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12月 3
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クリスマスが過ぎ、得意先への挨拶が終わり、営業1課の忘年会が終わった。仕事納めの日は、従業員は定時で一斉に帰宅するという習わしに今年も従い、ビルから人が吐き出されていく。
今日は昼から部署内の掃除をしていたから良かったものの、一日中かなり上の空だった。約束の時間まで少し余裕があったので、暁斗は指定された池袋駅まで山手線でのんびりと向かい、本屋で年末年始に読むものを物色した。独りに戻ったからといって、実家に帰る気にはなれない。嫁に逃げられた息子が家に居ても、両親とて面白くないだろうと思う。
暁斗は本をしっかり吟味できなかった。これから起こることを思うと、意識がそちらにばかり向かったからだ。結果的に適当に選んだ本の入った紙袋を片手に、やたらに早足で駅西口近くのファストなカフェに向かったのは、冷えてきた空気に追い立てられたせいだけではなかった。コーヒーだけを頼んで、これも指示通り窓際に席を取り、常に丁寧な神崎が30分前にもメールを寄越したのをそわそわと確認する。予定通りスタッフが参ります、どうぞお楽しみください――。
楽しめるものなのか? 暁斗はこの1週間、ゲイの人たちがどのように愛を交わしているのか、ネットで検索するなどして調べてみた。すると世間に流布している情報がかなり偏っていると分かった。とはいえ、落ち着かないことには変わりがなかった。大好きだった人を抱けなかったのは、相手の性別とは無関係な欠陥ではないのか。
いっそ逃げ出したいくらいなのに、きれいな子が来るといいなと思うあたり、暁斗は自己矛盾に陥っていた。蓉子はとあるK-POPグループのファンで、彼女が借りてくるDVDを一緒に観るうち、暁斗は日本のアイドルよりも歌も踊りも上手で、愛想の良い彼らに好感を抱くようになった。彼らを皆きれいだと感じた。今も彼らの活躍がちょっと気になり、ネットで検索したり、テレビのチャンネルをわざわざ合わせたりする。もしかするとこれも同性愛的視点なのかもしれないが、性欲を催させるものではない。
「桂山暁斗さんですか?」
不意に声をかけられ、暁斗ははい? と言って顔を上げた。そこに立っていたのは、若い男の子――男の子、という表現がぴったりの男性だった。暁斗はぎくりとなり、固まった。
「はじめまして、本日はお世話になります」
彼は折り目正しく頭を下げて挨拶した。……学生なのか! 寒さに頰を赤らめた男性を見て、暁斗は愕然とした。犯罪ではないのか、いや、大学生なら違う。
「座っていいですか?」
言葉が出ない暁斗にちょっと笑いかけながら、彼は言った。どうぞ、と答えるのが精一杯だった。
「かなとです、よろしくお願いします」
男の子は肩にかけていたバッグから茶色の革の名刺入れを出して、その中の一枚を暁斗の前に差し出した。例の薄青の名刺。真ん中に「かなと」とだけ書かれている。
「こちらこそよろしくお願いします、桂山です」
暁斗は自分でもわかるくらいどきまぎしながら、自分も名刺を出す。かなとは細くて長い指で大事そうにそれを受け取り、唇に笑みを浮かべて小さな紙片の上に視線を落とした。
きれいな子だ。眼が覚めるようではないが、美形と言える。顔のひとつひとつのパーツが美しい。とくにちょっと切れ上がった眉と、長い睫毛に縁取られた大きめの目。胸に湧いたのは明らかに好感だったが、彼をそういう相手として値踏みしたことに暁斗は自己嫌悪を覚えた。
「綾乃さんから少し話は伺っています」
かなとはさらりと切り出した。
「桂山さんのご意向に沿うように運ばせていただきますから安心なさってくださいね」
かなとはまるで新規ビジネスのやり取りのように、あるいは手術の前に患者に語りかける執刀医のように、優しくきっぱりと言った。子どもっぽい容姿にちょっと似合わない口調も、何か好ましかった。
「あ……はい」
暁斗のぼんやりとした返事にちょっと笑って、かなとは行きましょうか、と立ち上がる。暁斗はついていくしかない。
かなとはカフェを出てすぐの傍の通りに入り、慣れた歩調で奥に進んだ。そして、看板ひとつ出ていないけれど、宿泊施設とわかる建物の前で止まり、暁斗を振り返った。
