41 / 55
3 7月下旬
朝凪の如き夜明け
しおりを挟む
エアコンは止まっているようだった。部屋の中が十分冷えているからだろう。泰生はそっと首を上げて、カーテンの外がほんのわずかに明るくなってきたのを確かめる。
毎日朝から晩まで暑いのに、夜明け前に少し涼しくなるなんて、信じられなかった。足元に追いやられたタオルケットを足の指で掴んで持ち上げ、腕を伸ばして胸元まで引き上げた。
今日から実質、夏休みだ。レポートの提出もテストも、無事に終わった(たぶん)。塚﨑ゼミの夏休みの宿題は自由研究で、実地研修もしくは3冊以上の本を読み、後期授業の初めの日にレポートを提出することになっている。
塚﨑の許でゼミ生は主に東アジア史を学んでいるので、実地研修に行く者はまずいない。泰生も、加太には行くがモンゴルに行く予定は無かった。まあお盆までに一度、大学の図書館で本を漁らなくてはいけないだろう。
とても静かだった。昨日と一昨日、想定外のことにばたばたした反動のように思えた。
泰生は管弦楽団の入部届を、7月29日に書くように三村から言われた。何でもこの日は、この一年の中で最高レベルの開運日なのだという。斉藤が弾いているコントラバスのクララ(かつて女子部員のためにこの小ぶりな楽器の購入を訴えた卒業生が名づけたらしく、その名が脈々と伝えられているそうだ)も、メンテナンスのために、29日に楽器屋に引き渡すと決まっていた。やっぱりこのパートおかしいわと泰生は思ったが、いわゆるお日柄が良い日に入部するのは悪くないと思うことにした。
泰生が今までできなかったのは、大きな音を出すことではなく、良い響きをどの弦でも均一に出すということだった。ボーイングも確かに弱かったのだが、もしかしたら、松脂を使いこなせていなかったせいもあるかもしれないと、三村と斉藤から指摘を受けた。三村から借りた上等の松脂は、泰生が弾くことになったコントラバスと相性が良いのか、30分弓を動かすうちに、自分の耳で聴いていてもわかるくらい音が変わってきた。出費が痛いけれど、あの松脂がいいかもしれない。まあ、他に金を使う場所も無いのだから、いいだろう。
喫茶淡竹は、予想外にてきぱき動いた泰生を、夏休みの臨時アルバイトとして雇うことにした。パートタイマーの木村さんの体調がいつ戻るかわからないということと、もうひとりのアルバイトである岡本が、来週からお盆明けまで、和歌山に帰省するからだった。
淡竹の店長の森は、もちろん大学を卒業するまで続けてくれてもいいと言ってくれている。後期になれば、3回生である泰生も岡本も就職活動の準備が始まり、管弦楽団の定期演奏会が近づくと練習の日数が増えてくるので、淡竹の仕事を2人で分担すればいいと森は提案した。実際はそんなに上手く運ばないだろうが、クラブに入ればどっちみち、びっちりアルバイトはできないので、淡竹でのんびりやってみようと考えている。
泰生は目を閉じたまま、深呼吸する。夏の朝のこの涼やかな静けさは、これから自分の生活が変わる、嵐の前のものなのだろうか。
たったの3週間で、いろいろなことが起こった。本当なら、キャンパスが変わった春に経験しなくてはいけなかったことが、後ろ倒しでやってきただけかもしれない。それでも、嫌な感じはしなかった。新しいアルバイトも管弦楽団も、期待感のほうが大きい。ついでに、8年ぶりの家族旅行も。
カーテンから洩れてくる光が少し強くなり、雀の鳴き声が聞こえた。セミが鳴き始めるまで、もう少し眠ろうと思う。今日は10時から、淡竹で仕事だ。
毎日朝から晩まで暑いのに、夜明け前に少し涼しくなるなんて、信じられなかった。足元に追いやられたタオルケットを足の指で掴んで持ち上げ、腕を伸ばして胸元まで引き上げた。
今日から実質、夏休みだ。レポートの提出もテストも、無事に終わった(たぶん)。塚﨑ゼミの夏休みの宿題は自由研究で、実地研修もしくは3冊以上の本を読み、後期授業の初めの日にレポートを提出することになっている。
塚﨑の許でゼミ生は主に東アジア史を学んでいるので、実地研修に行く者はまずいない。泰生も、加太には行くがモンゴルに行く予定は無かった。まあお盆までに一度、大学の図書館で本を漁らなくてはいけないだろう。
とても静かだった。昨日と一昨日、想定外のことにばたばたした反動のように思えた。
泰生は管弦楽団の入部届を、7月29日に書くように三村から言われた。何でもこの日は、この一年の中で最高レベルの開運日なのだという。斉藤が弾いているコントラバスのクララ(かつて女子部員のためにこの小ぶりな楽器の購入を訴えた卒業生が名づけたらしく、その名が脈々と伝えられているそうだ)も、メンテナンスのために、29日に楽器屋に引き渡すと決まっていた。やっぱりこのパートおかしいわと泰生は思ったが、いわゆるお日柄が良い日に入部するのは悪くないと思うことにした。
泰生が今までできなかったのは、大きな音を出すことではなく、良い響きをどの弦でも均一に出すということだった。ボーイングも確かに弱かったのだが、もしかしたら、松脂を使いこなせていなかったせいもあるかもしれないと、三村と斉藤から指摘を受けた。三村から借りた上等の松脂は、泰生が弾くことになったコントラバスと相性が良いのか、30分弓を動かすうちに、自分の耳で聴いていてもわかるくらい音が変わってきた。出費が痛いけれど、あの松脂がいいかもしれない。まあ、他に金を使う場所も無いのだから、いいだろう。
喫茶淡竹は、予想外にてきぱき動いた泰生を、夏休みの臨時アルバイトとして雇うことにした。パートタイマーの木村さんの体調がいつ戻るかわからないということと、もうひとりのアルバイトである岡本が、来週からお盆明けまで、和歌山に帰省するからだった。
