彼はオタサーの姫

穂祥 舞

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第1幕/甘く匂う蓮

第1場

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 その男が横を通った時、ふわりと甘い香りがした。女みたいな香水だ。ヴァニラ、ベルガモット、バナナ、微かにレモン。それにミントとフェンネル……頭の中に香り成分の化学式が散らばるのに任せ、一樹かずきは彼の姿を目で追う。
 その男の髪はほぼ黒の暗い色で、染めるなどの加工はしていないようだった。顔立ちは不細工ではないけれど特別イケメンでもなく、身長もごく普通。ジーンズにカットソーという恰好は、必要以上に服に金をかけない庶民的な空気感があって、逆にそれがこの教室では目立つかもしれない。
 印象に残る容姿ではなかったが、よく見ると、頭部の大きさの割に太い首と、肥満という意味ではなく、意外に厚みのある身体が、自分と彼が同類であることを示していた。……歌う者。しかも、自分よりも長く訓練を受けているに違いない。
 音楽学部でイタリア語を履修しようというのだから、声楽科の人間だと思う。そこに違和感は無い。しかし一樹が彼に目を留めたのは、教室にいる学生の中で、高校を出たばかりではない落ち着いた雰囲気を彼が醸し出していたからだった。
 先週のオリエンテーションにはいなかったし、他の授業でも見かけない奴だけど、受け直しのお仲間かな。一樹は少し嬉しくなる。ただでさえ声楽科は男子学生が少ない上に、明らかに歳下の女の子たちに囲まれて、やや居心地が悪い日々を送っているからである。
 友達になりたい、と珍しく積極的に考えた。イタリア語の授業が終われば昼休みなので、甘い香りのする彼を学食に誘おうと一樹は思っていたが、彼は2限の終了を告げるチャイムが鳴ると、あっという間に教室の外に消えてしまった。美味しそうな残り香が、一樹の鼻の奥を微かに刺激した。



 一樹は茨城県にある国立大学の理工学群で、農芸化学を学んだ。ちょっとばかり嗅覚が敏感なことを生かし、香りの研究者を志していた。しかし、熱心な活動を展開する混声合唱部に所属したことが、一樹の人生のレールを曲げた。
 中学生までピアノを弾いていたからか譜読みが早い一樹は、入部して直ぐに、歌唱指導に来ていたプロの歌手でもあるトレーナーからおだてられた。

「上手いな、いい声だし」

 当然、歌うことが楽しくなった。
 適当にちょろちょろ歌っているだけなら、こんなことにはならなかっただろう。忙しいとされる理系学部なのに毎日休まず練習に行くので、すぐに一樹は目立つ部員になってしまい、3回生になると、副部長と、バスパートのリーダーを任された。他大学の合唱部との合同演奏会などにも首を突っ込み、「筑波のバスの深田ふかださん」として何故か有名になった。授業で実験をするのも楽しいが、歌は更に自由な悦びをもたらしてくれる。勘違いするには十分だった。……もっと、いろんな歌を歌いたい。ソロでも聴かせられるよう、もっと上手になって。
 余裕で卒業見込みも立っていたのに就職活動をせず、ピアノと声楽の個人指導に、バイト代と持てる時間の全てを使い、芸術大学を受験した。ヨーロッパでは学者や医師でありながら音楽家という人も沢山いるのだから、自分もそれを目指したいというのが一樹のアンビシャスなのだが、親からは半分勘当されている。せっかく芸大に見事合格し、つくば市から豊島区の実家に戻ったのに、ちょっと居心地が悪い。
 実は一樹の中では、調香師になることと演奏家になることに大きな隔たりは無い。一樹はうまれつき、特殊な感覚を持っていた。音楽に香りを感じるのである。クラシック音楽なら、作曲家でおおよその香りの傾向があり、曲の編成や調性で成分が足されたり引かれたりして、同じ曲でも演奏者によって、トップノートやラストノートが変化する……といった感じだ。混声合唱部でとにかく一曲でも沢山歌いたいと思い積極的に活動したのも、新曲をマスターすることが楽しかったからだけでなく、未知の香りに出会いたかったからだった。
 しかし、一樹の独特な感覚は、家族から気味悪がられた。元々匂いにうるさい子どもだったが、歌番組を見ている時に、この歌は酸っぱい匂いがするねと口にすると、祖母と父が変な顔をした。幼稚園に通い始めた頃だったと記憶する。そして母は、小学生になった一樹をピアノ教室に通わせておきながら、先生や友達に音楽が匂うことを話すなと、何度も念押しした。理由は、嘘つきだと思われてはいけないから、だった。母ももしかすると、一樹が嘘を言っていると思っていたのかもしれない。
 大学生になって、気安さから混声合唱部やゼミの同期にちらっと話したことはあったが、嘘つきだと見做されはしなかったものの、耳鼻咽喉科の良い病院を薦められたり、心療内科を紹介されたりしてしまった。心配してもらえるのが嬉しい反面、自分はこの嗅覚を病気だと思っていないし、不便だとも感じていないだけに、ちょっと悲しかった。そんな訳で一樹は、やはりこの感覚を他人に理解してもらうのは困難だと身に沁みていた。
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