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6 逡巡
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「そうはっきり言ってくれたらいいのに……でもハルさんのことだから、遠慮してたのかな」
昨日のバックハグとは比べものにならない密着度に、晴也の心臓はこれまでにない速さで打ち始める。呼吸が浅くなった。
「可愛いなぁ……」
「だっ、だからっ、こういうことをやめろって言ってるんだよ、風呂入れっ」
ふふふ、と晶は耳のそばで笑う。声の近さに背筋がぞくぞくした。身体が熱い、暖房は緩くにしか入れていないのに。
「昨日みたいに力抜いて、肩とか首が凝ってしまうから」
晴也は晶の言葉にえっ、と思わず言った。昨日、何かあったのか。晶はゆっくりと背中を撫でる。その手の動きが心地良く、彼は今日も何だか良い匂いがして、抵抗する気力が萎えてしまう。
「ハルさん泣き疲れて俺にもたれ掛かって爆睡してたんだよね」
まさか。確かにうつらうつらしたと思うが、ソファに軽く横になっただけだ。爆睡なんてしていない……筈だ。晴也はぬくぬくすることに甘んじ始めた自分に気づき、晶の肩に腕を突っ張って、彼の身体を引き剥がすことに成功した。
「風呂入って」
目を合わせずに言うと、先にいただきます、と晶は素直に答えた。諦めてくれたことに、ほっとした気持ちが半分、がっかりした気持ちが半分だった。
普段完全に独りでいる空間に他人がいるというのは、違和感が半端ない。晴也がシャワーを済ませて浴室から出ると、黒い髪を乾かしっぱなしにした後ろ姿がリビングにあり、どきっとする。
晶はイヤホンを耳に入れ、胡坐で座ったまま小さく腕を動かしていた。振り付けを確認しているのだと、すぐに晴也は理解した。彼の長い腕は、時々すっと上に伸ばされ、つられるように彼の顔も上を向く。真っ直ぐに伸びた背筋に繋がる首は、常に頭部を引き上げる訓練を受けた人らしい、美しいラインを描いている。
綺麗な人だなと晴也は思う。晶は姿が美しい。舞台に立つ時はもちろん、冴えないサラリーマンでいる時や、今のように風呂上がりにくつろいでいる時も。
「あ、ハルさん」
晶はイヤホンを外し、スマートフォンを操作する。音楽を止めたのだろう。
「寝よう、ベッドを整えておいた」
今朝は慌てて起きたから、さぞかしベッドはぐちゃぐちゃだったと思う。何となく嬉しげな彼を見て、晴也は苦情を申し立てた。
「寝てたらいいのに、俺は床で寝るから」
「寒いのに何言ってんだ、風邪ひくぞ……ほら」
晶は4歩で晴也の傍に来て、右の腕を掴んだ。晴也は想定外の彼の行動に反応が遅れ、ベランダ側のベッドに連れていかれる。壁際に追い立てられ、晴也は思う。一体誰の家なんだ。しかし眠くて、抵抗する気力が無かった。
晶は自分もちゃっかりベッドに上がってきて、勝手にエアコンのタイマーをセットした。枕が一つしか無いと晴也はようやく気づく。
「あ、タオル……」
「何、セックスしてくれるの?」
何故セックスするのにタオルが要るのか気になったが、晴也はスルーした。
「枕が無いんだよ、俺タオルでいいからおまえ使え」
「腕枕するよ」
「要らねぇよ馬鹿野郎」
淡々と暴言を吐く晴也に笑いながら、晶はベッドから降りて、自分の鞄を開け、タオルを引っ張り出した。何なんだよ、泊まる気満々だったんじゃないか……晴也はむすっとしながら、水色のスポーツサイズのタオルを受け取った。
部屋の明かりを落とした。晴也は壁ににじり寄ってから、緊張を保とうとしたが、頭の下のタオルが柔らかくて良い匂いがすることもあって、眠気に抗えず瞼を落としてしまう。
晶も疲れていたのか、何も話さず大人しくしてくれていた。そのうち、規則正しいリズムの呼吸音が聞こえて来る。彼の呼吸は深くて長かった。激しい運動をする人だからだろうと、晴也は勝手に納得する。
部屋が暗いと、やたらに近距離にいる晶のことを意識しないで済んだ。自分のものでない温もりや匂いは、予想外に心地良い。女きょうだいしかいない晴也には、小学生になって以降、他人と一つ布団で眠るという経験が無い。何となくホッとするし、寒い時は気持ちいいものだなと、ぼんやりと考える。そのうち、安らかな眠りが晴也を包みこんだ。
