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9 結花
ハルのお正月②
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いやいやいや……晴也は顔が熱くなるのを自覚した。明里が喉渇いた、と言って台所に向かったので、顔を見られなくてほっとする。
晴也は渋谷で遊んだ時のことはともかく、その夜のことはふわふわした夢の中の出来事のようにしか、思い起こせなかった。にもかかわらず、あの時経験した感覚は、ぞっとするほど自分の身体に刻み込まれていて、ふとしたはずみに晴也の大脳を刺激し、神経回路をマッハで巡る。今もこんな小さな画面でショウが踊っているのを見ただけなのに、彼の――ダンサーのショウではなく吉岡晶の、表情や声、唇と指先の感触、そして肌の温もりと匂いがリフレインして止まらない。晶の言葉を借りれば、ヤバいちんこ勃ちそう、である。
「どうしたの、赤い顔してにやにやして……キモい」
レモンチューハイの缶を2つ持ち戻ってきた明里に言われて、晴也は我に返る。
「ああ、クリスマスのショー面白かったなとしみじみしてる」
しれっと言い、チューハイのタブを明里と同時に起こす。昼間から大っぴらに飲めるのが、正月の良いところだ。口の中で炭酸が弾けると、何故か鼻腔の奥で、レモンではなく杏の甘い香りを感じた。
「新年はいつが初舞台なの?」
「今週末じゃないかな、行く? 知り合いがたぶん一緒になるけど」
美智生を想定して言う。明里が本当にルーチェに行く気なら、美智生に口裏を合わせてもらおう。明里はスマートフォンでスケジュールをチェックして、行っこうっかな、と節をつけながら言った。
晴也は自分の中で、ここしばらく眠っていたときめきが目覚めたことに気づく。自分が気に入って良いと感じているものを、他人に自信を持ち勧めるのは、楽しい。
「お兄ちゃんさぁ、彼女というか、気になる人でもできた?」
明里はチューハイの缶に軽く爪の先をこつこつ当てながら訊いてきた。流石に晴也は動揺したが、はぁ? と視線をテレビの画面に外しながらごまかしにかかる。
「だって何かスゲー綺麗な肌してるしさ、年末も床屋じゃなく美容院行ったじゃん、前髪ひっさしぶりに切ったりして」
近所の美容院に行ったことは、言い訳を用意していた。小さい頃から世話になっている理容室の息子が、美容師として独立して、理容室の隣に店を持ったのだ。母からそれを聞いていたし、是非行ってみたいと思っていた。
「この間も話しただろ、肌が粉吹いたからいいクリームを紹介して貰ったんだ……前髪は何とかしろって職場で言われたし、美容師に任せたんだよ」
「ふうん……何か色気づいてるのかと思ったんだけどな」
ひやひやする、心臓に悪い。女装して男と仲良くすると、実家でさえも安らげる場所でなくなるらしい。
明里がお菓子の入った籠に手を伸ばし、さきいかの袋をひっぱり出す。彼女が迷わず袋を裂くと、やや酸っぱさを含んだ香ばしい匂いがした。
「お兄ちゃんは感じの悪い人連れて来ないでよ、たまに一緒に観劇してくれるお義姉ちゃん希望」
さきいかを齧りながら明里は言う。普通そうだよな、と晴也は考える。俺は男だから、女と結婚する。結婚式には紋付き袴とか、白やグレーの燕尾を着るのだろう。……つまらないな。白無垢やウェディングドレスが着たい。結婚前に太ってしまった姉ちゃんよりも、綺麗に着こなす自信がある……。
じゃあその時、俺の隣に立っているのは? 女なら、相手も打掛やドレスを着るのか。何か高砂の席が、結婚式じゃなくてコスプレパーティみたいだなぁ。それも面白いけど、やっぱり……あいつが燕尾が似合うのは証明済みだし、案外紋付きも似合う気がするぞ。
晴也はさきいかを口に入れたまま、あり得ない妄想に耽っている自分に気づく。いやいやいやいや、何だそれ! 脳内の妄想画像を消すべく頭の中でデリートキーを何度も叩くが、ちょっと楽しいだけにすぐには消えてくれない。
俺はどうかしている。あいつとは、酒の上での失態に近い形で一夜を過ごしただけ……の筈……なんだけど……。晴也はチューハイをあおって口の中のものを胃袋に流し込む。
晴也が失態を演じたとすれば、晶の耳許で好きだと言ってしまったことだった。彼をその気にさせたのは言うまでもなく、翌朝も思い出すのが恥ずかしいレベルで、晶はデロデロになって晴也に接した。
そして、好きだという言葉は、口に出すと自分の中に種を落とし、芽を出してぐんぐん育ち始めるということを、晴也は今まで知らなかった。今やその言葉はどっしり心と身体の深いところに根を下ろしてしまい、ちょっとやそっとでは引っこ抜けそうにない。
今あいつ何してるのかな。少なくとも俺みたいに、こたつから出ないで酒飲んでるってことはないんだろうな。練習してそうだ。膝が痛くならない程度にしとけって、メッセージ送ろうか? それはお節介でうざいか。
寒いから、ちょっとぎゅっとして欲しいなあ……だってあいつ、あったかくていい匂いするんだもん。晴也はチューハイをちびちび飲みながら思う。あーあ、抱き合ったら気持ちいいとか、ちんこ触られたら理性吹っ飛ぶとか、要らないことを教えてくれた。マジでムカつくわあのくそダンサー。きっちり責任取れよ、今度会ったら指を詰めさせてやる。
