44 / 284
3 汝なにゆえ世話を焼く
6月 2
しおりを挟む
無邪気な弟子の返事にふっと笑った国見は、少し迷うようなそぶりを見せてから、口を開いた。
「藤巻が引退を考えてるみたいだ」
「え……」
藤巻は昨年秋、還暦コンサートを札幌で開催したばかりだ。シューベルトの「冬の旅」全曲を歌って好評を博し、ライブ録音をCD化しないかと言われている。
藤巻が三喜雄の父と同級生であることを思えば、おかしなことではない。しかし三喜雄は、いつも自分の手本であり目標でもある師の引退の話題は、やはりショックだった。
「ゴールデンウィークに会った時は、そんなことひと言も……」
「僕も初めて聞いたよ、最近決めたんだろう……奥様の具合が一進一退というのも理由にあるかもしれない」
国見の声がしんみりとする。4年前に子宮癌が見つかった藤巻夫人は、ずっと治療を続けていた。
藤巻の妻は会計士で、アマチュアのピアニストだ。夫の音楽活動を陰日向で支えてきた。三喜雄が藤巻の自宅に、自転車を走らせてレッスンに行くと、真冬はいつも温かい飲み物を出してくれた。
三喜雄は帰国してから、地元でアルバイトと教職の勉強を始め、学生時代のように藤巻のところへ月2回通っていた。夫人の姿が見えなくなり、何となく気になって藤巻に問うと、病院にいると教えてくれたのだった。
藤巻自身も、年には勝てないと三喜雄に笑いながら話していた。しかし、もし藤巻が、夫人の看病を舞台から降りる理由のひとつにするのであれば、師に歌から距離を置く決断をさせる夫人の存在に、三喜雄は畏怖のようなものを感じる。確かに藤巻は、2人の子を育て上げてからも夫人と仲睦まじいが、生涯を共にする連れ合いの力とは、そんなに強いのかと思うのだ。
「どうした片山くん、やっぱりショックかな? でも演奏家は誰しも、引き際を見極め受け入れなくちゃいけないものだ」
舞台を去ったのが早かった国見は、何故そうしたのか、詳細を三喜雄に話したことはなかった。もしかすると藤巻以上に、意外な理由かもしれない。興味はあるが、師の胸のうちに土足で踏み込むようなことになると嫌なので、今は訊かない。
「……藤巻先生は奥様と仲が良いから、先生もお辛いと思います……でも奥様のために先生が一線を退くというなら、ちょっと何というか、羨ましいような感じがします」
国見はピアノの椅子から、三喜雄を覗きこんでくる。
「羨ましい? 何が?」
つまらないことを口走ってしまったと、三喜雄はやや後悔したが、国見とはなかなかゆっくり話せないので、説明する。
「いえ、その、そんな大切な伴侶がいらっしゃること自体が羨ましいというか」
笑われるかと思ったが、国見は真面目に応じる。
「そうか、片山くんもそんなことを考えるようになったのか」
「あ、今すぐ結婚したいとかじゃないんですけど、日曜日に高校の後輩の結婚式に出たのもある……かもしれないです」
それは、今までほとんど抱いたことが無かった感情だった。30を過ぎて特別な女性もいない自分は、これからも独りで生きていくのだろうなと考えると、何やらちょっぴり寂しいのだ。
「連れ合いがいるのは悪いことではないよ……ただ、うちみたいに全く同業ってのは、あまりお勧めしない」
言って苦笑する国見の妻はソプラノ歌手だ。今はほとんど舞台には上がらず、国見と同様、大学や自宅で教えている。国見はこんな言い方をするが仲良く連れ添っているので、歌手同士なのに珍しいおしどり夫婦と、密かに業界では言われている。
「片山くんなら音楽家でない人とも、上手くやれると思うけど?」
「出会いが無いですかね……」
「きっとこれからだよ、顔も名前も売れてくるから……でも、お金や知名度だけが目当ての女性も世の中多いぞ、十分気をつけなさい」
大真面目に言う国見が可笑しい。大学院生時代、こんな国見がちょっと怖かったのだが、今は自分のことを、もしかしたら頼りない息子のように思ってくれていると理解している三喜雄である。
「そうか、大切にしたいと思える相手が出てきたら、片山くんはもう一皮剥けるかもしれないね」
「は?」
三喜雄は水筒の蓋を閉めて、思わず師の顔を見た。国見は今日はよく話してくれる。
「これは藤巻とも話してたんだけどね、何というか……片山くんが追いこまれないと発動しないものが、普段から定着したらいいのにと思う」
