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15 昼に舞う蝶とダンサー
ハルとショウの土曜日②
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「福原さんは観に行かないのですか?」
「休みが取れないと思います」
「行ってあげましょうよ、私行こうかな」
ノリのいい先生だなと、晴也は驚くような呆れるような気持ちになったが、李医師は患者の復調を確認するために、アスリートなら試合を観に行くこともあるという。
「だから新宿にも吉岡さんの様子を見に、これまで2回行ってます」
「え、ルーチェにですか?」
「ええ、去年の10月が最後ですが……面白かったですよ」
遅れていた患者が来たという報告があったので、晴也は看護師にリハビリ室に案内してもらった。手すりが巡らされ、いろいろな器具が並んでいて、スポーツジムのようにも見えた。
晶は部屋の隅で、女性の作業療法士に時間を測られて、左脚を動かしていた。負荷をかけながら、足先を上げ下げしている様子だった。ひえぇきついよぉ、と晶は子どものような泣き言を洩らしている。
「はい吉岡さん、彼氏さんいらっしゃったからもう少し頑張って」
「ハルさぁん、俺の代わりにこれやってぇ」
晶は意味のわからないことを言いながら、左の足首にかかったバーを膝から下だけで上下させる。晴也は名札に上野と書かれた作業療法士に言った。
「すみません、うるさかったら猿轡でも噛ませます」
「いいですよぉ、むすっとしてる吉岡さんより全然いいです!」
上野の返事に、晴也は苦笑した。
この間タケルの話を聞いた時と同じ引っかかりを晴也は覚えた。晶は基本的に明るいが、不機嫌になると、周囲が引くような暗いオーラを発するようだ。大人としてそれはどうなのか。
タイムアップしたらしく、晶はひと息ついて脚を下ろした。そして晴也のほうを向く。
「ハルさん、よく頑張ったって左膝くんを労ってやって欲しい……」
カルテに何か書いていた上野も、晴也のほうを見た。
「……甘えるな」
晴也は低い声で返した。上野が遠慮なさらないでください、と明るく言う。
「ダンスでも頑張った日は膝を撫でてもらうの」
晶は上野に話す。いいですねぇと上野は笑顔になるが、晴也はややいたたまれない。
「すみません、こいつ甘やかすと調子に乗るので」
「えっいいんですよ、病院に来ている人は皆何かしら不調を抱えていますから、治るまでは甘やかしてもいいんです」
何となくこのクリニックのスタッフには、調子を狂わされる。晴也は仕方なく、晶の左に座り、剥き出しになった彼の膝を軽く指先で撫でた。晶はあっ、と喘いで上半身を上野のほうに傾ける。
「彼氏さん優しい、吉岡さん異様に嬉しそう」
上野は笑った。晶はさらにマッサージを受けるべく、また別のスタッフに隣の部屋のベッドに連れて行かれた。
「吉岡さんは手術が終わって退院して、ここでリハビリを始めた頃にご実家を離れたようなんです、だからずっとお一人で闘って来られました」
そうなのか。ウィルウィンに就職が決まってから、都内に出てきたのだと晴也は思っていた。上野は続ける。
「思わぬ怪我でキャリアを断ち切られそうになって、一番ダメージを受けるのは患者さんのメンタルです」
「ああ……そうですよね」
「だから彼氏さんは吉岡さんの心を支えてあげてください、私の知る限り吉岡さんはかなり強い人ですけど、やっぱり彼氏さんと一緒だとほっとしてらっしゃるように見えます」
晴也は返事に困るが、ぽつぽつ話してみる。
「……私はそんなに吉岡さんと……その、親しくなって長くありません、彼のこともまだまだよくわからないし……」
上野は2、3度瞬きした。
「そうなんですか? 吉岡さん、誰かとここにいらっしゃるのって、初診でお母様といらして以来初めてなんですよ」
「……そうでしたか」
ふと晴也は、晶から外堀を埋められているような気がした。こうやって外部の人に、晴也が自分の連れ合いだとアピールして、晴也の逃げ道を塞いでいる。
嬉しくない訳ではないのに、そんな考え方しか出来ない自分が厭わしくも思う。晴也は小さく息をついた。
「私が彼に何かできるとは思いませんけど、彼の踊りが見たくて毎週新宿に来る人たちのためにも、よろしくお願いします」
上野は明るく、はい、もちろんですと応じた。
「術後にずっと真面目に検診に来られてるんだから、大丈夫ですよ」
「検診はずっと続けるほうがいいんですか?」
「吉岡さんの場合はメンテを兼ねてますから、他に通われてる整体などを特にお持ちでないなら、お越しいただいていいと思います」
上野は見た感じ、年齢は晴也と変わらないくらいだが、ベテランの空気感を醸し出していた。
「ロンドンにいた頃にかなり無茶な練習をしていたという自覚があるようで……何かのきっかけでまたそんな風にならないか不安に感じるのもあって、定期的にこちらにいらっしゃるのかもしれません」
今度のロンドンの舞台がそのきっかけになり得ると、晶は考えているのだろうか。上野はゆったりとした口調で続ける。
「アスリートもですけど、レベルの高い人ほど莫大な集中力が備わっていて、それがともすれば肉体の酷使に繋がってしまうんですね……身近な人がその緊張感を良いように緩めてあげられると、理想的です」
リハビリ室にはもう患者はいなかった。昼で受付時間が終了して、晶を含む数名の患者がマッサージを受けるのみで、のんびりした空気が流れている。
「じゃあもう少し待ってあげてください、これから私たちは、吉岡さんが同性の恋人を連れてきた話でひとしきり盛り上がりますね」