「このホテルには入り口が3ヶ所あって」
かなとは道の先を指差した。
「誰かに僕と一緒に入るのを見られたら困るということでしたら、あそこを右に曲がってすぐの自動ドアから入ってください……中で合流できます」
池袋のこんな裏道で誰にも会わないとは思ったが、言われた通りに動いた。道を右に折れて、頰に冷たい風を受けると、まだ引き返せると不意に思った。
しかし暁斗は自動ドアの中に入ってしまった。あの子ともっと話したい。神崎は話すだけでもいいと言った。誰かと積極的に話したい、相手のことを知りたいと思うのは久しぶりだった。暖房の風にほっとしながらゆっくり足を運んで、その先にかなとが待っているのを視界に入れる。
「どの部屋がいいですか?」
かなとの視線の先を追うと、確かにそこはラブホテルのフロントに他ならなかった。任せます、と仕事の時には滅多に口にしない言葉を吐き、暁斗は呆然と部屋の写真の並ぶパネルを見つめた。
「じゃあ安くて普通のとこにしますよ」
かなとは鍵を受け取り、暁斗の背中を押して廊下を進んだ。彼の手の感触を、コート越しなのにやけに意識する。笑いを含んだ声が背後から聞こえた。
「そんなに緊張しないでください、僕まで緊張します」
「あなたは……学生さん?」
暁斗はずっと気になっていたことをやっと訊いた。部屋の扉を開けながら、違います、とかなとは答えた。
「僕は27です、まあいつも子どもっぽく見られるんですけど」
それでも俺より10も下なのか。暁斗は促されるままに、かなとに鞄と紙袋を渡し、コートを脱いでソファに腰を下ろした。かなとはさりげなく暁斗のコートをソファの背から取り上げ、ハンガーに掛けながら、今度は少し心配そうな声色になった。
「大丈夫ですか? やめても構わないですよ、今の気持ちが聞きたいです……嫌ですか?」
「嫌じゃないです、その……あなたと少し話がしてみたい……んだけれど……」
人に思いを伝えるのは、何て大変な作業なのだろう。ベッドがやたらに大きい以外は、ビジネスホテルのような設えの部屋に目を遣り、目の前の「実質ナンバーワンスタッフ」に視線を戻す。黒いコートを脱いだ彼は、その中も黒のニットにグレーのパンツという、随分明度の低いいでたちだった。
「桂山さんは男性が好きだって自覚があまり無いんですか?」
かなとは訊いてきた。
「あなたは男性が好きだからこの仕事をしているんですか?」
かなとは暁斗の問いに、唇を尖らせた。
「質問返しとかダメですよ」
「あ、ごめんなさい」
かなとはふふっと笑って、小首を傾げる。可愛らしいな、と思う。
「えーっと……高校生になる頃には男性が好きだって自覚がありました」
「今この仕事のことも含めて周りに隠してるの?」
かなとは暁斗の目をまっすぐ見据えてきた。力のある瞳だ。きっと見かけに似合わず気が強いに違いない、と暁斗は思った。
「基本的にはそうです」
「……きついですよね?」
かなとはうーん、と上に視線をやった。真面目に考えてくれている。
「嫌な思いはいろいろしています、でも仕方ないでしょう? それに男性が好きな男性も女性が好きな女性もたくさんいます、一人じゃないと思っています」
かなとの言葉は易しくて的確だった。
「それがわかるからこの仕事をしているのかも知れないです」
奏人は微笑む。暁斗は目の前の男の子に対して、ひどく申し訳ない気持ちになった。興味半分で問いかけて、彼の指向や仕事への真摯な姿勢を茶化してしまったような気がしたのだ。
「……私は自分が同性愛者だとしたら……それを認めるのが怖い」
暁斗の呟きに、かなとははい、と応じた。
「認めたとしても……周りに知られたらどうなるのだろうと不安になります」
かなとはなるほど、と言った。
「でも周りにバレたとして……何か失いますか? 今は性的指向を理由に仕事を辞めさせたり……その人を貶めるような態度を取ったりしたほうが非難されます」
「でもあなたも基本的には黙っているんでしょう? 何故?」
「まだ大っぴらにできないのは確かです、奇異な目で見てくる人も多いし」
俺はクソだ、こんな若い子に答えを求めたりして。暁斗はかなとの静かな表情を見て、自分の馬鹿さ加減に泣きそうになった。
