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9 結花
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いらっしゃいませぇ、と独特な節回しで言う店員がこちらに笑顔を向けた。止める間もなく、晶が彼女に近寄り声をかける。
「この帽子、見たいんですけど」
「はい、新しいのをお持ちしますね」
またこいつは余計なことを! 店員はマネキンのかぶっているグレーの他に、色違いまで持ってきて、鏡の前に晴也を誘う。晴也は店内に足を踏み込むだけで緊張した。きっと男だとバレて、変な顔をされる。そして閉店後に、店員たちの間で笑いのネタにされるのだ。
晴也は鏡の中の化粧をした自分を凝視しながら、柔らかい帽子を頭に乗せた。店員は、斜めにして深めにかぶることを勧めてくる。
……あ、可愛いな。晴也はときめいた。
「いいんじゃない?」
笑顔の晶はぬけぬけと言う。
「今日のお召し物ならグレーがぴったりですね、マフラーとコートは男ものですよね? いらっしゃってすぐにお洒落だなって目が行きました」
アパレルの店員にそんな風に言われて、晴也は照れた。鏡の中の自分の頬が、ぽやんと染まった。
「お顔立ちにはベージュがお似合いかとも思います」
晴也は次々と帽子をかぶせられ、女性が服をやたらと買い込む気持ちを理解した気がした。これは、楽しい。その時ちょうど17時になり、今から1時間限り、さらに2割引のコールがかかって、店内がヒートアップした。晴也と同世代か、少し若い女性が、店の前で足を止める。
店員は、もう店頭にあるだけだと煽って来ながら、チャコールグレーのエナメルに、濃紺のアクセントが入った大きめのショルダーバッグを出して来た。女装用の鞄は、仕事の時は必要ないので、昨日も今日も同じものを使っている。一つあれば便利かもしれない。晴也はバッグを手に取って、ポケットの数などを確認する。通販では把握しづらい、大きさや質感が分かるのがいいと実感した。
結局グレーのニット帽とバッグを晶に買わせて、若い店員に見送られながら、晴也は賑やかな店を後にした。
「やりましたね、今店の誰一人として、お嬢様が男だとは気づいておりませんでした」
「さすがに緊張したな」
晴也は無責任に楽しむ晶にはムカついたが、本当は走り回りたいほど嬉しかった。可愛いものを、店員が次々と持ってきて、あれが似合う、これとコーデするといいと言ってくれる。そしてそれを実際身につけて吟味し、納得して手に入れられる。ベージュの帽子も可愛かった、新宿のデパートで年明けに探してみようか。
ブランドの紙袋を肩に掛け直した晴也は、正面から女の子を連れた夫婦がやって来ることに気づいた。2歳か3歳くらいだろうか、少し危なっかしい歩みの子を、両方から2人で手を繋いで支えている。何げなく母親の顔を見て、晴也はどきりとして足を止めそうになる。父親の顔も確認し、彼らが顔を合わせたくない人々であることを晴也は認識した。……どうしよう、こんなところで。心臓がどきどきして、店内に流れるBGMが遠くなった。
「ハルさん?」
晶に声をかけられて、晴也ははっとする。来た道を戻ろうとして、思い留まる。……あちらにはわからない。あいつらはもう俺のことなど忘れてるだろうし、俺は今はめぎつねのハルなんだから。晴也は腹の下に力を入れた。
両親に挟まれた女の子は、母親譲りのくりくりした目で晴也を見つめて来た。その様子は何の疑いも無く可愛らしかったので、晴也は少女に微笑みかけた。彼女の躊躇いがちな笑顔は、父親にそっくりだった。
母親は娘が笑いかけた相手を確認すべく、晴也を見る。目が合ったので、晴也は店でするように、柔らかく目を伏せて会釈した。目だけで彼女を盗み見すると、彼女は小さな驚きのようなものを顔に浮かべている。目の端に映った父親は、思わずといった風情で晴也を見ていた。……バレたか。晴也は真っ直ぐ前を見て、跳ねる心臓を宥めながら家族と静かにすれ違う。右側に立つ晶が寄り添ってくれているのがわかる。
10歩ゆっくり歩み、エスカレーターが見えたところで深呼吸した。晶がちらりと来た道を振り返る。
「知ってる人?」
「……学生時代の知り合い」
晴也は息を吐きながら答えた。背中に嫌な汗を感じ、苦いものが僅かに喉もとにこみ上げた。そのまま昇りエスカレーターに足を運び、晴也が先に乗った。
「お父さんがハルさんと俺を見比べてたな、……元彼?」
晴也は晶を咄嗟に振り返って、見下ろしながら睨みつけた。
「俺ノンケだっつーんだよ! 母親もあいつも大学のサークル友……バレたかなあ」
「まさかって感じだったな、話したらバレたかもな」
晶の言葉には、挨拶もしないで良かったのかというニュアンスがあった。晴也はたぶん、男の姿でも無視を決め込んだだろう。いや、きっと後ろを向いて逃げた。
「まあ話す気は無かったけど」
晴也の無感情な言葉に、晶は何も答えなかった。
気を取り直して、紳士服売り場に向かった。奢られっぱなしでは申し訳ないので、晴也は晶に普段用のネクタイを買ってやろうと考えたのである。サラリーマンの時は外回りが多い彼は、値下げしたものでいいと庶民的に言いながら、喜んで選んでいた。ここでも晴也は、クリスマスプレゼントに彼氏にネクタイを買う女を演じきる。