晴也は頭の中で晶に暴言を吐き続けたが、実際に彼の顔を見て言わないと、ちっとも楽しくなかった。それで、これまで自分が何を言っても、彼が蕩けた顔をしながら笑って受け止めてくれていたことにようやく気づいた。……何だよ馬鹿。会いたいぞ、くっそ。
晴也は渋谷で遊んだ時のことはともかく、その夜のことはふわふわした夢の中の出来事のようにしか、思い起こせなかった。にもかかわらず、あの時経験した感覚は、ぞっとするほど自分の身体に刻み込まれていて、ふとしたはずみに晴也の大脳を刺激し、神経回路をマッハで巡る。今もこんな小さな画面でショウが踊っているのを見ただけなのに、彼の――ダンサーのショウではなく吉岡晶の、表情や声、唇と指先の感触、そして肌の温もりと匂いがリフレインして止まらない。晶の言葉を借りれば、ヤバいちんこ勃ちそう、である。
「どうしたの、赤い顔してにやにやして……キモい」
レモンチューハイの缶を2つ持ち戻ってきた明里に言われて、晴也は我に返る。
「ああ、クリスマスのショー面白かったなとしみじみしてる」
しれっと言い、チューハイのタブを明里と同時に起こす。昼間から大っぴらに飲めるのが、正月の良いところだ。口の中で炭酸が弾けると、何故か鼻腔の奥で、レモンではなく杏の甘い香りを感じた。
「新年はいつが初舞台なの?」
「今週末じゃないかな、行く? 知り合いがたぶん一緒になるけど」
美智生を想定して言う。明里が本当にルーチェに行く気なら、美智生に口裏を合わせてもらおう。明里はスマートフォンでスケジュールをチェックして、行っこうっかな、と節をつけながら言った。
晴也は自分の中で、ここしばらく眠っていたときめきが目覚めたことに気づく。自分が気に入って良いと感じているものを、他人に自信を持ち勧めるのは、楽しい。
「お兄ちゃんさぁ、彼女というか、気になる人でもできた?」
明里はチューハイの缶に軽く爪の先をこつこつ当てながら訊いてきた。流石に晴也は動揺したが、はぁ? と視線をテレビの画面に外しながらごまかしにかかる。
「だって何かスゲー綺麗な肌してるしさ、年末も床屋じゃなく美容院行ったじゃん、前髪ひっさしぶりに切ったりして」
近所の美容院に行ったことは、言い訳を用意していた。小さい頃から世話になっている理容室の息子が、美容師として独立して、理容室の隣に店を持ったのだ。母からそれを聞いていたし、是非行ってみたいと思っていた。
「この間も話しただろ、肌が粉吹いたからいいクリームを紹介して貰ったんだ……前髪は何とかしろって職場で言われたし、美容師に任せたんだよ」
「ふうん……何か色気づいてるのかと思ったんだけどな」
ひやひやする、心臓に悪い。女装して男と仲良くすると、実家でさえも安らげる場所でなくなるらしい。
明里がお菓子の入った籠に手を伸ばし、さきいかの袋をひっぱり出す。彼女が迷わず袋を裂くと、やや酸っぱさを含んだ香ばしい匂いがした。
「お兄ちゃんは感じの悪い人連れて来ないでよ、たまに一緒に観劇してくれるお義姉ちゃん希望」
さきいかを齧りながら明里は言う。普通そうだよな、と晴也は考える。俺は男だから、女と結婚する。結婚式には紋付き袴とか、白やグレーの燕尾を着るのだろう。……つまらないな。白無垢やウェディングドレスが着たい。結婚前に太ってしまった姉ちゃんよりも、綺麗に着こなす自信がある……。
じゃあその時、俺の隣に立っているのは? 女なら、相手も打掛やドレスを着るのか。何か高砂の席が、結婚式じゃなくてコスプレパーティみたいだなぁ。それも面白いけど、やっぱり……あいつが燕尾が似合うのは証明済みだし、案外紋付きも似合う気がするぞ。
晴也はさきいかを口に入れたまま、あり得ない妄想に耽っている自分に気づく。いやいやいやいや、何だそれ! 脳内の妄想画像を消すべく頭の中でデリートキーを何度も叩くが、ちょっと楽しいだけにすぐには消えてくれない。
俺はどうかしている。あいつとは、酒の上での失態に近い形で一夜を過ごしただけ……の筈……なんだけど……。晴也はチューハイをあおって口の中のものを胃袋に流し込む。
晴也が失態を演じたとすれば、晶の耳許で好きだと言ってしまったことだった。彼をその気にさせたのは言うまでもなく、翌朝も思い出すのが恥ずかしいレベルで、晶はデロデロになって晴也に接した。
そして、好きだという言葉は、口に出すと自分の中に種を落とし、芽を出してぐんぐん育ち始めるということを、晴也は今まで知らなかった。今やその言葉はどっしり心と身体の深いところに根を下ろしてしまい、ちょっとやそっとでは引っこ抜けそうにない。
今あいつ何してるのかな。少なくとも俺みたいに、こたつから出ないで酒飲んでるってことはないんだろうな。練習してそうだ。膝が痛くならない程度にしとけって、メッセージ送ろうか? それはお節介でうざいか。
寒いから、ちょっとぎゅっとして欲しいなあ……だってあいつ、あったかくていい匂いするんだもん。晴也はチューハイをちびちび飲みながら思う。あーあ、抱き合ったら気持ちいいとか、ちんこ触られたら理性吹っ飛ぶとか、要らないことを教えてくれた。マジでムカつくわあのくそダンサー。きっちり責任取れよ、今度会ったら指を詰めさせてやる。
晴也は頭の中で晶に暴言を吐き続けたが、実際に彼の顔を見て言わないと、ちっとも楽しくなかった。それで、これまで自分が何を言っても、彼が蕩けた顔をしながら笑って受け止めてくれていたことにようやく気づいた。……何だよ馬鹿。会いたいぞ、くっそ。
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