彼はオタサーの姫

穂祥 舞

文字の大きさ
上 下
13 / 79
第2幕/ふたつ隣の部屋

第3場①

しおりを挟む
 亮太の心配は現実のものになってしまった。翌日、器楽専攻と声楽専攻の共通科目である古楽の授業に、片山は来なかった。教務課を通して連絡があったらしく、真面目な彼を気に入っている教員も心配そうである。

「大学院生としての生活に慣れるまでみんな大変だと思うけど、特に春から東京に出てきたっていう人は、体調管理もしっかりしてくださいね」

 声楽専攻の面々は、何となくそわそわしていた。いつも明るく元気だからなのか、ノートを貸してやっているからなのかは知らないが、倒れてお仲間をざわめかせる程度には、片山は存在感があるらしい。
 16時半に全ての授業が終わると、亮太は楽器ケースを背負い、自転車を飛ばしてすぐに千駄木に戻った。普段は個人練習に充てる時間だが、片山の様子が気になり集中できなさそうなので、帰ることにしたのだった。
 スーパーで食材を買い、マンションの駐輪場から表に回ろうとした時、建物の入り口に向かう見慣れない男の姿を見かけた。亮太は足を止めて、すらっと背の高い明るい色の髪の男を、建物の陰から観察する。入り口にセキュリティがないマンションなので、不審者には注意してほしいと常々大家からも伝達されているのだ。
 見慣れないと思ったが、亮太はその男を知っていた。声楽専攻のテノール、塚山つかやま天音あまねだった。先月音楽学部を首席で卒業した、今最もプロに近い同期である。彼はややためらいつつマンションの中に入り、ケーキ屋のものらしい小箱片手に、愛想の無いコンクリートの階段を昇る。彼にこんなところに住む友人がいるとは、意外である。
 どうして俺がこいつを尾行しなきゃいけないんだと思いつつ、亮太は足音を忍ばせて後に続いた。塚山とはこれまでほとんど話をしたことがなく、何と言って声をかけたらいいのかわからないからである。実は亮太は、片山と出会うまでは、声楽科の連中を音楽学部内で異世界人度が高いと見做していた。中でも、常に女の目を意識しているような、隙の無い身のこなしのパリピ系男子である塚山は、かなり苦手感が高い。
 古マンションが似合わないテノール歌手は、3階に着くと左に曲がった。その先の部屋に暮らすのは、亮太と片山だけである。背後で驚く亮太に気づかず塚山は奥に向かい、305号室のインターホンを鳴らした。

「大丈夫か? プリン持って来たぞ」

 片山が出たのだろう、塚山は言った。すぐに中からドアが開き、住人の暗い色の髪がちらっと覗いた。これから片山に雑炊を作ってやろうと思っていた亮太は、先を越されて軽く苛立つ。
 薬飲んだのか、などと言いながら部屋に入っていく塚山に対して、自分が明らかに不快の感情を抱いたことを、亮太は自覚した。お高そうな菓子なんか持って来て、腹の具合が悪かったら逆効果だろうが。それ以前に、地味な片山がキラキラ塚山と親しいとは思わなかった。同じ専攻なのだから、別に不思議ではないのだが、何故かその事実は亮太の神経をちくちく刺した。
 亮太は偵察をやめて自室に入り、買ってきた食料品を冷蔵庫に入れる。塚山が帰るまで待とうと思い、楽器ケースを開けた。まだあまりこなれていないリードを選んで、基礎練習に励むことにする。
 高校時代からあまり変わらない順番で、ロングトーンのあと、全ての調性でアルペジオをひと通りさらう。体調の良くない片山の耳に障らないか気になったので、どうせ2つ隣の部屋に届くなら、メロディのきれいな曲を練習しようと楽譜のファイルのページを繰った。これでも亮太は、エロ美しい音色が売りのクラリネッティストなので、多少なりとも片山の癒しになればいいと思う。
 来月ライブハウスで演奏する予定の、「ブルー・イン・グリーン」をゆったりと吹きはじめた。やはり少しリードが硬いが、ジャズならこれでもいいような気がする。
 亮太は何でも吹ける奏者になりたいと思っている。それは吹奏楽部でクラリネットを始めた時から変わらない気持ちだが、ひとつ間違えば全てのジャンルを中途半端にしか演奏できない奏者になってしまう可能性がある。とはいえ、オーケストラに入ってクラシックばかり演奏する訳ではないので、どういうジャンルであれ、実践的に触れておきたい。それにクラリネットという楽器は、どんな音楽にも溶けこんでくれる音を持っているのだから、目一杯その魅力を引き出したいと思うのだ。
 日が暮れ始めて部屋が薄暗くなってきたことに気づいたので、亮太は一旦楽器にスワブを通して唾を抜いた。片山にメッセージを送ってみると、彼は起きているようで、すぐに返信が来る。塚山も帰ったのだろう。亮太がすぐに隣の隣の部屋に向かうと、インターホンを鳴らしてすぐに、内側から扉が開いた。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

婚約者に会いに行ったらば

龍の御寮さん
BL
王都で暮らす婚約者レオンのもとへと会いに行ったミシェル。 そこで見たのは、レオンをお父さんと呼ぶ子供と仲良さそうに並ぶ女性の姿。 ショックでその場を逃げ出したミシェルは―― 何とか弁解しようするレオンとなぜか記憶を失ったミシェル。 そこには何やら事件も絡んできて? 傷つけられたミシェルが幸せになるまでのお話です。