紳士服のフロアのトイレは空いていた。晴也が多目的トイレに入るのを見て晶は笑い、自分もトイレに行った。
「この帽子、見たいんですけど」
「はい、新しいのをお持ちしますね」
またこいつは余計なことを! 店員はマネキンのかぶっているグレーの他に、色違いまで持ってきて、鏡の前に晴也を誘う。晴也は店内に足を踏み込むだけで緊張した。きっと男だとバレて、変な顔をされる。そして閉店後に、店員たちの間で笑いのネタにされるのだ。
晴也は鏡の中の化粧をした自分を凝視しながら、柔らかい帽子を頭に乗せた。店員は、斜めにして深めにかぶることを勧めてくる。
……あ、可愛いな。晴也はときめいた。
「いいんじゃない?」
笑顔の晶はぬけぬけと言う。
「今日のお召し物ならグレーがぴったりですね、マフラーとコートは男ものですよね? いらっしゃってすぐにお洒落だなって目が行きました」
アパレルの店員にそんな風に言われて、晴也は照れた。鏡の中の自分の頬が、ぽやんと染まった。
「お顔立ちにはベージュがお似合いかとも思います」
晴也は次々と帽子をかぶせられ、女性が服をやたらと買い込む気持ちを理解した気がした。これは、楽しい。その時ちょうど17時になり、今から1時間限り、さらに2割引のコールがかかって、店内がヒートアップした。晴也と同世代か、少し若い女性が、店の前で足を止める。
店員は、もう店頭にあるだけだと煽って来ながら、チャコールグレーのエナメルに、濃紺のアクセントが入った大きめのショルダーバッグを出して来た。女装用の鞄は、仕事の時は必要ないので、昨日も今日も同じものを使っている。一つあれば便利かもしれない。晴也はバッグを手に取って、ポケットの数などを確認する。通販では把握しづらい、大きさや質感が分かるのがいいと実感した。
結局グレーのニット帽とバッグを晶に買わせて、若い店員に見送られながら、晴也は賑やかな店を後にした。
「やりましたね、今店の誰一人として、お嬢様が男だとは気づいておりませんでした」
「さすがに緊張したな」
晴也は無責任に楽しむ晶にはムカついたが、本当は走り回りたいほど嬉しかった。可愛いものを、店員が次々と持ってきて、あれが似合う、これとコーデするといいと言ってくれる。そしてそれを実際身につけて吟味し、納得して手に入れられる。ベージュの帽子も可愛かった、新宿のデパートで年明けに探してみようか。
ブランドの紙袋を肩に掛け直した晴也は、正面から女の子を連れた夫婦がやって来ることに気づいた。2歳か3歳くらいだろうか、少し危なっかしい歩みの子を、両方から2人で手を繋いで支えている。何げなく母親の顔を見て、晴也はどきりとして足を止めそうになる。父親の顔も確認し、彼らが顔を合わせたくない人々であることを晴也は認識した。……どうしよう、こんなところで。心臓がどきどきして、店内に流れるBGMが遠くなった。
「ハルさん?」
晶に声をかけられて、晴也ははっとする。来た道を戻ろうとして、思い留まる。……あちらにはわからない。あいつらはもう俺のことなど忘れてるだろうし、俺は今はめぎつねのハルなんだから。晴也は腹の下に力を入れた。
両親に挟まれた女の子は、母親譲りのくりくりした目で晴也を見つめて来た。その様子は何の疑いも無く可愛らしかったので、晴也は少女に微笑みかけた。彼女の躊躇いがちな笑顔は、父親にそっくりだった。
母親は娘が笑いかけた相手を確認すべく、晴也を見る。目が合ったので、晴也は店でするように、柔らかく目を伏せて会釈した。目だけで彼女を盗み見すると、彼女は小さな驚きのようなものを顔に浮かべている。目の端に映った父親は、思わずといった風情で晴也を見ていた。……バレたか。晴也は真っ直ぐ前を見て、跳ねる心臓を宥めながら家族と静かにすれ違う。右側に立つ晶が寄り添ってくれているのがわかる。
10歩ゆっくり歩み、エスカレーターが見えたところで深呼吸した。晶がちらりと来た道を振り返る。
「知ってる人?」
「……学生時代の知り合い」
晴也は息を吐きながら答えた。背中に嫌な汗を感じ、苦いものが僅かに喉もとにこみ上げた。そのまま昇りエスカレーターに足を運び、晴也が先に乗った。
「お父さんがハルさんと俺を見比べてたな、……元彼?」
晴也は晶を咄嗟に振り返って、見下ろしながら睨みつけた。
「俺ノンケだっつーんだよ! 母親もあいつも大学のサークル友……バレたかなあ」
「まさかって感じだったな、話したらバレたかもな」
晶の言葉には、挨拶もしないで良かったのかというニュアンスがあった。晴也はたぶん、男の姿でも無視を決め込んだだろう。いや、きっと後ろを向いて逃げた。
「まあ話す気は無かったけど」
晴也の無感情な言葉に、晶は何も答えなかった。
気を取り直して、紳士服売り場に向かった。奢られっぱなしでは申し訳ないので、晴也は晶に普段用のネクタイを買ってやろうと考えたのである。サラリーマンの時は外回りが多い彼は、値下げしたものでいいと庶民的に言いながら、喜んで選んでいた。ここでも晴也は、クリスマスプレゼントに彼氏にネクタイを買う女を演じきる。
紳士服のフロアのトイレは空いていた。晴也が多目的トイレに入るのを見て晶は笑い、自分もトイレに行った。
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