淡竹の店長の森は、もちろん大学を卒業するまで続けてくれてもいいと言ってくれている。後期になれば、3回生である泰生も岡本も就職活動の準備が始まり、管弦楽団の定期演奏会が近づくと練習の日数が増えてくるので、淡竹の仕事を2人で分担すればいいと森は提案した。実際はそんなに上手く運ばないだろうが、クラブに入ればどっちみち、びっちりアルバイトはできないので、淡竹でのんびりやってみようと考えている。
泰生は目を閉じたまま、深呼吸する。夏の朝のこの涼やかな静けさは、これから自分の生活が変わる、嵐の前のものなのだろうか。
たったの3週間で、いろいろなことが起こった。本当なら、キャンパスが変わった春に経験しなくてはいけなかったことが、後ろ倒しでやってきただけかもしれない。それでも、嫌な感じはしなかった。新しいアルバイトも管弦楽団も、期待感のほうが大きい。ついでに、8年ぶりの家族旅行も。
カーテンから洩れてくる光が少し強くなり、雀の鳴き声が聞こえた。セミが鳴き始めるまで、もう少し眠ろうと思う。今日は10時から、淡竹で仕事だ。
10
お気に入りに追加
8
あなたにおすすめの小説
如月さんは なびかない。~片想い中のクラスで一番の美少女から、急に何故か告白された件~
八木崎(やぎさき)
恋愛
「ねぇ……私と、付き合って」
ある日、クラスで一番可愛い女子生徒である如月心奏に唐突に告白をされ、彼女と付き合う事になった同じクラスの平凡な高校生男子、立花蓮。
蓮は初めて出来た彼女の存在に浮かれる―――なんて事は無く、心奏から思いも寄らない頼み事をされて、それを受ける事になるのであった。
これは不器用で未熟な2人が成長をしていく物語である。彼ら彼女らの歩む物語を是非ともご覧ください。
一緒にいたい、でも近づきたくない―――臆病で内向的な少年と、偏屈で変わり者な少女との恋愛模様を描く、そんな青春物語です。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
独身寮のふるさとごはん まかないさんの美味しい献立
水縞しま
ライト文芸
旧題:独身寮のまかないさん ~おいしい故郷の味こしらえます~
第7回ライト文芸大賞【料理・グルメ賞】作品です。
◇◇◇◇
飛騨高山に本社を置く株式会社ワカミヤの独身寮『杉野館』。まかない担当として働く有村千影(ありむらちかげ)は、決まった予算の中で献立を考え、食材を調達し、調理してと日々奮闘していた。そんなある日、社員のひとりが失恋して落ち込んでしまう。食欲もないらしい。千影は彼の出身地、富山の郷土料理「ほたるいかの酢味噌和え」をこしらえて励まそうとする。
仕事に追われる社員には、熱々がおいしい「味噌煮込みうどん(愛知)」。
退職しようか思い悩む社員には、じんわりと出汁が沁みる「聖護院かぶと鯛の煮物(京都)」。
他にも飛騨高山の「赤かぶ漬け」「みだらしだんご」、大阪の「モダン焼き」など、故郷の味が盛りだくさん。
おいしい故郷の味に励まされたり、癒されたり、背中を押されたりするお話です。
『 ゆりかご 』 ◉諸事情で非公開予定ですが読んでくださる方がいらっしゃるのでもう少しこのままにしておきます。
設樂理沙
ライト文芸
皆さま、ご訪問いただきありがとうございます。
最初2/10に非公開の予告文を書いていたのですが読んで
くださる方が増えましたので2/20頃に変更しました。
古い作品ですが、有難いことです。😇
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
" 揺り篭 " 不倫の後で 2016.02.26 連載開始
の加筆修正有版になります。
2022.7.30 再掲載
・・・・・・・・・・・
夫の不倫で、信頼もプライドも根こそぎ奪われてしまった・・
その後で私に残されたものは・・。
・・・・・・・・・・
💛イラストはAI生成画像自作
病気になって芸能界から消えたアイドル。退院し、復学先の高校には昔の仕事仲間が居たけれど、彼女は俺だと気付かない
月島日向
ライト文芸
俺、日生遼、本名、竹中祐は2年前に病に倒れた。
人気絶頂だった『Cherry’s』のリーダーをやめた。
2年間の闘病生活に一区切りし、久しぶりに高校に通うことになった。けど、誰も俺の事を元アイドルだとは思わない。薬で細くなった手足。そんな細身の体にアンバランスなムーンフェイス(薬の副作用で顔だけが大きくなる事)
。
誰も俺に気付いてはくれない。そう。
2年間、連絡をくれ続け、俺が無視してきた彼女さえも。
もう、全部どうでもよく感じた。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。

タダで済むと思うな
美凪ましろ
ライト文芸
フルタイムで働きながらワンオペで子育てをし、夫のケアもしていた井口虹子は、結婚十六年目のある夜、限界を迎える。
――よし、決めた。
我慢するのは止めだ止め。
家族のために粉骨砕身頑張っていた自分。これからは自分のために生きる!
そう決めた虹子が企てた夫への復讐とは。
■十八歳以下の男女の性行為があります。

包んで、重ねて ~歳の差夫婦の極甘新婚生活~
吉沢 月見
恋愛
ひたすら妻を溺愛する夫は50歳の仕事人間の服飾デザイナー、新妻は23歳元モデル。
結婚をして、毎日一緒にいるから、君を愛して君に愛されることが本当に嬉しい。
何もできない妻に料理を教え、君からは愛を教わる。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる