彼はオタサーの姫

穂祥 舞

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番外編 姫との夏休み

第3楽章①

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 舞台の上で記念写真を撮り終えた子どもたちが、講師たちから小さな鉢植えを手渡されて、家族のところに誇らしげに戻っていく。一樹は椅子が並べられただけの客席の隅でそれを見つめながら、こんな遠いところに尊敬する友人を呼びつけたことを、少し後悔していた。しかも大ホールなら、演奏会として少し見栄えがするのに、この小ホールは本当に小ぢんまりとしていて、ホールというよりはサロンだ。音は決して悪くないのだが、客をパイプ椅子に座らせるというのが、一樹としては申し訳ない。
 ホールの中は冷房が効いて涼しかったが、今日はなかなか暑かった。お盆を過ぎて、日が落ちたらやや涼しくなるような気がするものの、昼間の太陽光の圧力はまだまだ狂気じみている。フリルのドレスやスーツを着た小さなピアニストたちは、夏休み最後の日曜にもかかわらず、ここで緊張感に耐えて練習の成果を観客に披露したのだった。
 一樹が2年間世話になっているつくば市の音楽教室は、子どものピアノクラスと、大人の(主に趣味の)ピアノと声楽のクラスを抱えている。今日の発表会の前半で、幼稚園から中学生の子たち15人がピアノ曲を披露し、1時間の準備と休憩を挟んで、高校生から80代のプレイヤー12人が演奏するというプログラムである。
 就職を蹴って芸大を受験すると宣言して以来、一樹と家族との折り合いは、控えめに言って、いまひとつだ。前の大学で所属していた混声合唱団の定期演奏会に毎年来てくれた両親も、今日の発表会は観に来ない。まあ、誘ったのがぎりぎりだったので、父も母も別々の先約があっただけの話だが。もしかしたら、柏市に住んでいる姉夫婦や、前の大学時代の友人が来てくれるかもしれないが、確約している一樹の客は、1人だけである。

「では後半の部の皆さん、楽屋開放しますのでどうぞ」

 子どもたちの退場が一段落つくと、先生からアナウンスがあった。一樹はガーメントバッグを持って立ち上がり、一度ホールの外に出て男性用の楽屋に向かう。出演者は圧倒的に女性が多いので、狭い楽屋も広々と使えて気分がいい。一樹はスーツをバッグから出し、皺がついていないのを確認しながらポールハンガーに引っかけた。こんにちは、と言いながら入ってきたのは、一樹より1年先に音楽教室に入った中年のテノールと、アマチュア合唱団でも歌っている70代のバリトンだった。

「こんにちは、よろしくお願いします」
「深田くん、受験し直して芸大生になったんだってね、先生から聞いてびっくりしたよ」
「いやぁ、これからますます楽しみだねぇ」

 年上の大先輩たちに言われて、一樹はおかげ様で、と頭を下げる。昨年初めて発表会に出た時、右も左もわからないところを、彼らにいろいろ教えてもらった。着替えて軽く発声練習をして、本番に備えればいいだけのことなのだが、トイレの横の給湯室が声を出しやすいとか、どの通路を行けば自販機に近いとか、他の人の歌を聴きたくなければいっそ駅前の喫茶店まで行けばいい、などなど、本番に平常心で臨むための小さなお役立ち情報が、本当にありがたかった。
 しかも彼らは、本番前に無駄に声帯を使わないことを心掛け、基本的に楽屋で雑談はしないのだ。混声合唱団にいた頃、本番前に緊張するとくっちゃべってしまいがちだった一樹は、彼らを見習うことにした。今日も3人で、それぞれ歌う曲の楽譜を開いて黙って視線を落とす。
 一番出番の早いテノールが、最終の合わせのために楽屋を出た。ベテランバリトンがこそっと話しかけてくる。

「深田くん、今日は芸大のお友達は観に来るの?」
「あ、僕みんなより年上じゃないですか、だからちょっと気軽に誘いにくいんですよね」

 あっ、そうなるのか、とベテランバリトンは頷いた。一樹はでも、と言葉を繋ぐ。

「大学院生の人が見に来てくれます」
「えっ、芸大の院生? 男の人?」
「はい、バリトンです」

 おおっ、とベテランバリトンは目を丸くする。さすが長く歌っているだけあり、芸大の院生の歌い手の価値をわかっているらしい。

「あちらも1年生だから、同い年なんです……もちろん、歌手として僕より4年先輩ですけど」
「ほとんどプロだよね? そんな人が観に来るなんて、こっちが恥ずかしくなるなぁ」

 普段押しが強い目のくせに、本当に恥ずかしそうな老人の様子が可愛らしくて、一樹は笑ってしまう。

「そんな偉そうな人じゃないですよ、安心してください」
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