彼はオタサーの姫

穂祥 舞

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序曲/上京

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 三喜雄は、札幌で3本の指に入る進学校である高校の、比較的レベルの高いグリークラブで歌い始め、ちょっと褒められて調子に乗り、音楽の道に進もうと安易に決めた。芸事で食べて行くことができるほど世の中は甘くないとわかっているつもりなので、教員免許は取っておきたいと考え、教育大学の音楽を専修できるコースに入学した。
 日本全国の教育大学で、スポーツや芸術を集中的に学ぶ課程は、教育大学でありながら、小学校の教職課程が卒業の必修要件ではない場合が多い。三喜雄の大学もそうで、小学校教諭の免許が欲しいと思いそのための科目を履修すると、時間割がぱんぱんになった。三喜雄は中高の教職科目は何とか修得できたが、やはり小学校の実習には行くことができなかった。また、混声合唱部に籍を置いていたものの、忙し過ぎて3回生で退部せざるを得なかったことにも、悔いが残る(それでも卒業演奏会に混声合唱部の部員たちが来てくれたことを、三喜雄は一生忘れないと思う)。
 とはいえ、大学での専門的な勉強は、三喜雄の音楽の世界を一気に広げてくれた。好きなだけ歌のことを考え、個性的な先生たちが沢山のことを教えてくれる毎日。3回生になると、声楽専攻のみならず器楽専攻の同級生とも、たまにべろべろになるまで飲み、音楽の話だけでなく愚にもつかない話で笑い合った。先生たちに眉をひそめられつつ、コスプレつきアニソンコンサートや、男女逆転のオペラのガラコンサートを文化祭で企画し、学内のホールを満席にした。
 レッスンもアルバイトも続け、怒涛の4年間を過ごした三喜雄は、無事に卒業した。芸術課程音楽コースの同期のうち、これからも音楽にたずさわる者は約半数、大学院に進学したのは、三喜雄を含めて4人。卒業記念パーティが開かれた際に、教員を目指す同期が口にした言葉が、皆を笑わせた。

「音楽系の院って、究極のオタサーだよね?」



 大学の卒業式を終えてすぐに、三喜雄は東京に越してきた。手続きには、その日学生時代の友人と会うのが主目的だった父がついて来てくれたが、引っ越し作業は独りでした。北海道から荷物がちゃんと届くのか少し心配だったが、一箱の欠けもなく部屋に運ばれた。
 三喜雄は服をダンボールからクローゼットに入れ替え、楽譜と本を本棚に並べ終わり、まだ生活感の無い空間で、ひと息つく。キーボードはまた後で出そうと思いながら、新しいカーテンがかかったばかりの窓を開けた。そこには家々の屋根が広がり、少し離れたところに、公園の木立ちの緑が日射しを受けて光るのが見えた。実家の周辺と雰囲気が少し似ているのが、この部屋を気に入った一番の理由だった。
 そういえばこの間、学部から芸大に行っていた、4月から院で同級生になる同郷の知人が、ここを紹介しておきながら、古いだの完全防音でないだのと文句を言うので、ちょっと腹が立ってしまった。まあ早々に家が決まったのは彼のおかげだし、彼は少し変わった人物だから、あまり気にしないでおく。両親も藤巻も彼を知っているので、これから一緒に勉強することになり、安心してくれている。東京が初めての三喜雄も、もちろん心強い。
 この部屋は角部屋だから、上下の部屋と、隣は空いているらしいので、もうひとつ向こうの隣の計3軒に、挨拶に行かなくてはいけない。音大生しか入居していないのに、何の音もしない辺り、皆留守の可能性が高い。三喜雄は思案する。挨拶には夕方以降に回ることにしよう。そろそろ冷蔵庫の中も冷えてきただろうから、食材を買いに行こうか。

「If I am where you are, nowhere' s too far ……」

 三喜雄の口から勝手に歌が出る。羽田に着いた飛行機から降りる時、機内で流れていた曲だ。今三喜雄には、こう呼びかけたい特別な相手はいないけれど、特定の相手でなくとも、youを複数形にして、こんな風に思える音楽家たちと出逢えたらいいなと思う。
 新しい生活が、新しい歌が始まる。三喜雄は受け取ったばかりの裸の鍵を握りしめ、財布を片手にスニーカーに足を入れた。


☆ “I Will Be There with You”  by David Foster (2008)
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