彼はオタサーの姫

穂祥 舞

文字の大きさ
上 下
11 / 79
第2幕/ふたつ隣の部屋

第2場①

しおりを挟む
 自営業の家に生まれ育ち、公立高校の吹奏楽部でクラリネットを吹き始めた亮太にとって、飛び込んだ芸大や音楽学部は異世界に近かった。その思いは学部の卒業式を済ませた今でもあまり変わらない。楽器を手に演奏すれば皆対等だが、高価な楽器を持ちメンテナンス費用を惜しまず、いつも良いものを着て、生活のために食費や交通費を節約するという観念が無い人が多いと感じる。
 学部に入学当初はその雰囲気に引け目を感じていたが、高い倍率を勝ち抜いて返済不要の大学の奨学金を獲得した時、変な開き直りが訪れた。金持ちでなくでも、その気になれば音楽をやっていけるのだ。
 亮太の横浜の実家は、ベーカリーショップである。父ともう1人の職人がパンを焼き、母と1人のパートタイマーで梱包・販売している。両親は毎日笑顔で店に出て、今や知る人ぞ知る名店のおしどり夫婦経営者の地位を築きつつある。
 早朝から働く両親に代わり、双子の妹と弟の面倒を見てきた亮太は、いつしか家事全般をこなせるようになった。
 吹奏楽部に入部し、どうも音楽の才能が少々あるらしいとわかった時、亮太自身は戸惑った。妹と弟はまだ小学生で、家のこともしなくてはいけないし、我が家の収入で芸術系の大学になど行かせてもらえる訳がない。諦めるべきだという思いとはうらはらに、もっとクラリネットを吹きたいという渇望がこんこんと湧き出し、亮太はそれを押し込めようとした。しかし長男の煩悶に気づいた両親は、やりたいことを存分にやってみたらいいと、背中を押してくれたのだった。
 家族と高校(亮太の母校には普通科しか無く、国公立の芸大に現役合格した卒業生はいなかった)の期待に応えて音楽学部に合格した亮太は、男は家庭を持つ前に一度家を出たほうがいいという父の意見に従い、自分が生まれ育った横浜の下町と似た雰囲気の千駄木で一人暮らしを始めた。自分のことだけを考えて過ごすことが許された学生生活は、亮太の身体の深い場所で半分覚醒していた何かを、一気に解放した。演奏技術がぐんと伸び、ソリストとしての表現力がついてくると、複数のコンクールで上位に食い込むことができた。
 院生である間に、もう一度大きなコンクールで賞を獲り、デビューしたい。その上で将来、横浜を本拠地とするオーケストラに籍を置くことができれば、実家に帰ることも視野に入れられる。店との折り合いをつけ、亮太の舞台を横浜から観に来てくれる両親のために、亮太は早く職業音楽家になりたいと考えていた。



 亮太が暮らす「コラール千駄木」は、大学が入居を斡旋する、音楽系学生専用マンションである。但し築年数が古くてエレベーターが無い上、部屋が完全防音ではないため、ピアノや大きな楽器の奏者は入居できない。そんな訳でここには自然と、木管楽器と小型弦楽器奏者、それに歌手が集まっていた。
 大っぴらにされていないが、最上階の4階はレディースフロアである。これはセキュリティ上の配慮で、最上階に住む女子学生が部屋に男を呼ぶなどすると、防犯カメラを見た大家が、不審者が出たと言いながら乗りこんでくる。そういう光景も面白いので、亮太はこの古いマンションが好きだ。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

僕の幸せは

春夏
BL
【完結しました】 恋人に捨てられた悠の心情。 話は別れから始まります。全編が悠の視点です。 1日2話ずつ投稿します。

美形×平凡の子供の話

めちゅう
BL
 美形公爵アーノルドとその妻で平凡顔のエーリンの間に生まれた双子はエリック、エラと名付けられた。エリックはアーノルドに似た美形、エラはエーリンに似た平凡顔。平凡なエラに幸せはあるのか? ────────────────── お読みくださりありがとうございます。 お楽しみいただけましたら幸いです。

【完結】I adore you

ひつじのめい
BL
幼馴染みの蒼はルックスはモテる要素しかないのに、性格まで良くて羨ましく思いながらも夏樹は蒼の事を1番の友達だと思っていた。 そんな時、夏樹に彼女が出来た事が引き金となり2人の関係に変化が訪れる。 ※小説家になろうさんでも公開しているものを修正しています。

