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第4幕/おっさんフィガロとときめくピンカートン
第3場①
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紗里奈の魔手から三喜雄を守るのも大変だが、もう1匹、駆除すべき手強い害虫が三喜雄の近くにいる。彼の暮らすマンションに住むクラリネッティスト、小田亮太。同期だが器楽専攻ということもあり、天音はこの男と学部生時代からほとんど話したことがない。ただ彼は管楽器の面々の中でも、コンクールの成績や普段の活動が派手なので、何者かくらいは知っていた。
三喜雄が東京に出てくるにあたり、天音は彼から頼まれて、住む場所を探す手伝いをした。幾つかの物件をピックアップしたが、三喜雄が選んだ千駄木のマンションは、ここはいまいちだと思いつつも、大学のお薦めなのでリストに入れておいた物件だった。
「どうしてあんな防音も完璧でない古いマンションにしたんだよ」
天音はつい非難の口調で三喜雄に詰め寄ってしまい、温和な三喜雄が珍しく怒った。
「なら最初からリストに入れるなよ!」
悪い癖で、相手から強く言われると天音は引っ込められなくなる。
「俺のマンションに空きがあったら、リストなんか作らないところだよ! 学部生ならいいだろうけど、課題も多いのに、あれじゃ夜に練習できないじゃないか」
「夜に練習はしない」
三喜雄はきっぱりと言った。
「10時過ぎまで練習したのは大学の卒業演奏会の直前だけだ、おまえの家みたいに俺ん家には防音室なんか無いからな」
まただ、と天音は悲しくなる。おまえの家とは違うと言われると、返す言葉が無い。しかし嫌な沈黙がしばし流れた後、折れたのは三喜雄だった。
「ごめん、せっかくいろいろ紹介してくれたのに……俺あそこ気に入ったんだ、家賃も手の届く範囲だし、周りの雰囲気もいいし」
三喜雄にしょぼんとされると、子どもの頃に可愛がっていた雑種の犬の、いたずらや粗相をして母から叱られた時の顔を思い出し、天音のほうがいたたまれなくなった。
決めてしまったなら、仕方がない。食事をする店も買い物をする場所も沢山ある地域なので、日常生活を大切にする三喜雄には、こういうところのほうがいいだろうと思うことにした。
件のクラリネッティストは、三喜雄の部屋の2つ隣に、学部生時代から暮らしている。それをいいことに、引っ越してきたばかりの三喜雄に、わからないことがあれば何でも聞いてくれなどと言って近づいたと思われた。
本来三喜雄の相談に乗るのは、天音の役目のはずだった(と、天音は認識している)。三喜雄が、授業のこと以外はあまり尋ねてこないなと思っていたら、小田がちゃっかり割り込んで来ていたのである。
そのことに気づいたのは、ゴールデンウィークに入る直前だった。三喜雄が体調を崩して授業を休んだので、天音が彼の好物のプリンを買って見舞いに行った時のことである。
初めて訪れた「コラール千駄木」は、古かったがきちんと手入れされており、三喜雄の部屋も築40年とは思えないほど、隅々までリフォームされていた。三喜雄の体調はやや心配だったものの、彼が快適に生活しているらしいことに対して、天音は安心した。
天音がプリンを4個も持って行ったので、三喜雄は天音にも食べるように言い、自分も美味しいと言いながら食べた。そんな三喜雄の姿を見て、ほわっとした幸福感を楽しんでいた天音だったが、開けられた窓から場の雰囲気を掻き乱すクラリネットの音が聴こえてきた。三喜雄はそれに反応する。
「隣の隣に器楽専攻の小田が住んでるんだ、塚山はあまり話さないかな? 親切で楽しい奴だよ」
熱がありぼんやりした目をしているのに、笑顔で隣人について話す三喜雄を見て、天音は小田の存在に軽いショックを受け、苛立ちを覚えた。しかし病人相手なので堪えた。甘いクラリネットの音色には、三喜雄の声とは違った官能的な魅力があり、噂通りなかなかの奏者のようだ。
