彼はオタサーの姫

穂祥 舞

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第3幕/学歴は、洗いません。

第5場④

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「それは金取ったらあかんやつかな、でも案外、新しい魅力発見に転んだり……」

 その時ふと、咲真の頭の中に、色っぽくて美しいメロディが流れてきた。何故だか理由はわからなかったが、それを追っているうち、直感する。
 俺にも片山にも、作曲家的には絶対合わへんけど、これなら金を取れる演奏にできるんとちゃうか。
 黙りこんだ咲真を、片山が軽く覗きこんでくる。

「どうした?」
「いや……おまえ、ラフマニノフのヴォカリーズって演ったことある?」

 咲真の問いに、片山はうん、とあっさり答えた。ヴォカリーズ、つまり歌詞の無いメロディが続く音楽だ。ラフマニノフのものは有名で、演奏される機会も多い。

「練習はしたんだけど、舞台に上げる機会が無くて残念な曲のひとつかな」
「そうなんか、11月のコンサート、3曲目にこれどうやろか……と今閃いた」

 片山は、おっ、と目を見開いた。前向きな反応である。咲真は笑ってみせた。

「俺はラフマニノフなんか絶対あかんって言われるピアニストや、片山もたぶんそうと見た……でも俺この曲好きやし、おまえの声やったらお客さんめちゃセロトニン出そう」

 咲真が珍しく真剣に訴えたからか、片山も真面目な表情になった。

「初めて楽譜をさらった時に、これはスタミナ的に無理だって師匠に言われたんだ……確かに昔は譜面を追うだけで精一杯だったけど、今ならいけるかもしれない」
「長いからカットは考えなあかんと思う、ほな多少余裕も出るわ」
「あと……俺たぶん原調より低いぞ、松本に練習し直してもらうことになるけど」
 
 移調はそんなに苦にならない。そう答えると、片山は明日にでも、楽譜を探して持ってくると言った。咲真は頷く。あまりに原曲と雰囲気が変わるような譜面なら、彼と話し合って別の調を探してみたらいい。

「よっしゃ、もしかしたらこれは、学歴ランドリーズの今後の活動方針を左右する一戦になるかもしれんな」

 はりきる咲真を見て、今度は片山がぷっと笑った。

「マジですか、これで定番化したら面白過ぎるんですけど」
「何でや、俺バリクソ真剣やぞ」

 ピアノを片づけ、教室の冷房を切って外に出ると、湿気て暑い空気に取り囲まれた。これから咲真は個人レッスンで、片山はアルバイトだ。鍵を返却してから一緒に教室棟を出て、自転車置き場に向かう片山と別れた。咲真は上野駅に向かいながら、考えを整理する。
 ラフマニノフの「ヴォカリーズ」のソリストパートは、管楽器や弦楽器でも演奏されるが、咲真は歌が一番良いと思っている。これを、音程が正確で仄かな色気を持つ声の片山が歌えば、ピアノとの掛け合いが対等になり、きっと面白い。
 さっき1曲演った印象では、片山の声には、これまで咲真が伴奏してきた歌手には無かった、独特の中毒性みたいなものがある気がする。耳に心地良く、すっと懐に滑りこんでくるような彼の歌に乗り過ぎると、客はセロトニンに満たされるかもしれないが、自分はドーパミンでどこかが弾けてしまうのではないだろうか。そう考えると、こんなに暑いにもかかわらず、咲真のうなじの辺りがぞくっとした。
 それでもし、と咲真は想像する。ピアノ協奏曲ならきっと舞台に上げることができないラフマニノフを、声楽の伴奏で弾ききってしまい、その演奏に納得してアンサンブル・ピアニストになろうと決心してしまうようなことになっても……。
 それもまた佳し、かもしれんな。
 そんな結論に行きついてしまった自分に、咲真は苦笑を禁じ得なかった。


☆「君をのせて」 作詞:宮崎駿 作曲:久石譲(1986)
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