あと一度だけでもいいから君に会いたい

藤雪たすく
BL
異世界に転生し、冒険者ギルドの雑用係として働き始めてかれこれ10年ほど経つけれど……この世界のご飯は素材を生かしすぎている。 いまだ食事に馴染めず米が恋しすぎてしまった為、とある冒険者さんの事が気になって仕方がなくなってしまった。 もう一度あの人に会いたい。あと一度でもあの人と会いたい。 ※他サイト投稿済み作品を改題、修正したものになります

そんなの真実じゃない

イヌノカニ
BL
引きこもって四年、生きていてもしょうがないと感じた主人公は身の周りの整理し始める。自分の部屋に溢れる幼馴染との思い出を見て、どんなパソコンやスマホよりも自分の事を知っているのは幼馴染だと気付く。どうにかして彼から自分に関する記憶を消したいと思った主人公は偶然見た広告の人を意のままに操れるというお香を手に幼馴染に会いに行くが———? 彼は本当に俺の知っている彼なのだろうか。 ============== 人の証言と記憶の曖昧さをテーマに書いたので、ハッキリとせずに終わります。

雪を溶かすように

春野ひつじ
BL
人間と獣人の争いが終わった。 和平の条件で人間の国へ人質としていった獣人国の第八王子、薫(ゆき)。そして、薫を助けた人間国の第一王子、悠(はる)。二人の距離は次第に近づいていくが、実は薫が人間国に行くことになったのには理由があった……。 溺愛・甘々です。 *物語の進み方がゆっくりです。エブリスタにも掲載しています

ガラス玉のように

イケのタコ
BL
クール美形×平凡 成績共に運動神経も平凡と、そつなくのびのびと暮らしていたスズ。そんな中突然、親の転勤が決まる。 親と一緒に外国に行くのか、それとも知人宅にで生活するのかを、どっちかを選択する事になったスズ。 とりあえず、お試しで一週間だけ知人宅にお邪魔する事になった。 圧倒されるような日本家屋に驚きつつ、なぜか知人宅には学校一番イケメンとらいわれる有名な三船がいた。 スズは三船とは会話をしたことがなく、気まずいながらも挨拶をする。しかし三船の方は傲慢な態度を取り印象は最悪。 ここで暮らして行けるのか。悩んでいると母の友人であり知人の、義宗に「三船は不器用だから長めに見てやって」と気長に判断してほしいと言われる。 三船に嫌われていては判断するもないと思うがとスズは思う。それでも優しい義宗が言った通りに気長がに気楽にしようと心がける。 しかし、スズが待ち受けているのは日常ではなく波乱。 三船との衝突。そして、この家の秘密と真実に立ち向かうことになるスズだった。

【完結】我が侭公爵は自分を知る事にした。

琉海
BL
 不仲な兄の代理で出席した他国のパーティーで愁玲(しゅうれ)はその国の王子であるヴァルガと出会う。弟をバカにされて怒るヴァルガを愁玲は嘲笑う。「兄が弟の事を好きなんて、そんなこと絶対にあり得ないんだよ」そう言う姿に何かを感じたヴァルガは愁玲を自分の番にすると宣言し共に暮らし始めた。自分の国から離れ一人になった愁玲は自分が何も知らない事に生まれて初めて気がついた。そんな愁玲にヴァルガは知識を与え、時には褒めてくれてそんな姿に次第と惹かれていく。  しかしヴァルガが優しくする相手は愁玲だけじゃない事に気づいてしまった。その日から二人の関係は崩れていく。急に変わった愁玲の態度に焦れたヴァルガはとうとう怒りを顕にし愁玲はそんなヴァルガに恐怖した。そんな時、愁玲にかけられていた魔法が発動し実家に戻る事となる。そこで不仲の兄、それから愁玲が無知であるように育てた母と対峙する。  迎えに来たヴァルガに連れられ再び戻った愁玲は前と同じように穏やかな時間を過ごし始める。様々な経験を経た愁玲は『知らない事をもっと知りたい』そう願い、旅に出ることを決意する。一人でもちゃんと立てることを証明したかった。そしていつかヴァルガから離れられるように―――。  異変に気づいたヴァルガが愁玲を止める。「お前は俺の番だ」そう言うヴァルガに愁玲は問う。「番って、なに?」そんな愁玲に深いため息をついたヴァルガはあやすように愁玲の頭を撫でた。

処理中です...