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Extra Track とある婦人の日記
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今日はロレンス・ホームのクリスマスコンサートです。このホームにはちょっと広いイベント用の部屋があるものですから、一年中外部からいろいろな方が演奏や踊りやお話しにいらっしゃるのですが、クリスマスはやはり特別です。
しかも今年は、いつもクオリティの高いコンサートを企画してくださる、辻井将さんと牧野景織子さんが担当されると聞いて、私ども音楽系老人は、ずっと楽しみにしておりました。お2人が音楽療法の研究をされているのは皆に周知されており、私たちは実験台だねなどと言う人もいますけれど、私はむしろ、世捨て人になっても研究のお手伝いができるなんて、有り難いことだと思うのです。
このホームには現在、重度の要介護者はおらず、グループホーム的な雰囲気も大きいです。私ども音楽好きは自主的に演奏をしてみたり、施設長にお願いして音大の先生にお話しに来てもらったりします。コンサートは、施設全体のイベントなので、普段音楽に興味が無さそうな方も、皆さんいらっしゃいますね。
さて今日のプログラムは、10人の中学生のハンドベルと音大の男性2人のアンサンブルということで、3日前に入居者はパンフレット(と申しましても、1枚の紙に両面印刷したものです)を受け取り、どんな演奏会なんだろうと噂しておりました。ハンドベルの曲目には「キャロル・オブ・ザ・ベル」が入っていて、あのテンポの曲を演奏出来るのかと、ひとしきり盛り上がりました。男性の二重唱も比較的新しい曲のようで、子ども向けの詩集がベースになっているようだと、読書家の婦人が教えてくれました。
男性の入居者には、今回綺麗なドレスを着て演奏してくださる若い女性がいないので、ちょっとがっかりだと笑う人もいましたが、私は若い男の子がデュエットしてくれるのが楽しみでした。そんなプログラムはなかなか無く、やはり私のようなおばあさんは、男の子がパワー溢れる声で歌ってくれるのが、元気がもらえていいのです。容姿については……日本人のクラシックの男性音楽家には、あまり期待しません(はしたなくてごめんなさい)。
イベントホールと私たちが呼んでいる部屋では、朝からリハーサルがおこなわれていました。入居者はその時間、ゆっくり食事をしたり、コンサートを一緒に楽しむために訪れた家族と面会したりしていたので、リハーサルは見ていません。私には今や身内も、遠方から面会に来ませんので、仲良しのご婦人方とカフェオレを飲みながら、おしゃべりしていました。
11時半に1階の会場に向かうと、ホールは人でいっぱいでした。後ろのほうには、出演者のご家族でしょうか、一般の方も座っていました。中には華やかなお嬢さんたちもいて、おそらく音大生だと思いましたが、枯れた花に混じる咲きたてのバラのようで、ちょっと笑えるくらいでした。私が音楽学生のころは、女子も皆地味でしたけれどね。
入居者は優先的に、舞台が見やすい場所に席を決めてもらっていました。私は背が低いので、前のほうに座らせてもらい、申し訳ないくらいです。10センチほどの段上がりの舞台にはグランドピアノが常設してあり、その前に布が掛けられた長机が置かれて、ハンドベルが30個ほど並べられています。下手から上手に向かってだんだん大きいもの、つまり低い音の出るベルが並びます。
期待にざわざわしていた会場は、施設長のあいさつの開始でしんと静まり、黒いドレスの牧野さんが続けて、簡単に出演者と楽曲の解説と、このコンサートが研究の一環であることを説明しました。好奇心の強い3人の男女の入居者が、脳波の測定のために頭に何か被っていました。
早速、ハンドベルの演奏が始まりました。赤いケープを羽織り、頭に小さなサンタ帽を乗せた中学生たちが奏でる音楽は、長い残響で部屋の中を満たします。ピアノなら1人でささっと弾ける曲を、1つ1つのベルの音で繋いでいくのですから、子どもたちの集中した顔は本当に真剣です。
演奏はなかなか本格的で、上級生らしき男の子と女の子は、素早く大きさの違うベルを持ち替え、1人で4つか5つのベルを扱っていました。入居者の間で注目されていた「キャロル・オブ・ザ・ベル」は圧巻の演奏で、最後の和音が響きその音が空気に溶けて消えると、やんややんやの喝采になりました。私もいたく感動して、いつまでも中学生たちに拍手を送りました。
私たちは皆トイレが近いので、休憩時間が設けられました。私も失礼しましたが、イベントホールに戻ってくると、ハンドベルが置いてあったテーブルと譜面台が片づけられて、舞台の上には男性のスーツのジャケットが2着掛かったハンガーと、上手の奥に3つ折りの木の衝立が出ていました。
ハンドベルクワイヤの生徒たちは、ケープを替えて、頭に魚がついた手作りのマスクというのか、被りものをつけています。皆大役を終えて、ほっとした表情でした。彼らは2人ずつペアになり、ホールのいろいろな場所に座りました。