「藤巻が引退を考えてるみたいだ」
「え……」
藤巻は昨年秋、還暦コンサートを札幌で開催したばかりだ。シューベルトの「冬の旅」全曲を歌って好評を博し、ライブ録音をCD化しないかと言われている。
藤巻が三喜雄の父と同級生であることを思えば、おかしなことではない。しかし三喜雄は、いつも自分の手本であり目標でもある師の引退の話題は、やはりショックだった。
「ゴールデンウィークに会った時は、そんなことひと言も……」
「僕も初めて聞いたよ、最近決めたんだろう……奥様の具合が一進一退というのも理由にあるかもしれない」
国見の声がしんみりとする。4年前に子宮癌が見つかった藤巻夫人は、ずっと治療を続けていた。
藤巻の妻は会計士で、アマチュアのピアニストだ。夫の音楽活動を陰日向で支えてきた。三喜雄が藤巻の自宅に、自転車を走らせてレッスンに行くと、真冬はいつも温かい飲み物を出してくれた。
三喜雄は帰国してから、地元でアルバイトと教職の勉強を始め、学生時代のように藤巻のところへ月2回通っていた。夫人の姿が見えなくなり、何となく気になって藤巻に問うと、病院にいると教えてくれたのだった。
藤巻自身も、年には勝てないと三喜雄に笑いながら話していた。しかし、もし藤巻が、夫人の看病を舞台から降りる理由のひとつにするのであれば、師に歌から距離を置く決断をさせる夫人の存在に、三喜雄は畏怖のようなものを感じる。確かに藤巻は、2人の子を育て上げてからも夫人と仲睦まじいが、生涯を共にする連れ合いの力とは、そんなに強いのかと思うのだ。
「どうした片山くん、やっぱりショックかな? でも演奏家は誰しも、引き際を見極め受け入れなくちゃいけないものだ」
舞台を去ったのが早かった国見は、何故そうしたのか、詳細を三喜雄に話したことはなかった。もしかすると藤巻以上に、意外な理由かもしれない。興味はあるが、師の胸のうちに土足で踏み込むようなことになると嫌なので、今は訊かない。
「……藤巻先生は奥様と仲が良いから、先生もお辛いと思います……でも奥様のために先生が一線を退くというなら、ちょっと何というか、羨ましいような感じがします」
国見はピアノの椅子から、三喜雄を覗きこんでくる。
「羨ましい? 何が?」
つまらないことを口走ってしまったと、三喜雄はやや後悔したが、国見とはなかなかゆっくり話せないので、説明する。
「いえ、その、そんな大切な伴侶がいらっしゃること自体が羨ましいというか」
笑われるかと思ったが、国見は真面目に応じる。
「そうか、片山くんもそんなことを考えるようになったのか」
「あ、今すぐ結婚したいとかじゃないんですけど、日曜日に高校の後輩の結婚式に出たのもある……かもしれないです」
それは、今までほとんど抱いたことが無かった感情だった。30を過ぎて特別な女性もいない自分は、これからも独りで生きていくのだろうなと考えると、何やらちょっぴり寂しいのだ。
「連れ合いがいるのは悪いことではないよ……ただ、うちみたいに全く同業ってのは、あまりお勧めしない」
言って苦笑する国見の妻はソプラノ歌手だ。今はほとんど舞台には上がらず、国見と同様、大学や自宅で教えている。国見はこんな言い方をするが仲良く連れ添っているので、歌手同士なのに珍しいおしどり夫婦と、密かに業界では言われている。
「片山くんなら音楽家でない人とも、上手くやれると思うけど?」
「出会いが無いですかね……」
「きっとこれからだよ、顔も名前も売れてくるから……でも、お金や知名度だけが目当ての女性も世の中多いぞ、十分気をつけなさい」
大真面目に言う国見が可笑しい。大学院生時代、こんな国見がちょっと怖かったのだが、今は自分のことを、もしかしたら頼りない息子のように思ってくれていると理解している三喜雄である。
「そうか、大切にしたいと思える相手が出てきたら、片山くんはもう一皮剥けるかもしれないね」
「は?」
三喜雄は水筒の蓋を閉めて、思わず師の顔を見た。国見は今日はよく話してくれる。
「これは藤巻とも話してたんだけどね、何というか……片山くんが追いこまれないと発動しないものが、普段から定着したらいいのにと思う」
24
あなたにおすすめの小説
売れ残りオメガの従僕なる日々
灰鷹
BL
王弟騎士α(23才)× 地方貴族庶子Ω(18才)
※ 第12回BL大賞では、たくさんの応援をありがとうございました!
