彼はオタサーの姫

穂祥 舞

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第4幕/おっさんフィガロとときめくピンカートン

第1場①

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 天音あまね片山かたやま三喜雄みきおと出会って、かれこれ5年である。札幌で生まれ育ち歌をたしなんでいることを除けば、共通点はほぼ無い。高校は別、大学も別。師事している先生も違う。育った環境も、かなり違う。
 それでも天音にとって、三喜雄の存在は特別だ。何故なら、自分の周辺にうようよしている、同じ道を志す者たちの中で、唯一信用できるからである。後は蹴落とすか、歯牙にもかけないか。相手も天音に対して、大抵はそういう態度を取るので、お互い様だ。
 天音が三喜雄と初めて言葉を交わしたのは、互いが18歳、高校3年生の夏に出場した、声楽のコンクールの時である。三喜雄は天音のことをよく知らなかったようだが、天音は彼の予選の舞台を見ていた。天音が準本選のために用意していた歌曲を、彼が予選で歌ったからだった。
 高校の制服を着た三喜雄は、俯き気味で舞台に出てきて、ぺこりと頭を下げ、まずベッリーニの曲を歌った。いい声だなと感じたが、緊張のせいでいかんせん硬かった。ところが2曲目の、中田喜直の「さくら横ちょう」が始まると、三喜雄は場慣れしない空気を消し去り、滑らかな発声とクリアな日本語で滔々と歌い始めたのだ。
 三喜雄の声種の登録はバリトンなのに、テノールの声域も難なく歌った。かなりこの曲を歌い込んできたことが伝わり、休符で哀感や官能めいたものを表現していることに仰天した。「さくら横ちょう」って、こんないい曲だったのか?
 何だこいつ。天音は面白い歌い手の登場に、久々に闘争心を掻き立てられた。三喜雄の伴奏をしていた、コンクールの公式ピアニストがよく知る人だったので、天音は彼について訊いてみた。ピアニストは、三喜雄がとある大物バリトンの直弟子、といっても指導を受け始めてまだ1年半にもならないことや、高校のグリークラブに所属していることを教えてくれた。
 合唱上がりか、と天音は鼻で笑った。天音は音楽家の子弟である団員も多い、北日本一のレベルを誇る児童合唱団で歌い始めて、声変わりが始まった中2の時から個人指導を受けている。そこら辺の高校のグリークラブで歌うアマチュアとは違うのだ。
 ならば尚更、あんな素人に負けるわけにはいかない。当たり前のように予選を通過した天音は「さくら横ちょう」を重点的に練習して、準本選に備えたが、やはり予選を通過していた三喜雄が準本選に持ってきた曲を見て、たまげた。別宮貞雄が作曲した「さくら横ちょう」。中田喜直の同名の曲と歌詞は同じだが、かなり難曲だ。あんなものを素人の高校生がコンクールで歌うなんて、どうかしている。指導者の選曲なのか。
 準本選の出番は1番違いで、天音が先だった。楽屋で顔を合わせたスーツ姿の三喜雄は派手な天音にやや引いていたが、想像していたような、いかにもグリーっぽいオタク風味の陰キャではなく、落ち着いた雰囲気を持ち、まっすぐな目で天音の値踏みを受け止めた。それでつい悪癖が出て三喜雄にうざ絡みしてしまったのは、天音の一生モノの悔やまれる記憶である。
 天音は十分良く歌えた自負があったが、次に歌った三喜雄は、おそらく自覚の無いまま舞台の上で「化けた」。難曲を情緒たっぷりに歌い切り、ホールにいた客を釘づけにしたのである。
 しかし三喜雄は、本選進出を決めながら、受験の準備を理由に出場を辞退したのだった。本選で優勝したのは天音で、目標達成は嬉しかったのだが、三喜雄のように舞台に上がらなかった実力者がいることを知ってしまったせいで、物足りなさが残った。
 顔見知りになった三喜雄は、天音の接触を拒まなかった。それで天音は、自分が東京の芸術大学に、三喜雄が地元の教育大学に進学した後も、帰省すると三喜雄を呼び出した。気が良くてきちんとしている彼は、これまで天音の交友関係にいなかった人種で、一緒にいると何げに癒された。ただ、練習熱心で歌うことも好きなようなのに、彼がプロなんか目指さず地道に教員になるのだと話すのを聞き、よくわからないと思った。
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