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そのひとはあやめのようで
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俺はひょんなことから、新宿2丁目の雑居ビルの3階にある女装バー「めぎつね」に、たまに飲みにいくようになった。
「あ、若いショウくん、いらっしゃい」
人気ホステスのミチルさんが迎えてくれた。彼が俺を若いショウと呼ぶには理由がある。
俺は芸能の専門学校を出て以来、フリーターとして働きながらミュージカル俳優を目指している。スキルを磨きたくて、感染症の拡大の中で、ニューヨークへのダンス留学を強行した。帰国して以来、ダンサーとしての仕事が回ってくるようになり、めぎつねの2つ隣りのビルの半地下にあるショーパブで、昨年秋から週に2度踊らせてもらっている。
一緒に舞台に上がるダンサーの中に、ベテランのショウさんがいる。だから俺は若いショウくんと、常連さんから呼ばれているのだ。俺はショウさんを尊敬しているので、そう呼ばれるのはむしろ申し訳ない。
「水割りでいいかな?」
ミチルさんの、大きいけれど綺麗な手が、グラスと氷を用意する。彼は本当に美人だ。今日のモスグリーンのドレスもよく似合っているが、初めて俺がショーパブの客席にこの人を見つけた時の、紫のロングドレス姿が忘れられない。
ミチルさんは俺が踊らせてもらっているダンスユニット、「ドルフィン・ファイブ」の古参ファンである。女の姿で観に来る時も、男の姿の時もある。冬に男姿でスツールに座っていた時は誰だかすぐにわからず驚いたが、あの日首に巻いていた紫の色味のマフラーもよく似合っていた。
店のドアが開いて、手に細長い包みを持った、もっさりした小柄なサラリーマンが入ってきた。ミチルさんがあれっ、と彼に言う。
「どうしたんだハルちゃん」
「メアリーからLINE来たんです、残業出て9時過ぎそうだから、その間お願いって」
ミチルさんは同情をたたえた声で、お疲れ、と眼鏡の彼に言う。ミチルさんは、客にも同僚にも優しい。
20分ほどすると、奥に入ったもっさりしたサラリーマンは、前髪とサイドの髪にウェーブをつけた、可愛らしい女性に変貌して店に出てきた。このホステス、ハルさんは、ベテランのショウさんの彼女……じゃない、彼氏だ。
「あっ、若いショウくんとここで会うの初めてかな?」
言われてみればそうだった。ハルさんは普段火曜は店に出ないからだ。彼は白い紙の細長い包みをくるくると解き、俺は中身に興味を持つ。
「何すか? 花?」
「そう、昼間の仕事の取引先に花屋とカフェをチェーンでやってる会社があるんだ、何故か今日はこの花を大量に持って来てくれて」
ミチルさんは、花瓶が要るな、と言いながら奥に引っ込んだ。ママの英子さんも、何事かとカウンターに戻ってきて、花を手に取る。
「きれいだな、これは……アヤメかな」
すっと伸びた茎の先に咲く、紫色の大きな花は、女装バーにあまり似合わないかと思いきや、上品な存在感がいい感じである。ミチルさんは、四角くて背の高い白いガラスの花瓶を持ってきて、水をその中に入れた。
「ありゃ、長いなぁ……切っても大丈夫かな」
ミチルさんはママから花鋏を受け取り、ぱちん、と音を立てて茎を斜めに切った。その横顔が美しい。
3本のアヤメは、ミチルさんが高さをつけて、どの花も正面から顔が見える(と言っていいのかわからないけれど、そんな感じだった)ように花瓶に活けられた。他の常連客も、きれいだね、と褒めそやす。
俺は凛とした花を見て、あの夜のミチルさんのようだなと思った。決して派手ではないけれど、存在感のある、紫色の蝶のような姿。そしてすっとした佇まいには、男の姿のミチルさんを思い起こさせる強さのようなものもある。
俺がアヤメとミチルさんをデレッと見比べていたのを、ハルさんに気づかれた。ミチルさんが他の客のテーブルにおつまみを運びに行った隙に、ハルさんがにやにやしながら、こそっと言う。
「年の差なんか関係無いぞ、俺とショウさんは全力で若いショウくんを応援させていただきますが」
俺は顔に血が昇るのを抑えられなかった。そうなのか? 俺はミチルさんを、そういう対象として見ているのか? 自覚としては、俺はゲイではない。でももしそういう関係になったら、ミチルさんは自分がネコだと公言しているので、俺がミチルさんを抱く……ことになるのだろうか? 思わずそんな想像をしてしまう。
「いや待ってハルさん、俺混乱してきた」
俺は手で口を押さえた。確かに俺は女装したミチルさんに惹かれた、と思う。では男の姿のミチルさん、いや美智生さんは?
