都合が良かったこともあったが、トランジットに時間を取られて疲れたくないという理由で、少し運賃の高い直行便を使うことにしたらしい。帰りはヒースローを19時過ぎに出て、羽田に着くのは17時半くらいだと晴也は聞いていた。その時間に羽田に行くなら少し早退させてもらえば間に合うので、晴也は退社したその足で、うまれて初めて羽田空港の第3ターミナルに向かった。
 京急を降りてエスカレーターを使い、テレビのニュースでよく映るガラス張りの建物の中に入ると、涼やかな風に頬を撫でられた。これまで国内線に2回しか乗ったことが無い晴也には、新宿2丁目とは違った意味で異世界に迷い込んだように思えた。高い天井を見上げてから、少しどきどきして「到着」の案内に従って足を進めた。
 子どもたちは夏休みに入っているため、到着ゲートからはスーツケースを引いた家族連れも出てきた。日本に帰って来て喜びはしゃぐ子もいれば、疲れてぐったりしている子もいる。ゲートから出てきた男性を笑顔で迎える女性は恋人だろうか。身体と同じくらいの大きさのスーツケースを持つ若い女性に、駆け寄る中年の男女がいた。女性も破顔しているところを見ると、長期留学していた娘を両親が迎えに来たのかもしれない。
 晶が発つ前は不安もあったけれど、彼が不在の2ヶ月半は、ほんとうにあっという間だった。晶はほぼ毎晩LINEをしてきて、週末は電話をくれた。4人で頑張るドルフィン・ファイブ(サトルが休演した6月は週替わりでゲストダンサーが入っていた)のショーもこまめに観た。ペーパー教習を受け、晶の部屋に泊まった翌日は、彼の軽自動車に乗ってみた(今日晶が成田に戻って来たなら、車で迎えに行くところだったのだが)。めぎつねのホステス有志で、女性たちに混じってメイク講習を受けた。三松夫妻主催のサークルの同期との飲み会にも出席した。
 そして、明里と都合をつけて実家に帰り、父と母に男性と交際している話をした。明里から既に話を聞いていた母は、息子のお相手が「ウェストエンドの新作に抜擢された注目のイケメンダンサー」だということに大喜びしていたが、父はあ然として、言葉少なになった。父にショックを与えたことは心苦しいが、二度と実家の敷居をまたぐなと言われなかっただけましだと、晴也は解釈している。
 整形外科クリニックの李医師は手術の予定が沢山あり、明里は予想外に仕事が忙しく、晴也自身も本業と副業の休みの折り合いがつかず、結局ロンドンに晶の舞台を観に行くことは叶わなかった。BBCなど複数のカメラが入っていたらしいので、もしかするとBSで放送する機会もあるかもしれないと晶は教えてくれたが、生で見られなかったのは残念である。
 空港の案内によると、晶の乗るヒースロー発のJALは予定通りに到着して、手荷物を下ろしているようだった。無事に帰って来て良かったと思う。しかし、どんな顔をして晶を迎えたらいいのだろうか。晴也はやたらと高鳴る心臓に困惑しながら考える。……大袈裟な、普通にお疲れさまと言えばいいんだろうが。それにしても沢山の人がゲートから吐き出されてくる。まず、晶を見つけられるかどうかを気にするべきだと晴也は思った。
 出てくる人々を見つめていた晴也は、その時何故かゲートに近づき、自動ドアの少し奥を覗き込みたくなった。そして首を伸ばし、待ち人を見つけた。あらためて心臓がどくんと鳴る。黒い髪の、紺色のジャケットを羽織った、銀縁の眼鏡の男性の姿が見え隠れする。……ショウさんだ。見間違えたりしない。冷房は効いているのに、顔が熱くなった。
 晶は銀色のスーツケースだけを持ち、ゆっくりと歩いてきた。こうして見ると、無駄のない足の運びが美しかった。首尾よく早退させてもらえる確約が無かったので、晴也は迎えに行くと、彼にはっきり伝えていなかった。そのため晶は、日本に着いてほっとしたような表情ではあったが、特段嬉しそうだという訳でもない。全く素の晶を観察しているうち、どきどきが耳の中にまで響いてきて、晴也は周囲のざわめきが聞こえなくなった。
 5メートルほど先で、開きっぱなしのドアを晶がくぐった。彼はふとこちらを見た。目が合って、ハルさん、とその唇が動いたように見えた。ぎくっとした晴也は、何故かきびすを返してその場から逃げ出したくなった。

「ハルさん!」

 何も聞こえない中、晶の声だけが聴覚を揺らした。彼は立ち尽くす晴也のところに、スーツケースを引っぱりながら走って来て、晴也を腕の中に捕えた。晴也は驚いて鞄を落としそうになり、一瞬息を止める。

「迎えに来てくれたんだ、嬉しい……」

 耳のそばで声がした。晴也は何を言えばいいのかわからない。ただ心臓をどきどきさせて、いつもの匂いがしないなどと思っていた。ああでも……確かにこれは愛しい男だった。嗅覚だけでなく、全ての感覚が瞬時に動いた結果、脳がそう判断していた。細胞のひとつひとつが歓喜を始めるのを感じて、晴也は晶の背中に手を回そうとしたが、視界の端に自分たちを見ている人たちの姿が映り、我に返った。

「離せ、人が見てるし邪魔になる」
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