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古くて薄汚い雑居ビルに入ったところで肩を上げ下げし、エレベーターを降りると、今日も気合いを入れてバー「めぎつね」の扉を押す。晴也はそこに英子ママの姿を認めて、おはようございます、と笑顔で挨拶した。
「おはようハルちゃん、昨夜のショーは面白かった?」
ミックスナッツの缶をカウンターに出すママに言われて、晴也は一瞬固まる。そしてはい、と答えた。嘘ではない、昨夜は本当に楽しかった。にもかかわらず、罪悪感に似たような思いが胸に湧くのは、何故なのだろう?
「筋肉に目覚めそうか?」
ママの言葉に晴也は苦笑した。
「いや、それはちょっと……ダンスはめちゃくちゃカッコよかったですよ、何というか……あんな地下の狭いステージで踊らせておくのはもったいないというか」
晴也はショウのしなやかな手足が、空気をかき混ぜきらきらさせていくようだったのを思い出しながら、話す。ママは頬にかかる髪を指ですいと払ってから、目を見開いた。
「ハルちゃんにしては饒舌だな、本当に目覚めてない?」
「いやだから、性的な対象ではあり得ないです」
「えーっ、ほんとに?」
晴也はダンサーのショウこと、吉岡晶がこれから店を訪れるかもしれないことを、伝えるべきかどうか迷う。広い店ではないので、来店が分かっている客のために、席を確保しておくほうが良い場合があるのだ。
まず着替えようと、ママの突っ込みの手を逃れ、晴也はバックヤードに入る暖簾をくぐる。2人の男性が、これから女となるべく入念に化粧中である。
「おはよう、昨夜はお疲れ」
ミチルがチークブラシを手に言った。今日はロングヘアで店に出るつもりらしく、鏡の前にカツラが置いてある。
「こちらこそありがとうございました、……あのですね、ミチルさん」
晴也はやはりミチルには報告すべきだろうと思い口を開いたが、躊躇う。
「あ、私外したほうがいい?」
奥に座ってつけまつげに糊をつけていたナツミが言う。
「あ、秘密の話じゃないですよ、いらしてください」
晴也はスーツのジャケットをハンガーに掛け、ネクタイを緩める。
「どしたのハルちゃん」
「えっと、今日ショウさん来るかもです」
ミチルは目を丸くして、ブラシで頬を撫でるのを止めた。信じられないような口調で、晴也に確認してきた。
「本人が言ったの?」
「はい、まあ……」
あれはショウと言えるのか。今日会社にやって来た、平凡でどこにでもいそうな、どちらかと言わなくても冴えないサラリーマン。マッチョ好きの男たちの股間を熱くするダンサーの、昼間の姿だ。
「何だあいつ、いつの間にハルちゃんにちょっかい出してんだよ、けしからん」
ミチルは半笑いで言った。晴也は紙袋からクリーム色のニットとデニムのスカートを出し、交際してくれと会社で迫られたことを思い出して手を止める。
「ハルちゃん?」
「あ、いや……」
晴也が着替え始めると、ナツミが可愛いなぁ、と溜め息しながら言った。羨望混じりのようである。
「ショウくん来るんだったら昨日みたいなほうが良くない?」
ミチルが普段着系コーデの晴也を見て、言った。晴也は首を傾げる。
「何でショウさんのために服選ばないといけないんですか?」
「うわ、ハルちゃんクールだわ、あんなイケメンに会いにいくって言われてその言い方」
ミチルが笑う。イケメンという言葉に、ナツミが食いついて来る。
「どこのイケメンなの? ミチルさんの知り合い? ハルちゃん指名のお客様って初めてよね」
めぎつねは指名制は採っていないが、常連客の中には特定のホステスを席に呼ぶ者もいる。ただし、女装を楽しむ男たちと明るく飲む、というのがめぎつねのコンセプトなので、あまりしつこく一人のホステスを侍らせたがる客には、ママが牽制する。
「俺の愛してるマッチョダンサーズのメンバーだよ、昨日閉店早かったからハルちゃんをショーに連れてったんだ」
ミチルの説明に、ナツミが小さく笑う。
「ハルちゃん筋肉好きなんだぁ」
「違いますって」
晴也は自分が恋バナに類似した話題の中心になっているという現状に、かなり困惑していた。マスカラが不必要に濃くなってしまう。服に合わないのでシートクレンジングで睫毛を挟んだ。
ミチルに全て話せれば楽なのに――ショウこと吉岡晶が晴也の会社の取引先の社員で、2日続けて顔を合わせていることや、正体を見破られたことを話したい。しかし吉岡は、晴也同様夜に変身して、男どもに半裸を晒し踊っていることを隠していると言った。この世の中、誰が何処でどう繋がっているかわからない。みだりに他の人に話すべきではないだろう。
メイクの仕上げに、昨日よりも赤味の強い口紅を塗る。何となくもやもやしていても、鏡の中の自分が女に変わって行くのを見るのは楽しい。
「ママに言っとけよ、席が無かったら気の毒だ……ユウヤ一緒に来てくれないかなぁ」
ミチルは半分本気の口調で言う。自分がショウに向ける視線などより、彼がダンサーたちのリーダーのユウヤに向けるそれのほうが熱く真剣なので、晴也は何となく申し訳ない気持ちになった。
3人とも支度を整えると、気取らない雰囲気に案外統一感があった。3人の男はお互いの身だしなみを軽くチェックし、順番にパンプスやブーツに足を入れる。ママも満足そうに言った。
「うん、じゃあ今日は俺も軽装で行くから、おうちデート感出そうか」
はあい、と女装男子たちは声を揃えた。19時、バー「めぎつね」が開店する。
「おはようハルちゃん、昨夜のショーは面白かった?」
ミックスナッツの缶をカウンターに出すママに言われて、晴也は一瞬固まる。そしてはい、と答えた。嘘ではない、昨夜は本当に楽しかった。にもかかわらず、罪悪感に似たような思いが胸に湧くのは、何故なのだろう?