時間になって会場の出入りが落ち着くと、スラックスと白いシャツを身につけた若い男性が、窓際を通って舞台上手に向かいました。彼の髪は、ふわりと結んだタイと同じ黒い色をしていて、その姿勢の良さで歌い手だなとすぐにわかりました。緊張からか、彼は唇を引き結び、衝立の後ろに入ります。
しかも今年は、いつもクオリティの高いコンサートを企画してくださる、辻井将さんと牧野景織子さんが担当されると聞いて、私ども音楽系老人は、ずっと楽しみにしておりました。お2人が音楽療法の研究をされているのは皆に周知されており、私たちは実験台だねなどと言う人もいますけれど、私はむしろ、世捨て人になっても研究のお手伝いができるなんて、有り難いことだと思うのです。
このホームには現在、重度の要介護者はおらず、グループホーム的な雰囲気も大きいです。私ども音楽好きは自主的に演奏をしてみたり、施設長にお願いして音大の先生にお話しに来てもらったりします。コンサートは、施設全体のイベントなので、普段音楽に興味が無さそうな方も、皆さんいらっしゃいますね。
さて今日のプログラムは、10人の中学生のハンドベルと音大の男性2人のアンサンブルということで、3日前に入居者はパンフレット(と申しましても、1枚の紙に両面印刷したものです)を受け取り、どんな演奏会なんだろうと噂しておりました。ハンドベルの曲目には「キャロル・オブ・ザ・ベル」が入っていて、あのテンポの曲を演奏出来るのかと、ひとしきり盛り上がりました。男性の二重唱も比較的新しい曲のようで、子ども向けの詩集がベースになっているようだと、読書家の婦人が教えてくれました。
男性の入居者には、今回綺麗なドレスを着て演奏してくださる若い女性がいないので、ちょっとがっかりだと笑う人もいましたが、私は若い男の子がデュエットしてくれるのが楽しみでした。そんなプログラムはなかなか無く、やはり私のようなおばあさんは、男の子がパワー溢れる声で歌ってくれるのが、元気がもらえていいのです。容姿については……日本人のクラシックの男性音楽家には、あまり期待しません(はしたなくてごめんなさい)。
イベントホールと私たちが呼んでいる部屋では、朝からリハーサルがおこなわれていました。入居者はその時間、ゆっくり食事をしたり、コンサートを一緒に楽しむために訪れた家族と面会したりしていたので、リハーサルは見ていません。私には今や身内も、遠方から面会に来ませんので、仲良しのご婦人方とカフェオレを飲みながら、おしゃべりしていました。
11時半に1階の会場に向かうと、ホールは人でいっぱいでした。後ろのほうには、出演者のご家族でしょうか、一般の方も座っていました。中には華やかなお嬢さんたちもいて、おそらく音大生だと思いましたが、枯れた花に混じる咲きたてのバラのようで、ちょっと笑えるくらいでした。私が音楽学生のころは、女子も皆地味でしたけれどね。
入居者は優先的に、舞台が見やすい場所に席を決めてもらっていました。私は背が低いので、前のほうに座らせてもらい、申し訳ないくらいです。10センチほどの段上がりの舞台にはグランドピアノが常設してあり、その前に布が掛けられた長机が置かれて、ハンドベルが30個ほど並べられています。下手から上手に向かってだんだん大きいもの、つまり低い音の出るベルが並びます。
期待にざわざわしていた会場は、施設長のあいさつの開始でしんと静まり、黒いドレスの牧野さんが続けて、簡単に出演者と楽曲の解説と、このコンサートが研究の一環であることを説明しました。好奇心の強い3人の男女の入居者が、脳波の測定のために頭に何か被っていました。
早速、ハンドベルの演奏が始まりました。赤いケープを羽織り、頭に小さなサンタ帽を乗せた中学生たちが奏でる音楽は、長い残響で部屋の中を満たします。ピアノなら1人でささっと弾ける曲を、1つ1つのベルの音で繋いでいくのですから、子どもたちの集中した顔は本当に真剣です。
演奏はなかなか本格的で、上級生らしき男の子と女の子は、素早く大きさの違うベルを持ち替え、1人で4つか5つのベルを扱っていました。入居者の間で注目されていた「キャロル・オブ・ザ・ベル」は圧巻の演奏で、最後の和音が響きその音が空気に溶けて消えると、やんややんやの喝采になりました。私もいたく感動して、いつまでも中学生たちに拍手を送りました。
私たちは皆トイレが近いので、休憩時間が設けられました。私も失礼しましたが、イベントホールに戻ってくると、ハンドベルが置いてあったテーブルと譜面台が片づけられて、舞台の上には男性のスーツのジャケットが2着掛かったハンガーと、上手の奥に3つ折りの木の衝立が出ていました。
ハンドベルクワイヤの生徒たちは、ケープを替えて、頭に魚がついた手作りのマスクというのか、被りものをつけています。皆大役を終えて、ほっとした表情でした。彼らは2人ずつペアになり、ホールのいろいろな場所に座りました。
時間になって会場の出入りが落ち着くと、スラックスと白いシャツを身につけた若い男性が、窓際を通って舞台上手に向かいました。彼の髪は、ふわりと結んだタイと同じ黒い色をしていて、その姿勢の良さで歌い手だなとすぐにわかりました。緊張からか、彼は唇を引き結び、衝立の後ろに入ります。
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