夏の扉が開かない

穂祥 舞

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3 7月下旬

朝凪の如き夜明け

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 エアコンは止まっているようだった。部屋の中が十分冷えているからだろう。泰生はそっと首を上げて、カーテンの外がほんのわずかに明るくなってきたのを確かめる。
 毎日朝から晩まで暑いのに、夜明け前に少し涼しくなるなんて、信じられなかった。足元に追いやられたタオルケットを足の指で掴んで持ち上げ、腕を伸ばして胸元まで引き上げた。
 今日から実質、夏休みだ。レポートの提出もテストも、無事に終わった(たぶん)。塚﨑ゼミの夏休みの宿題は自由研究で、実地研修もしくは3冊以上の本を読み、後期授業の初めの日にレポートを提出することになっている。
 塚﨑の許でゼミ生は主に東アジア史を学んでいるので、実地研修に行く者はまずいない。泰生も、加太には行くがモンゴルに行く予定は無かった。まあお盆までに一度、大学の図書館で本を漁らなくてはいけないだろう。
 とても静かだった。昨日と一昨日、想定外のことにばたばたした反動のように思えた。
 泰生は管弦楽団の入部届を、7月29日に書くように三村から言われた。何でもこの日は、この一年の中で最高レベルの開運日なのだという。斉藤が弾いているコントラバスのクララ(かつて女子部員のためにこの小ぶりな楽器の購入を訴えた卒業生が名づけたらしく、その名が脈々と伝えられているそうだ)も、メンテナンスのために、29日に楽器屋に引き渡すと決まっていた。やっぱりこのパートおかしいわと泰生は思ったが、いわゆるお日柄が良い日に入部するのは悪くないと思うことにした。
 泰生が今までできなかったのは、大きな音を出すことではなく、良い響きをどの弦でも均一に出すということだった。ボーイングも確かに弱かったのだが、もしかしたら、松脂を使いこなせていなかったせいもあるかもしれないと、三村と斉藤から指摘を受けた。三村から借りた上等の松脂は、泰生が弾くことになったコントラバスと相性が良いのか、30分弓を動かすうちに、自分の耳で聴いていてもわかるくらい音が変わってきた。出費が痛いけれど、あの松脂がいいかもしれない。まあ、他に金を使う場所も無いのだから、いいだろう。
 喫茶淡竹は、予想外にてきぱき動いた泰生を、夏休みの臨時アルバイトとして雇うことにした。パートタイマーの木村さんの体調がいつ戻るかわからないということと、もうひとりのアルバイトである岡本が、来週からお盆明けまで、和歌山に帰省するからだった。
 淡竹の店長のもりは、もちろん大学を卒業するまで続けてくれてもいいと言ってくれている。後期になれば、3回生である泰生も岡本も就職活動の準備が始まり、管弦楽団の定期演奏会が近づくと練習の日数が増えてくるので、淡竹の仕事を2人で分担すればいいと森は提案した。実際はそんなに上手く運ばないだろうが、クラブに入ればどっちみち、びっちりアルバイトはできないので、淡竹でのんびりやってみようと考えている。
 泰生は目を閉じたまま、深呼吸する。夏の朝のこの涼やかな静けさは、これから自分の生活が変わる、嵐の前のものなのだろうか。
 たったの3週間で、いろいろなことが起こった。本当なら、キャンパスが変わった春に経験しなくてはいけなかったことが、後ろ倒しでやってきただけかもしれない。それでも、嫌な感じはしなかった。新しいアルバイトも管弦楽団も、期待感のほうが大きい。ついでに、8年ぶりの家族旅行も。
 カーテンから洩れてくる光が少し強くなり、雀の鳴き声が聞こえた。セミが鳴き始めるまで、もう少し眠ろうと思う。今日は10時から、淡竹で仕事だ。
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