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あの日のこと、これからのこと

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「なぁショウさん」

 晴也は空になった洗濯カゴを持って、ベランダからリビングに入った。晶は真面目な顔で新聞に目を通している。

「地震起きた時って、ロンドンにいたんだよな?」

 晶は新聞から顔を上げ、うん、と答えた。

「周りの連中が心配してくれるのは有り難かったんだけど、なかなか詳しい話が入って来なくてすごい不安でさ、姉貴が俺の下宿に駆け込んできて」

 晶の姉のまりは英国ロイヤルバレエ団に所属している。晶はダンス留学の行き先にイギリスを選んだが、特に鞠を追って、という訳では無かったらしく、普段は姉弟でやり取りしていなかったという。

「家族はとにかく大丈夫だってわかった時、あの姉貴が泣いたよ」 
「そうだったんだ……」

 気丈な義姉の泣き顔は想像できなかった。イギリスから帰国すると、晴也の前でも家族にぽんぽんものを言う人だが、やはり心配だったのだろう。想像するに余りある。

「ハルさんは大変だったんじゃないのか?」
「うん、まあ、プチ帰宅難民にはなったよ」

 晴也の暮らしていたマンションから職場は、普段の通勤で40分弱だった。夜中まで歩いて帰宅した人と比べれば、大したことはなかったのではないかと思う。
 佐倉の実家もかなり揺れたようだったが、幸い両親も家も大事無かった。妹の明里あかりが余震を怖がって晴也の部屋に転がり込み、しばらく狭苦しく同居する羽目になったことも、今思えば懐かしい。

「人の営みってさ、自然の前では脆くて儚いよなぁ……俺いっつも、何処かで災害起きるたびに思う」

 晴也は洗濯カゴを床に置いて、溜め息混じりに言った。そうだよなぁ、と晶も同意した。

「でも、人は立ち上がって生きていくんだよな、いっぱい重いもの抱えて」

 晶は左膝を壊すという、ダンサーとしては致命的な経験をしている。長い時間をかけて復活したが、世界の舞台に戻るきっかけとなった公演の直後、感染症が拡大した。
 そういったことに対し、晶の口から愚痴や恨み言を晴也は聞いたことが無い。晶の苦労や無念を思うと、晴也は自分が甘っちょろい人生を送ってきて、女の格好をしたい自分を理解してもらえないと、かつてぐだぐだ思っていたことが恥ずかしくなる。

「若い時の苦労は買ってでもしろなんてことわざがあるけど、別にしなくて済むなら、苦労なんて無いほうがいいに決まってる」

 晶は首を傾け、ベランダに面した窓から、晴れた春の空を見上げる。あの日は寒かったが、今日はやけに暖かい。

「特に天災なんて不条理の極みだと俺は思う、でもそこから何かを学んだり受け継いだりして前を向くために、人の知恵が試されてるんじゃないかな」

 たまに晶はこんな話を真面目にしてくれる。晴也はそれが嫌いではない。日頃流されて生活しがちなところを、立ち止まって振り返るきっかけになるからだ。
 生きていくためには、楽しいことの倍以上、悲しいことや辛いことを乗り越えて進まなくてはいけない。でもきついことが無ければ、一生気づかなかったであろう幸せも、確かに存在すると思う。

「俺さ、あの頃は、大地震なんか起きたらもうそのまま死んでいいと思ってた」

 晴也が口を開くと、晶は真剣な眼差しをこちらに送ってくる。

「でも今は、生き残れるのであれば生き残りたいし、それまでもそれからも、俺のできそうなことを精一杯やりたいと思う……んだ」

 ちょっと自分が何を言っているのかわからなくなる晴也だが、晶の切れ長の目が優しく笑った。

「そりゃハルさん、成長したというか、進歩したというか」
「……そうかな」

 晴也が俯くと、励ますような口調で晶は言う。

「人ってやっぱり、誰かと出会って真剣に相手と向き合ったり、自分だけの力ではどうしようもないことにぶつかって、必死で折り合いつけようとしたりして、変わってくんだよな」

 晶は何を思ったのか、急にスマートフォンを取り上げた。

「緊急時に一番にハルさんと連絡が取れるようにするのって、どうするんだ?」

 晴也は苦笑した。ついでに伝えておく。

「備蓄で消費期限が近いやつがあるから、ちょっと缶詰利用メニューとか増やさないといけないぞ」

 晶はスマホから目を上げた。

「何それ、備蓄なんかどこにしてるんだ?」
「……おまえほんとダメ、アウト」

 晴也はカゴを抱えてそう返しつつ、きっと晶はしぶとく生き延びるだろうなと思う。
 ……まあ、こいつと一緒に俺も生き延びることにしよう。


〈書き下ろし〉
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