昨日のバックハグとは比べものにならない密着度に、晴也の心臓はこれまでにない速さで打ち始める。呼吸が浅くなった。
「可愛いなぁ……」
「だっ、だからっ、こういうことをやめろって言ってるんだよ、風呂入れっ」
ふふふ、と晶は耳のそばで笑う。声の近さに背筋がぞくぞくした。身体が熱い、暖房は緩くにしか入れていないのに。
「昨日みたいに力抜いて、肩とか首が凝ってしまうから」
晴也は晶の言葉にえっ、と思わず言った。昨日、何かあったのか。晶はゆっくりと背中を撫でる。その手の動きが心地良く、彼は今日も何だか良い匂いがして、抵抗する気力が萎えてしまう。
「ハルさん泣き疲れて俺にもたれ掛かって爆睡してたんだよね」
まさか。確かにうつらうつらしたと思うが、ソファに軽く横になっただけだ。爆睡なんてしていない……筈だ。晴也はぬくぬくすることに甘んじ始めた自分に気づき、晶の肩に腕を突っ張って、彼の身体を引き剥がすことに成功した。
「風呂入って」
目を合わせずに言うと、先にいただきます、と晶は素直に答えた。諦めてくれたことに、ほっとした気持ちが半分、がっかりした気持ちが半分だった。
普段完全に独りでいる空間に他人がいるというのは、違和感が半端ない。晴也がシャワーを済ませて浴室から出ると、黒い髪を乾かしっぱなしにした後ろ姿がリビングにあり、どきっとする。
晶はイヤホンを耳に入れ、胡坐で座ったまま小さく腕を動かしていた。振り付けを確認しているのだと、すぐに晴也は理解した。彼の長い腕は、時々すっと上に伸ばされ、つられるように彼の顔も上を向く。真っ直ぐに伸びた背筋に繋がる首は、常に頭部を引き上げる訓練を受けた人らしい、美しいラインを描いている。
綺麗な人だなと晴也は思う。晶は姿が美しい。舞台に立つ時はもちろん、冴えないサラリーマンでいる時や、今のように風呂上がりにくつろいでいる時も。
「あ、ハルさん」
晶はイヤホンを外し、スマートフォンを操作する。音楽を止めたのだろう。
「寝よう、ベッドを整えておいた」
今朝は慌てて起きたから、さぞかしベッドはぐちゃぐちゃだったと思う。何となく嬉しげな彼を見て、晴也は苦情を申し立てた。
「寝てたらいいのに、俺は床で寝るから」
「寒いのに何言ってんだ、風邪ひくぞ……ほら」
晶は4歩で晴也の傍に来て、右の腕を掴んだ。晴也は想定外の彼の行動に反応が遅れ、ベランダ側のベッドに連れていかれる。壁際に追い立てられ、晴也は思う。一体誰の家なんだ。しかし眠くて、抵抗する気力が無かった。
晶は自分もちゃっかりベッドに上がってきて、勝手にエアコンのタイマーをセットした。枕が一つしか無いと晴也はようやく気づく。
「あ、タオル……」
「何、セックスしてくれるの?」
何故セックスするのにタオルが要るのか気になったが、晴也はスルーした。
「枕が無いんだよ、俺タオルでいいからおまえ使え」
「腕枕するよ」
「要らねぇよ馬鹿野郎」
淡々と暴言を吐く晴也に笑いながら、晶はベッドから降りて、自分の鞄を開け、タオルを引っ張り出した。何なんだよ、泊まる気満々だったんじゃないか……晴也はむすっとしながら、水色のスポーツサイズのタオルを受け取った。
部屋の明かりを落とした。晴也は壁ににじり寄ってから、緊張を保とうとしたが、頭の下のタオルが柔らかくて良い匂いがすることもあって、眠気に抗えず瞼を落としてしまう。
晶も疲れていたのか、何も話さず大人しくしてくれていた。そのうち、規則正しいリズムの呼吸音が聞こえて来る。彼の呼吸は深くて長かった。激しい運動をする人だからだろうと、晴也は勝手に納得する。
部屋が暗いと、やたらに近距離にいる晶のことを意識しないで済んだ。自分のものでない温もりや匂いは、予想外に心地良い。女きょうだいしかいない晴也には、小学生になって以降、他人と一つ布団で眠るという経験が無い。何となくホッとするし、寒い時は気持ちいいものだなと、ぼんやりと考える。そのうち、安らかな眠りが晴也を包みこんだ。
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