ユリウスが暮らすシャマラーン帝国では、平民のオメガは18才になると、宮廷で開かれる選定の儀に参加することが義務付けられている。王族の妾となるオメガを選ぶためのその儀式に参加し、誰にも選ばれずに売れ残ったユリウスは、国王陛下から「第3王弟に謀反の疑いがあるため、身辺を探るように」という密命を受け、オメガ嫌いと噂される第3王弟ラインハルトの従僕になった。
無口で無愛想な彼の優しい一面を知り、任務とは裏腹にラインハルトに惹かれていくユリウスであったが、働き始めて3カ月が過ぎたところで第3王弟殿下が辺境伯令嬢の婿養子になるという噂を聞き、従僕も解雇される。
元アイドルは現役アイドルに愛される
陽
BL
人気アイドルグループのエースだった奏多は事故により脚を怪我し、グループを脱退する。エースの抜けたグループの人気はみるみる下落し、そのまま解散。そのことに責任と罪悪感を感じた奏多は芸能界の表舞台から引退し、正体不明の作曲家Kとして裏で支えることに。
罪悪感からご飯を食べなくなった奏多の肌は痩せこけ、青白くかつての輝きはなくなっていた。
ある日の打ち合わせでかつてのグループメンバーである颯真と再会する。
メガネとマスクをしているがかつてのメンバーのことは騙せない。
『奏多、会いたかった』
『僕、奏多さんのパフォーマンスを見て、人生変わったんです!』
やけに自分に懐いているワンコ系の後輩リオと、かつてのグループのメンバー颯真に受け止めきれない愛を向けられる話。
貢がせて、ハニー!
わこ
BL
隣の部屋のサラリーマンがしょっちゅう貢ぎにやって来る。
隣人のストレートな求愛活動に困惑する男子学生の話。
社会人×大学生の日常系年の差ラブコメ。
※現時点で小説の公開対象範囲は全年齢となっております。しばらくはこのまま指定なしで更新を続ける予定ですが、アルファポリスさんのガイドラインに合わせて今後変更する場合があります。(2020.11.8)
■2025.12.14 285話のタイトルを「おみやげ何にする? Ⅲ」から変更しました。
■2025.11.29 294話のタイトルを「赤い川」から変更しました。
■2024.03.09 2月2日にわざわざサイトの方へ誤変換のお知らせをくださった方、どうもありがとうございました。瀬名さんの名前が僧侶みたいになっていたのに全く気付いていなかったので助かりました!
■2024.03.09 195話/196話のタイトルを変更しました。
■2020.10.25 25話目「帰り道」追加(差し込み)しました。話の流れに変更はありません。
僕の恋人は、超イケメン!!
八乙女 忍
BL
僕は、普通の高校2年生。そんな僕にある日恋人ができた!それは超イケメンのモテモテ男子、あまりにもモテるため女の子に嫌気をさして、偽者の恋人同士になってほしいとお願いされる。最初は、嘘から始まった恋人ごっこがだんだん本気になっていく。お互いに本気になっていくが・・・二人とも、どうすれば良いのかわからない。この後、僕たちはどうなって行くのかな?
【完結】抱っこからはじまる恋
* ゆるゆ
BL
満員電車で、立ったまま寄りかかるように寝てしまった高校生の愛希を抱っこしてくれたのは、かっこいい社会人の真紀でした。接点なんて、まるでないふたりの、抱っこからはじまる、しあわせな恋のお話です。
ふたりの動画をつくりました!
インスタ @yuruyu0 絵もあがります。
YouTube @BL小説動画 アカウントがなくても、どなたでもご覧になれます。
プロフのwebサイトから飛べるので、もしよかったら!
完結しました!