「ミチルさんって年下と交際した経験少なそうだよ、焦らなくてもいいと思うけど、アピールしないと気づかないかもな」
ハルさんは笑い半分にあっさり言い、チョコレートを用意し始めた。俺の水割りが底をついているのに、である。
空いた皿を引いてきたミチルさんが、俺に訊く。
「あっショウくん、2杯目いく?」
「え? ああ、頼みます」
ミチルさんが俺のグラスを引く。わざとか、ハルさん。可愛い顔をして、食えないホステスだ。でもまあ、水割りを作ってくれるミチルさんを見るのが好きだから、いいことにした。
〈初出 2023.5.28 #創作BL深夜の60分一本勝負 お題:あやめ〉
「あ、若いショウくん、いらっしゃい」
人気ホステスのミチルさんが迎えてくれた。彼が俺を若いショウと呼ぶには理由がある。
俺は芸能の専門学校を出て以来、フリーターとして働きながらミュージカル俳優を目指している。スキルを磨きたくて、感染症の拡大の中で、ニューヨークへのダンス留学を強行した。帰国して以来、ダンサーとしての仕事が回ってくるようになり、めぎつねの2つ隣りのビルの半地下にあるショーパブで、昨年秋から週に2度踊らせてもらっている。
一緒に舞台に上がるダンサーの中に、ベテランのショウさんがいる。だから俺は若いショウくんと、常連さんから呼ばれているのだ。俺はショウさんを尊敬しているので、そう呼ばれるのはむしろ申し訳ない。
「水割りでいいかな?」
ミチルさんの、大きいけれど綺麗な手が、グラスと氷を用意する。彼は本当に美人だ。今日のモスグリーンのドレスもよく似合っているが、初めて俺がショーパブの客席にこの人を見つけた時の、紫のロングドレス姿が忘れられない。
ミチルさんは俺が踊らせてもらっているダンスユニット、「ドルフィン・ファイブ」の古参ファンである。女の姿で観に来る時も、男の姿の時もある。冬に男姿でスツールに座っていた時は誰だかすぐにわからず驚いたが、あの日首に巻いていた紫の色味のマフラーもよく似合っていた。
店のドアが開いて、手に細長い包みを持った、もっさりした小柄なサラリーマンが入ってきた。ミチルさんがあれっ、と彼に言う。
「どうしたんだハルちゃん」
「メアリーからLINE来たんです、残業出て9時過ぎそうだから、その間お願いって」
ミチルさんは同情をたたえた声で、お疲れ、と眼鏡の彼に言う。ミチルさんは、客にも同僚にも優しい。
20分ほどすると、奥に入ったもっさりしたサラリーマンは、前髪とサイドの髪にウェーブをつけた、可愛らしい女性に変貌して店に出てきた。このホステス、ハルさんは、ベテランのショウさんの彼女……じゃない、彼氏だ。
「あっ、若いショウくんとここで会うの初めてかな?」
言われてみればそうだった。ハルさんは普段火曜は店に出ないからだ。彼は白い紙の細長い包みをくるくると解き、俺は中身に興味を持つ。
「何すか? 花?」
「そう、昼間の仕事の取引先に花屋とカフェをチェーンでやってる会社があるんだ、何故か今日はこの花を大量に持って来てくれて」
ミチルさんは、花瓶が要るな、と言いながら奥に引っ込んだ。ママの英子さんも、何事かとカウンターに戻ってきて、花を手に取る。
「きれいだな、これは……アヤメかな」
すっと伸びた茎の先に咲く、紫色の大きな花は、女装バーにあまり似合わないかと思いきや、上品な存在感がいい感じである。ミチルさんは、四角くて背の高い白いガラスの花瓶を持ってきて、水をその中に入れた。
「ありゃ、長いなぁ……切っても大丈夫かな」
ミチルさんはママから花鋏を受け取り、ぱちん、と音を立てて茎を斜めに切った。その横顔が美しい。
3本のアヤメは、ミチルさんが高さをつけて、どの花も正面から顔が見える(と言っていいのかわからないけれど、そんな感じだった)ように花瓶に活けられた。他の常連客も、きれいだね、と褒めそやす。
俺は凛とした花を見て、あの夜のミチルさんのようだなと思った。決して派手ではないけれど、存在感のある、紫色の蝶のような姿。そしてすっとした佇まいには、男の姿のミチルさんを思い起こさせる強さのようなものもある。
俺がアヤメとミチルさんをデレッと見比べていたのを、ハルさんに気づかれた。ミチルさんが他の客のテーブルにおつまみを運びに行った隙に、ハルさんがにやにやしながら、こそっと言う。
「年の差なんか関係無いぞ、俺とショウさんは全力で若いショウくんを応援させていただきますが」
俺は顔に血が昇るのを抑えられなかった。そうなのか? 俺はミチルさんを、そういう対象として見ているのか? 自覚としては、俺はゲイではない。でももしそういう関係になったら、ミチルさんは自分がネコだと公言しているので、俺がミチルさんを抱く……ことになるのだろうか? 思わずそんな想像をしてしまう。
「いや待ってハルさん、俺混乱してきた」
俺は手で口を押さえた。確かに俺は女装したミチルさんに惹かれた、と思う。では男の姿のミチルさん、いや美智生さんは?
「ミチルさんって年下と交際した経験少なそうだよ、焦らなくてもいいと思うけど、アピールしないと気づかないかもな」
ハルさんは笑い半分にあっさり言い、チョコレートを用意し始めた。俺の水割りが底をついているのに、である。
空いた皿を引いてきたミチルさんが、俺に訊く。
「あっショウくん、2杯目いく?」
「え? ああ、頼みます」
ミチルさんが俺のグラスを引く。わざとか、ハルさん。可愛い顔をして、食えないホステスだ。でもまあ、水割りを作ってくれるミチルさんを見るのが好きだから、いいことにした。
〈初出 2023.5.28 #創作BL深夜の60分一本勝負 お題:あやめ〉
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