いろいろ心配だったが、長居は三喜雄を疲れさせると思い、プリンを食べ終わると、天音はその場を辞した。ずっとバラードを奏で続けるクラリネットの音が、何やら呪わしく感じられた。
三喜雄が東京に出てくるにあたり、天音は彼から頼まれて、住む場所を探す手伝いをした。幾つかの物件をピックアップしたが、三喜雄が選んだ千駄木のマンションは、ここはいまいちだと思いつつも、大学のお薦めなのでリストに入れておいた物件だった。
「どうしてあんな防音も完璧でない古いマンションにしたんだよ」
天音はつい非難の口調で三喜雄に詰め寄ってしまい、温和な三喜雄が珍しく怒った。
「なら最初からリストに入れるなよ!」
悪い癖で、相手から強く言われると天音は引っ込められなくなる。
「俺のマンションに空きがあったら、リストなんか作らないところだよ! 学部生ならいいだろうけど、課題も多いのに、あれじゃ夜に練習できないじゃないか」
「夜に練習はしない」
三喜雄はきっぱりと言った。
「10時過ぎまで練習したのは大学の卒業演奏会の直前だけだ、おまえの家みたいに俺ん家には防音室なんか無いからな」
まただ、と天音は悲しくなる。おまえの家とは違うと言われると、返す言葉が無い。しかし嫌な沈黙がしばし流れた後、折れたのは三喜雄だった。
「ごめん、せっかくいろいろ紹介してくれたのに……俺あそこ気に入ったんだ、家賃も手の届く範囲だし、周りの雰囲気もいいし」
三喜雄にしょぼんとされると、子どもの頃に可愛がっていた雑種の犬の、いたずらや粗相をして母から叱られた時の顔を思い出し、天音のほうがいたたまれなくなった。
決めてしまったなら、仕方がない。食事をする店も買い物をする場所も沢山ある地域なので、日常生活を大切にする三喜雄には、こういうところのほうがいいだろうと思うことにした。
件のクラリネッティストは、三喜雄の部屋の2つ隣に、学部生時代から暮らしている。それをいいことに、引っ越してきたばかりの三喜雄に、わからないことがあれば何でも聞いてくれなどと言って近づいたと思われた。
本来三喜雄の相談に乗るのは、天音の役目のはずだった(と、天音は認識している)。三喜雄が、授業のこと以外はあまり尋ねてこないなと思っていたら、小田がちゃっかり割り込んで来ていたのである。
そのことに気づいたのは、ゴールデンウィークに入る直前だった。三喜雄が体調を崩して授業を休んだので、天音が彼の好物のプリンを買って見舞いに行った時のことである。
初めて訪れた「コラール千駄木」は、古かったがきちんと手入れされており、三喜雄の部屋も築40年とは思えないほど、隅々までリフォームされていた。三喜雄の体調はやや心配だったものの、彼が快適に生活しているらしいことに対して、天音は安心した。
天音がプリンを4個も持って行ったので、三喜雄は天音にも食べるように言い、自分も美味しいと言いながら食べた。そんな三喜雄の姿を見て、ほわっとした幸福感を楽しんでいた天音だったが、開けられた窓から場の雰囲気を掻き乱すクラリネットの音が聴こえてきた。三喜雄はそれに反応する。
「隣の隣に器楽専攻の小田が住んでるんだ、塚山はあまり話さないかな? 親切で楽しい奴だよ」
熱がありぼんやりした目をしているのに、笑顔で隣人について話す三喜雄を見て、天音は小田の存在に軽いショックを受け、苛立ちを覚えた。しかし病人相手なので堪えた。甘いクラリネットの音色には、三喜雄の声とは違った官能的な魅力があり、噂通りなかなかの奏者のようだ。
いろいろ心配だったが、長居は三喜雄を疲れさせると思い、プリンを食べ終わると、天音はその場を辞した。ずっとバラードを奏で続けるクラリネットの音が、何やら呪わしく感じられた。
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