「筋肉に目覚めそうか?」
ママの言葉に晴也は苦笑した。
「いや、それはちょっと……ダンスはめちゃくちゃカッコよかったですよ、何というか……あんな地下の狭いステージで踊らせておくのはもったいないというか」
晴也はショウのしなやかな手足が、空気をかき混ぜきらきらさせていくようだったのを思い出しながら、話す。ママは頬にかかる髪を指ですいと払ってから、目を見開いた。
「ハルちゃんにしては饒舌だな、本当に目覚めてない?」
「いやだから、性的な対象ではあり得ないです」
「えーっ、ほんとに?」
晴也はダンサーのショウこと、吉岡晶がこれから店を訪れるかもしれないことを、伝えるべきかどうか迷う。広い店ではないので、来店が分かっている客のために、席を確保しておくほうが良い場合があるのだ。
まず着替えようと、ママの突っ込みの手を逃れ、晴也はバックヤードに入る暖簾をくぐる。2人の男性が、これから女となるべく入念に化粧中である。
「おはよう、昨夜はお疲れ」
ミチルがチークブラシを手に言った。今日はロングヘアで店に出るつもりらしく、鏡の前にカツラが置いてある。
「こちらこそありがとうございました、……あのですね、ミチルさん」
晴也はやはりミチルには報告すべきだろうと思い口を開いたが、躊躇う。
「あ、私外したほうがいい?」
奥に座ってつけまつげに糊をつけていたナツミが言う。
「あ、秘密の話じゃないですよ、いらしてください」
晴也はスーツのジャケットをハンガーに掛け、ネクタイを緩める。
「どしたのハルちゃん」
「えっと、今日ショウさん来るかもです」
ミチルは目を丸くして、ブラシで頬を撫でるのを止めた。信じられないような口調で、晴也に確認してきた。
「本人が言ったの?」
「はい、まあ……」
あれはショウと言えるのか。今日会社にやって来た、平凡でどこにでもいそうな、どちらかと言わなくても冴えないサラリーマン。マッチョ好きの男たちの股間を熱くするダンサーの、昼間の姿だ。
「何だあいつ、いつの間にハルちゃんにちょっかい出してんだよ、けしからん」
ミチルは半笑いで言った。晴也は紙袋からクリーム色のニットとデニムのスカートを出し、交際してくれと会社で迫られたことを思い出して手を止める。
「ハルちゃん?」
「あ、いや……」
晴也が着替え始めると、ナツミが可愛いなぁ、と溜め息しながら言った。羨望混じりのようである。
「ショウくん来るんだったら昨日みたいなほうが良くない?」
ミチルが普段着系コーデの晴也を見て、言った。晴也は首を傾げる。
「何でショウさんのために服選ばないといけないんですか?」
「うわ、ハルちゃんクールだわ、あんなイケメンに会いにいくって言われてその言い方」
ミチルが笑う。イケメンという言葉に、ナツミが食いついて来る。
「どこのイケメンなの? ミチルさんの知り合い? ハルちゃん指名のお客様って初めてよね」
めぎつねは指名制は採っていないが、常連客の中には特定のホステスを席に呼ぶ者もいる。ただし、女装を楽しむ男たちと明るく飲む、というのがめぎつねのコンセプトなので、あまりしつこく一人のホステスを侍らせたがる客には、ママが牽制する。
「俺の愛してるマッチョダンサーズのメンバーだよ、昨日閉店早かったからハルちゃんをショーに連れてったんだ」
ミチルの説明に、ナツミが小さく笑う。
「ハルちゃん筋肉好きなんだぁ」
「違いますって」
晴也は自分が恋バナに類似した話題の中心になっているという現状に、かなり困惑していた。マスカラが不必要に濃くなってしまう。服に合わないのでシートクレンジングで睫毛を挟んだ。
ミチルに全て話せれば楽なのに――ショウこと吉岡晶が晴也の会社の取引先の社員で、2日続けて顔を合わせていることや、正体を見破られたことを話したい。しかし吉岡は、晴也同様夜に変身して、男どもに半裸を晒し踊っていることを隠していると言った。この世の中、誰が何処でどう繋がっているかわからない。みだりに他の人に話すべきではないだろう。
メイクの仕上げに、昨日よりも赤味の強い口紅を塗る。何となくもやもやしていても、鏡の中の自分が女に変わって行くのを見るのは楽しい。
「ママに言っとけよ、席が無かったら気の毒だ……ユウヤ一緒に来てくれないかなぁ」
ミチルは半分本気の口調で言う。自分がショウに向ける視線などより、彼がダンサーたちのリーダーのユウヤに向けるそれのほうが熱く真剣なので、晴也は何となく申し訳ない気持ちになった。
3人とも支度を整えると、気取らない雰囲気に案外統一感があった。3人の男はお互いの身だしなみを軽くチェックし、順番にパンプスやブーツに足を入れる。ママも満足そうに言った。
「うん、じゃあ今日は俺も軽装で行くから、おうちデート感出そうか」
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