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12 憂惧
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晴也は移動中、頭の中を沸騰させていたが、マンションに戻り自宅のドアを閉めた途端に腰が砕けた。玄関マットの上に座り込み、何度も深呼吸する。
やってしまった、もう取り返しがつかない。あんな醜態を晒して、他人の顔に飲み物を浴びせるなんて、人として終わっている。不思議と後悔は無かったが、やり過ぎたという反省はあった。
ふらふらと立ち上がり、着替えてベッドに身を投げ出す。窓の外は日暮れの色に染まり始めていた。眠りたいと思うのに、神経が立って眠れない。そしてふと思いついた。あのお香の匂いが嗅ぎたい。
それはつまり晶に会いたいということに他ならなかったが、晴也は深く考えないようにして、棚の缶の中から晶の部屋の鍵を取り出した。そして思いつくまま、着替えと最低限の洗面道具を鞄に詰め込み、家を出た。冷え始めた空気の中、退勤時間帯のラッシュの始まる直前、比較的空いた電車で高円寺に向かう。
確か月曜日は、晶は小学生にダンスを教えるために実家に行くので、帰宅が遅いはずだった。心配をかけたくなくて、LINEをするのを留まる。
晴也は前を歩いていた親子連れについて、マンションに入った。鍵を持っている身なのに、悪いことをしているような気になりつつ、晶の部屋に辿り着く。何故かどきどきしながらゆっくりと鍵を回すと、かちりと重い音がした。
晴也は玄関の明かりをつけた。もう周りは薄暗くなっていた。相変わらずあまり生活感の無い部屋だが、あの香りに気づいて晴也はほっとする。
リビングにも明かりを入れ、ソファに腰を下ろした。晶は好きに過ごしてくれたらいいと言ったが、いざ他人の家に1人で上がり込むと、勝手に物に触るのはやはり良くないような気がしてしまう。
「……お茶くらいいいか」
しばらく部屋に漂う香りを楽しんだあと、晴也はひとりごちて、キッチンに入った。せっかく作った紅茶を久保の服に飲ませてしまい、それからカッカしながら過ごしたので、喉が渇き小腹が減っていたことさえ忘れていた。
この部屋には3度訪れているので、飲み物のある場所は覚えていた。山形に襲われた夜に晶が淹れてくれたアップルティーを見つけて、晴也はティーバッグをひとつ失敬し、マグカップに入れる。電気ケトルに少しだけ水を入れると、あっという間に沸いた。
立ち昇ったアップルティーの香りにほっとしながら、リビングのソファに戻った。夕飯は実家で食べるのかな、と晴也は晶に思いを馳せる。子どものダンスレッスンは何時までなのだろうか。お邪魔しているとだけLINEしておこうか。
ふと、テーブルの隅に置かれた新聞の下敷きになった、英文の書類が目に入った。興味を覚えて、晴也はそれを引っぱり出す。ホッチキスで留められた A4サイズの紙の束には、1枚目の右上に、手書きで「To Sho」とあった。もしやと思い、細かいアルファベットを目で追ってみる。学生時代の晴也の専攻は社会学だったが、英語の文献も読んだし、TOEICも受けた。簡単な文章なら何とか読めなくは無い。
それは今年の夏、"Midsummer Night's Dream"、シェイクスピアの『夏の夜の夢』を、ロンドンなどイギリス国内のいくつかの都市で上演するという企画書のようだった。演出はCyrus Mcglaveで、基本的に演劇であるが、俳優の得意分野と個性を生かした舞台にしたい、というようなことが書いてある。
やってしまった、もう取り返しがつかない。あんな醜態を晒して、他人の顔に飲み物を浴びせるなんて、人として終わっている。不思議と後悔は無かったが、やり過ぎたという反省はあった。
ふらふらと立ち上がり、着替えてベッドに身を投げ出す。窓の外は日暮れの色に染まり始めていた。眠りたいと思うのに、神経が立って眠れない。そしてふと思いついた。あのお香の匂いが嗅ぎたい。
それはつまり晶に会いたいということに他ならなかったが、晴也は深く考えないようにして、棚の缶の中から晶の部屋の鍵を取り出した。そして思いつくまま、着替えと最低限の洗面道具を鞄に詰め込み、家を出た。冷え始めた空気の中、退勤時間帯のラッシュの始まる直前、比較的空いた電車で高円寺に向かう。
確か月曜日は、晶は小学生にダンスを教えるために実家に行くので、帰宅が遅いはずだった。心配をかけたくなくて、LINEをするのを留まる。
晴也は前を歩いていた親子連れについて、マンションに入った。鍵を持っている身なのに、悪いことをしているような気になりつつ、晶の部屋に辿り着く。何故かどきどきしながらゆっくりと鍵を回すと、かちりと重い音がした。
晴也は玄関の明かりをつけた。もう周りは薄暗くなっていた。相変わらずあまり生活感の無い部屋だが、あの香りに気づいて晴也はほっとする。
リビングにも明かりを入れ、ソファに腰を下ろした。晶は好きに過ごしてくれたらいいと言ったが、いざ他人の家に1人で上がり込むと、勝手に物に触るのはやはり良くないような気がしてしまう。
「……お茶くらいいいか」
しばらく部屋に漂う香りを楽しんだあと、晴也はひとりごちて、キッチンに入った。せっかく作った紅茶を久保の服に飲ませてしまい、それからカッカしながら過ごしたので、喉が渇き小腹が減っていたことさえ忘れていた。
この部屋には3度訪れているので、飲み物のある場所は覚えていた。山形に襲われた夜に晶が淹れてくれたアップルティーを見つけて、晴也はティーバッグをひとつ失敬し、マグカップに入れる。電気ケトルに少しだけ水を入れると、あっという間に沸いた。
立ち昇ったアップルティーの香りにほっとしながら、リビングのソファに戻った。夕飯は実家で食べるのかな、と晴也は晶に思いを馳せる。子どものダンスレッスンは何時までなのだろうか。お邪魔しているとだけLINEしておこうか。
ふと、テーブルの隅に置かれた新聞の下敷きになった、英文の書類が目に入った。興味を覚えて、晴也はそれを引っぱり出す。ホッチキスで留められた A4サイズの紙の束には、1枚目の右上に、手書きで「To Sho」とあった。もしやと思い、細かいアルファベットを目で追ってみる。学生時代の晴也の専攻は社会学だったが、英語の文献も読んだし、TOEICも受けた。簡単な文章なら何とか読めなくは無い。
それは今年の夏、"Midsummer Night's Dream"、シェイクスピアの『夏の夜の夢』を、ロンドンなどイギリス国内のいくつかの都市で上演するという企画書のようだった。演出はCyrus Mcglaveで、基本的に演劇であるが、俳優の得意分野と個性を生かした舞台にしたい、というようなことが書いてある。
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