【完結】I adore you

ひつじのめい
BL
幼馴染みの蒼はルックスはモテる要素しかないのに、性格まで良くて羨ましく思いながらも夏樹は蒼の事を1番の友達だと思っていた。 そんな時、夏樹に彼女が出来た事が引き金となり2人の関係に変化が訪れる。 ※小説家になろうさんでも公開しているものを修正しています。

【完結】我が侭公爵は自分を知る事にした。

琉海
BL
 不仲な兄の代理で出席した他国のパーティーで愁玲(しゅうれ)はその国の王子であるヴァルガと出会う。弟をバカにされて怒るヴァルガを愁玲は嘲笑う。「兄が弟の事を好きなんて、そんなこと絶対にあり得ないんだよ」そう言う姿に何かを感じたヴァルガは愁玲を自分の番にすると宣言し共に暮らし始めた。自分の国から離れ一人になった愁玲は自分が何も知らない事に生まれて初めて気がついた。そんな愁玲にヴァルガは知識を与え、時には褒めてくれてそんな姿に次第と惹かれていく。  しかしヴァルガが優しくする相手は愁玲だけじゃない事に気づいてしまった。その日から二人の関係は崩れていく。急に変わった愁玲の態度に焦れたヴァルガはとうとう怒りを顕にし愁玲はそんなヴァルガに恐怖した。そんな時、愁玲にかけられていた魔法が発動し実家に戻る事となる。そこで不仲の兄、それから愁玲が無知であるように育てた母と対峙する。  迎えに来たヴァルガに連れられ再び戻った愁玲は前と同じように穏やかな時間を過ごし始める。様々な経験を経た愁玲は『知らない事をもっと知りたい』そう願い、旅に出ることを決意する。一人でもちゃんと立てることを証明したかった。そしていつかヴァルガから離れられるように―――。  異変に気づいたヴァルガが愁玲を止める。「お前は俺の番だ」そう言うヴァルガに愁玲は問う。「番って、なに?」そんな愁玲に深いため息をついたヴァルガはあやすように愁玲の頭を撫でた。

「恋みたい」

悠里
BL
親友の二人が、相手の事が好きすぎるまま、父の転勤で離れて。 離れても親友のまま、連絡をとりあって、一年。 恋みたい、と気付くのは……? 桜の雰囲気とともにお楽しみ頂けたら🌸

ガラス玉のように

イケのタコ
BL
クール美形×平凡 成績共に運動神経も平凡と、そつなくのびのびと暮らしていたスズ。そんな中突然、親の転勤が決まる。 親と一緒に外国に行くのか、それとも知人宅にで生活するのかを、どっちかを選択する事になったスズ。 とりあえず、お試しで一週間だけ知人宅にお邪魔する事になった。 圧倒されるような日本家屋に驚きつつ、なぜか知人宅には学校一番イケメンとらいわれる有名な三船がいた。 スズは三船とは会話をしたことがなく、気まずいながらも挨拶をする。しかし三船の方は傲慢な態度を取り印象は最悪。 ここで暮らして行けるのか。悩んでいると母の友人であり知人の、義宗に「三船は不器用だから長めに見てやって」と気長に判断してほしいと言われる。 三船に嫌われていては判断するもないと思うがとスズは思う。それでも優しい義宗が言った通りに気長がに気楽にしようと心がける。 しかし、スズが待ち受けているのは日常ではなく波乱。 三船との衝突。そして、この家の秘密と真実に立ち向かうことになるスズだった。

うちの鬼上司が僕だけに甘い理由(わけ)

みづき(藤吉めぐみ)
BL
匠が勤める建築デザイン事務所には、洗練された見た目と完璧な仕事で社員誰もが憧れる一流デザイナーの克彦がいる。しかしとにかく仕事に厳しい姿に、陰で『鬼上司』と呼ばれていた。 そんな克彦が家に帰ると甘く変わることを知っているのは、同棲している恋人の匠だけだった。 けれどこの関係の始まりはお互いに惹かれ合って始めたものではない。 始めは甘やかされることが嬉しかったが、次第に自分の気持ちも克彦の気持ちも分からなくなり、この関係に不安を感じるようになる匠だが――

旦那様と僕

三冬月マヨ
BL
旦那様と奉公人(の、つもり)の、のんびりとした話。 縁側で日向ぼっこしながらお茶を飲む感じで、のほほんとして頂けたら幸いです。 本編完結済。 『向日葵の庭で』は、残酷と云うか、覚悟が必要かな? と思いまして注意喚起の為『※』を付けています。

愛などもう求めない

白兪
BL
とある国の皇子、ヴェリテは長い長い夢を見た。夢ではヴェリテは偽物の皇子だと罪にかけられてしまう。情を交わした婚約者は真の皇子であるファクティスの側につき、兄は睨みつけてくる。そして、とうとう父親である皇帝は処刑を命じた。 「僕のことを1度でも愛してくれたことはありましたか?」 「お前のことを一度も息子だと思ったことはない。」 目が覚め、現実に戻ったヴェリテは安心するが、本当にただの夢だったのだろうか?もし予知夢だとしたら、今すぐここから逃げなくては。 本当に自分を愛してくれる人と生きたい。 ヴェリテの切実な願いが周りを変えていく。  ハッピーエンド大好きなので、絶対に主人公は幸せに終わらせたいです。 最後まで読んでいただけると嬉しいです。

処理中です...