おまけのお話を時々更新しています。
BLoveさまのコンテストに応募しているお話を倍以上の字数増量でお送りする、アルファポリスさま限定版です!
名前が * ゆるゆ になりましたー!
中身はいっしょなので(笑)これからもどうぞよろしくお願い致しますー!
【完結】アイドルは親友への片思いを卒業し、イケメン俳優に溺愛され本当の笑顔になる <TOMARIGIシリーズ>
はなたろう
BL
TOMARIGIシリーズ②
人気アイドル、片倉理久は、同じグループの伊勢に片思いしている。高校生の頃に事務所に入所してからずっと、2人で切磋琢磨し念願のデビュー。苦楽を共にしたが、いつしか友情以上になっていった。
そんな伊勢は、マネージャーの湊とラブラブで、幸せを喜んであげたいが複雑で苦しい毎日。
そんなとき、俳優の桐生が現れる。飄々とした桐生の存在に戸惑いながらも、片倉は次第に彼の魅力に引き寄せられていく。
友情と恋心の狭間で揺れる心――片倉は新しい関係に踏み出せるのか。
人気アイドル<TOMARIGI>シリーズ新章、開幕!
逃げた先に、運命
夢鴉
BL
周囲の過度な期待に耐えられなくなったアルファーー暁月凛(あかつき りん)は、知らない電車に乗り込み、逃避行を計った。
見知らぬ風景。
見知らぬ土地。
見知らぬ海で出会ったのは、宵月蜜希(よいつき みつき)――番持ちの、オメガだった。
「あははは、暁月くんは面白いなぁ」
「ありがとうね、暁月くん」
「生意気だなぁ」
オメガとは思えないほど真っすぐ立つ蜜希。
大人としての余裕を持つ彼に、凛は自分がアルファであることを忘れるほど、穏やかな気持ちで日々を過ごしていく。
しかし、蜜希の初めての発情期を見た凛は、全身を駆け巡る欲に自分がアルファであることを思い出す。
蜜希と自分が”運命の番”だと知った凛は、恋を自覚した瞬間失恋していたことを知る。
「あの人の番は、どんな人なんだろう」
愛された蜜希は、きっと甘くて可愛らしい。
凛は蜜希への秘めた想いを抱えながら、蜜希を支えることを決意する。
しかし、蜜希の番が訳ありだと知った凛は、怒り、震え――同時に、自分がアルファである事を現実は無情にも突き付けて来る。
「凛さん。遊びは終わりです。帰りますよ」
強引に蜜希と引き剥がされる凛。
その凛の姿と、彼の想いを聞いていた蜜希の心は揺れ――。
オメガバースの世界で生きる、運命の二人の逃避行。
※お気に入り10突破、ありがとうございます!すごく励みになります…!!
僕がそばにいる理由
腐男子ミルク
BL
佐藤裕貴はΩとして生まれた21歳の男性。αの夫と結婚し、表向きは穏やかな夫婦生活を送っているが、その実態は不完全なものだった。夫は裕貴を愛していると口にしながらも、家事や家庭の負担はすべて裕貴に押し付け、自分は何もしない。それでいて、裕貴が他の誰かと関わることには異常なほど敏感で束縛が激しい。性的な関係もないまま、裕貴は愛情とは何か、本当に満たされるとはどういうことかを見失いつつあった。
そんな中、裕貴の職場に新人看護師・宮野歩夢が配属される。歩夢は裕貴がΩであることを本能的に察しながらも、その事実を意に介さず、ただ一人の人間として接してくれるαだった。歩夢の純粋な優しさと、裕貴をありのまま受け入れる態度に触れた裕貴は、心の奥底にしまい込んでいた孤独と向き合わざるを得なくなる。歩夢と過ごす時間を重ねるうちに、彼の存在が裕貴にとって特別なものとなっていくのを感じていた。
しかし、裕貴は既婚者であり、夫との関係や社会的な立場に縛られている。愛情、義務、そしてΩとしての本能――複雑に絡み合う感情の中で、裕貴は自分にとって「真実の幸せ」とは何なのか、そしてその幸せを追い求める覚悟があるのかを問い始める。
束縛の中で見失っていた自分を取り戻し、裕貴が選び取る未来とは――。
愛と本能、自由と束縛が交錯するオメガバースの物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる