彼はオタサーの姫

穂祥 舞

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第2幕/ふたつ隣の部屋

第3場①

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 亮太の心配は現実のものになってしまった。翌日、器楽専攻と声楽専攻の共通科目である古楽の授業に、片山は来なかった。教務課を通して連絡があったらしく、真面目な彼を気に入っている教員も心配そうである。

「大学院生としての生活に慣れるまでみんな大変だと思うけど、特に春から東京に出てきたっていう人は、体調管理もしっかりしてくださいね」

 声楽専攻の面々は、何となくそわそわしていた。いつも明るく元気だからなのか、ノートを貸してやっているからなのかは知らないが、倒れてお仲間をざわめかせる程度には、片山は存在感があるらしい。
 16時半に全ての授業が終わると、亮太は楽器ケースを背負い、自転車を飛ばしてすぐに千駄木に戻った。普段は個人練習に充てる時間だが、片山の様子が気になり集中できなさそうなので、帰ることにしたのだった。
 スーパーで食材を買い、マンションの駐輪場から表に回ろうとした時、建物の入り口に向かう見慣れない男の姿を見かけた。亮太は足を止めて、すらっと背の高い明るい色の髪の男を、建物の陰から観察する。入り口にセキュリティがないマンションなので、不審者には注意してほしいと常々大家からも伝達されているのだ。
 見慣れないと思ったが、亮太はその男を知っていた。声楽専攻のテノール、塚山つかやま天音あまねだった。先月音楽学部を首席で卒業した、今最もプロに近い同期である。彼はややためらいつつマンションの中に入り、ケーキ屋のものらしい小箱片手に、愛想の無いコンクリートの階段を昇る。彼にこんなところに住む友人がいるとは、意外である。
 どうして俺がこいつを尾行しなきゃいけないんだと思いつつ、亮太は足音を忍ばせて後に続いた。塚山とはこれまでほとんど話をしたことがなく、何と言って声をかけたらいいのかわからないからである。実は亮太は、片山と出会うまでは、声楽科の連中を音楽学部内で異世界人度が高いと見做していた。中でも、常に女の目を意識しているような、隙の無い身のこなしのパリピ系男子である塚山は、かなり苦手感が高い。
 古マンションが似合わないテノール歌手は、3階に着くと左に曲がった。その先の部屋に暮らすのは、亮太と片山だけである。背後で驚く亮太に気づかず塚山は奥に向かい、305号室のインターホンを鳴らした。

「大丈夫か? プリン持って来たぞ」

 片山が出たのだろう、塚山は言った。すぐに中からドアが開き、住人の暗い色の髪がちらっと覗いた。これから片山に雑炊を作ってやろうと思っていた亮太は、先を越されて軽く苛立つ。
 薬飲んだのか、などと言いながら部屋に入っていく塚山に対して、自分が明らかに不快の感情を抱いたことを、亮太は自覚した。お高そうな菓子なんか持って来て、腹の具合が悪かったら逆効果だろうが。それ以前に、地味な片山がキラキラ塚山と親しいとは思わなかった。同じ専攻なのだから、別に不思議ではないのだが、何故かその事実は亮太の神経をちくちく刺した。
 亮太は偵察をやめて自室に入り、買ってきた食料品を冷蔵庫に入れる。塚山が帰るまで待とうと思い、楽器ケースを開けた。まだあまりこなれていないリードを選んで、基礎練習に励むことにする。
 高校時代からあまり変わらない順番で、ロングトーンのあと、全ての調性でアルペジオをひと通りさらう。体調の良くない片山の耳に障らないか気になったので、どうせ2つ隣の部屋に届くなら、メロディのきれいな曲を練習しようと楽譜のファイルのページを繰った。これでも亮太は、エロ美しい音色が売りのクラリネッティストなので、多少なりとも片山の癒しになればいいと思う。
 来月ライブハウスで演奏する予定の、「ブルー・イン・グリーン」をゆったりと吹きはじめた。やはり少しリードが硬いが、ジャズならこれでもいいような気がする。
 亮太は何でも吹ける奏者になりたいと思っている。それは吹奏楽部でクラリネットを始めた時から変わらない気持ちだが、ひとつ間違えば全てのジャンルを中途半端にしか演奏できない奏者になってしまう可能性がある。とはいえ、オーケストラに入ってクラシックばかり演奏する訳ではないので、どういうジャンルであれ、実践的に触れておきたい。それにクラリネットという楽器は、どんな音楽にも溶けこんでくれる音を持っているのだから、目一杯その魅力を引き出したいと思うのだ。
 日が暮れ始めて部屋が薄暗くなってきたことに気づいたので、亮太は一旦楽器にスワブを通して唾を抜いた。片山にメッセージを送ってみると、彼は起きているようで、すぐに返信が来る。塚山も帰ったのだろう。亮太がすぐに隣の隣の部屋に向かうと、インターホンを鳴らしてすぐに、内側から扉が開いた。
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