上野の言葉に晴也は苦笑した。そして彼女に礼を言って、待合室に向かった。
「休みが取れないと思います」
「行ってあげましょうよ、私行こうかな」
ノリのいい先生だなと、晴也は驚くような呆れるような気持ちになったが、李医師は患者の復調を確認するために、アスリートなら試合を観に行くこともあるという。
「だから新宿にも吉岡さんの様子を見に、これまで2回行ってます」
「え、ルーチェにですか?」
「ええ、去年の10月が最後ですが……面白かったですよ」
遅れていた患者が来たという報告があったので、晴也は看護師にリハビリ室に案内してもらった。手すりが巡らされ、いろいろな器具が並んでいて、スポーツジムのようにも見えた。
晶は部屋の隅で、女性の作業療法士に時間を測られて、左脚を動かしていた。負荷をかけながら、足先を上げ下げしている様子だった。ひえぇきついよぉ、と晶は子どものような泣き言を洩らしている。
「はい吉岡さん、彼氏さんいらっしゃったからもう少し頑張って」
「ハルさぁん、俺の代わりにこれやってぇ」
晶は意味のわからないことを言いながら、左の足首にかかったバーを膝から下だけで上下させる。晴也は名札に上野と書かれた作業療法士に言った。
「すみません、うるさかったら猿轡でも噛ませます」
「いいですよぉ、むすっとしてる吉岡さんより全然いいです!」
上野の返事に、晴也は苦笑した。
この間タケルの話を聞いた時と同じ引っかかりを晴也は覚えた。晶は基本的に明るいが、不機嫌になると、周囲が引くような暗いオーラを発するようだ。大人としてそれはどうなのか。
タイムアップしたらしく、晶はひと息ついて脚を下ろした。そして晴也のほうを向く。
「ハルさん、よく頑張ったって左膝くんを労ってやって欲しい……」
カルテに何か書いていた上野も、晴也のほうを見た。
「……甘えるな」
晴也は低い声で返した。上野が遠慮なさらないでください、と明るく言う。
「ダンスでも頑張った日は膝を撫でてもらうの」
晶は上野に話す。いいですねぇと上野は笑顔になるが、晴也はややいたたまれない。
「すみません、こいつ甘やかすと調子に乗るので」
「えっいいんですよ、病院に来ている人は皆何かしら不調を抱えていますから、治るまでは甘やかしてもいいんです」
何となくこのクリニックのスタッフには、調子を狂わされる。晴也は仕方なく、晶の左に座り、剥き出しになった彼の膝を軽く指先で撫でた。晶はあっ、と喘いで上半身を上野のほうに傾ける。
「彼氏さん優しい、吉岡さん異様に嬉しそう」
上野は笑った。晶はさらにマッサージを受けるべく、また別のスタッフに隣の部屋のベッドに連れて行かれた。
「吉岡さんは手術が終わって退院して、ここでリハビリを始めた頃にご実家を離れたようなんです、だからずっとお一人で闘って来られました」
そうなのか。ウィルウィンに就職が決まってから、都内に出てきたのだと晴也は思っていた。上野は続ける。
「思わぬ怪我でキャリアを断ち切られそうになって、一番ダメージを受けるのは患者さんのメンタルです」
「ああ……そうですよね」
「だから彼氏さんは吉岡さんの心を支えてあげてください、私の知る限り吉岡さんはかなり強い人ですけど、やっぱり彼氏さんと一緒だとほっとしてらっしゃるように見えます」
晴也は返事に困るが、ぽつぽつ話してみる。
「……私はそんなに吉岡さんと……その、親しくなって長くありません、彼のこともまだまだよくわからないし……」
上野は2、3度瞬きした。
「そうなんですか? 吉岡さん、誰かとここにいらっしゃるのって、初診でお母様といらして以来初めてなんですよ」
「……そうでしたか」
ふと晴也は、晶から外堀を埋められているような気がした。こうやって外部の人に、晴也が自分の連れ合いだとアピールして、晴也の逃げ道を塞いでいる。
嬉しくない訳ではないのに、そんな考え方しか出来ない自分が厭わしくも思う。晴也は小さく息をついた。
「私が彼に何かできるとは思いませんけど、彼の踊りが見たくて毎週新宿に来る人たちのためにも、よろしくお願いします」
上野は明るく、はい、もちろんですと応じた。
「術後にずっと真面目に検診に来られてるんだから、大丈夫ですよ」
「検診はずっと続けるほうがいいんですか?」
「吉岡さんの場合はメンテを兼ねてますから、他に通われてる整体などを特にお持ちでないなら、お越しいただいていいと思います」
上野は見た感じ、年齢は晴也と変わらないくらいだが、ベテランの空気感を醸し出していた。
「ロンドンにいた頃にかなり無茶な練習をしていたという自覚があるようで……何かのきっかけでまたそんな風にならないか不安に感じるのもあって、定期的にこちらにいらっしゃるのかもしれません」
今度のロンドンの舞台がそのきっかけになり得ると、晶は考えているのだろうか。上野はゆったりとした口調で続ける。
「アスリートもですけど、レベルの高い人ほど莫大な集中力が備わっていて、それがともすれば肉体の酷使に繋がってしまうんですね……身近な人がその緊張感を良いように緩めてあげられると、理想的です」
リハビリ室にはもう患者はいなかった。昼で受付時間が終了して、晶を含む数名の患者がマッサージを受けるのみで、のんびりした空気が流れている。
「じゃあもう少し待ってあげてください、これから私たちは、吉岡さんが同性の恋人を連れてきた話でひとしきり盛り上がりますね」
上野の言葉に晴也は苦笑した。そして彼女に礼を言って、待合室に向かった。
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