彼はオタサーの姫

穂祥 舞

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第4幕/おっさんフィガロとときめくピンカートン

第1場②

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 三喜雄のポテンシャルが本物だと思い知らされたのは、大学2回生の夏のコンクールだった。今度は彼は、本選進出を目標にして、自分の声と技術に合った選曲をしてきた(それでも天音に言わせてみれば、そんな曲で戦うのかという感じだったが)。そして本選では、ゲスト審査員だったドイツ人歌手を驚かせる美しい発音でシューベルトを、アリアは苦手だと言いつつ、チャーミングにモーツァルトを歌い、鑑賞に来た一般客の投票によって決まる「聴衆賞」を掻っ攫った。
 天音は得意なプッチーニで2位と審査員特別賞を獲得し、三喜雄は4位につけた。高校から歌い始めた素人は、物心がついた頃から音楽と共に生きてきた自分のすぐ後ろにまで迫っている。
 まだ三喜雄に負けない自信はあるが、天音の尻に火がついたのは確かで、雰囲気に逃げないスキル習得に邁進した結果、音楽学部の首席卒業に手が届いた。これは素直に嬉しかった。



 音楽の先生になるつもりが、周りから大学院への進学を勧められた三喜雄は、かなり迷った末に受験を決めた。天音は彼が同じ大学に来るのは大歓迎だった。自分は内部進学ではあるものの、情報を集めて三喜雄と試験についてやり取りをすることが楽しかった。
 晴れて2人して院への合格を決め、今に至る。天音は同郷の友人が東京に出てきてくれたことにうきうきだったが、大学院生活が始まると、同棲してみて初めて気づく、相手と自分との乖離に心をへし折られる者のような感覚を味わう羽目になった。
 いや、片山のせいじゃない。天音は考える。たぶん俺のせいでもない。悪いのは、声楽専攻も器楽専攻もひっくるめた、大学院の同期どもだ。奴らは片山が北海道の暢気の化身のようで無防備だからといって、汚れた心を抱えながら近づき過ぎる。
 三喜雄は人が良く、音楽をやっている人間独特のガツガツしたものを表に出さないので(天音の知る限り、三喜雄は気が弱い訳でもガツガツしていない訳でもない)、雑多な人間から好意を寄せられ、彼らと交流を持ち始めていた。天音の知らない間に、やれライブハウスでバンドの手伝いをするだの、ホテルのレストランで歌うだの、奇妙な仕事を請け負っている。そんなことばかりしていると、彼が本来追求すべき音楽を見失ってしまわないか心配だ。
 また天音が悲しいのは、知り合って以来ずっと三喜雄が口にしている「塚山つかやまは友達じゃない」という言葉を、これまで以上に聞かされていることだ。
 天音は音楽家の一族の中で育った。天音の父はヴァイオリニスト、母は声楽家である。彼らは音楽に関する出費は惜しまないが、生活費一般には割とシビアで、別に金持ちではないと思う。しかしサラリーマン家庭で育った三喜雄にすると、天音がいつもいいものを着て(これも、人に見られる立場を目指すなら、普段から恰好には気を使えと教育されただけのことである)、完全防音の部屋で暮らしているのはセレブリティに見えるらしい。

「俺みたいな田舎の貧乏人を友達だって言うのも微妙だろ? 歌歴も全然塚山のほうが長くて立派なんだし」

 三喜雄はそう言う。そりゃまあ俺は、そこそこの実力と容姿を併せ持った、使えるテノールだ。いつも主旋律を歌い、オペラで二枚目の役を演じたいからテノール歌手をやっているし、二枚目のモテキャラに相応しいよう、見かけにも金を使っている。
 歌曲が好きな研究者タイプのバリトンの片山とは、確かに歩く道が違うだろう。でも、目指す場所はそう変わらないと思うから、同志とか友達扱いはしてくれてもいいんじゃないのか。
 というか、と天音は思う。どうして、三喜雄はオペラへの興味が薄いのだろうか。
 オペラの授業で、三喜雄の芝居の上手さや味のある歌を、先生方が注目している。彼の師である藤巻ふじまき陽一郎よういちろうは歌曲を極めた人だが、オペラでも好演しているので、三喜雄の指導にあたりオペラを否定している訳ではないだろう(歌曲が得意な歌手で、オペラ嫌いの人がたまにいる)。
 日本の声楽業界においては、オペラで役付きになることが最も実績に繋がりやすい。観客だって、歌手の学歴と受賞歴に続くこれまでの舞台歴、特にオペラで何を演じたかをチェックするのに。
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