「じゃあまず確かめましょうか、未確定の出来事に不安を抱くのは時間の浪費です」
かなとは明るく言って立ち上がり、暁斗の腕を引いて浴室に向かった。彼が扉を開けると、やはりそこは紛うことなくラブホテルで、やたらに広いガラス張りの浴場が目に飛び込んできた。引き返せないところにまで来たことを悟り、暁斗は愕然とした。
今日は昼から部署内の掃除をしていたから良かったものの、一日中かなり上の空だった。約束の時間まで少し余裕があったので、暁斗は指定された池袋駅まで山手線でのんびりと向かい、本屋で年末年始に読むものを物色した。独りに戻ったからといって、実家に帰る気にはなれない。嫁に逃げられた息子が家に居ても、両親とて面白くないだろうと思う。
暁斗は本をしっかり吟味できなかった。これから起こることを思うと、意識がそちらにばかり向かったからだ。結果的に適当に選んだ本の入った紙袋を片手に、やたらに早足で駅西口近くのファストなカフェに向かったのは、冷えてきた空気に追い立てられたせいだけではなかった。コーヒーだけを頼んで、これも指示通り窓際に席を取り、常に丁寧な神崎が30分前にもメールを寄越したのをそわそわと確認する。予定通りスタッフが参ります、どうぞお楽しみください――。
楽しめるものなのか? 暁斗はこの1週間、ゲイの人たちがどのように愛を交わしているのか、ネットで検索するなどして調べてみた。すると世間に流布している情報がかなり偏っていると分かった。とはいえ、落ち着かないことには変わりがなかった。大好きだった人を抱けなかったのは、相手の性別とは無関係な欠陥ではないのか。
いっそ逃げ出したいくらいなのに、きれいな子が来るといいなと思うあたり、暁斗は自己矛盾に陥っていた。蓉子はとあるK-POPグループのファンで、彼女が借りてくるDVDを一緒に観るうち、暁斗は日本のアイドルよりも歌も踊りも上手で、愛想の良い彼らに好感を抱くようになった。彼らを皆きれいだと感じた。今も彼らの活躍がちょっと気になり、ネットで検索したり、テレビのチャンネルをわざわざ合わせたりする。もしかするとこれも同性愛的視点なのかもしれないが、性欲を催させるものではない。
「桂山暁斗さんですか?」
不意に声をかけられ、暁斗ははい? と言って顔を上げた。そこに立っていたのは、若い男の子――男の子、という表現がぴったりの男性だった。暁斗はぎくりとなり、固まった。
「はじめまして、本日はお世話になります」
彼は折り目正しく頭を下げて挨拶した。……学生なのか! 寒さに頰を赤らめた男性を見て、暁斗は愕然とした。犯罪ではないのか、いや、大学生なら違う。
「座っていいですか?」
言葉が出ない暁斗にちょっと笑いかけながら、彼は言った。どうぞ、と答えるのが精一杯だった。
「かなとです、よろしくお願いします」
男の子は肩にかけていたバッグから茶色の革の名刺入れを出して、その中の一枚を暁斗の前に差し出した。例の薄青の名刺。真ん中に「かなと」とだけ書かれている。
「こちらこそよろしくお願いします、桂山です」
暁斗は自分でもわかるくらいどきまぎしながら、自分も名刺を出す。かなとは細くて長い指で大事そうにそれを受け取り、唇に笑みを浮かべて小さな紙片の上に視線を落とした。
きれいな子だ。眼が覚めるようではないが、美形と言える。顔のひとつひとつのパーツが美しい。とくにちょっと切れ上がった眉と、長い睫毛に縁取られた大きめの目。胸に湧いたのは明らかに好感だったが、彼をそういう相手として値踏みしたことに暁斗は自己嫌悪を覚えた。
「綾乃さんから少し話は伺っています」
かなとはさらりと切り出した。
「桂山さんのご意向に沿うように運ばせていただきますから安心なさってくださいね」
かなとはまるで新規ビジネスのやり取りのように、あるいは手術の前に患者に語りかける執刀医のように、優しくきっぱりと言った。子どもっぽい容姿にちょっと似合わない口調も、何か好ましかった。
「あ……はい」
暁斗のぼんやりとした返事にちょっと笑って、かなとは行きましょうか、と立ち上がる。暁斗はついていくしかない。
かなとはカフェを出てすぐの傍の通りに入り、慣れた歩調で奥に進んだ。そして、看板ひとつ出ていないけれど、宿泊施設とわかる建物の前で止まり、暁斗を振り返った。
「このホテルには入り口が3ヶ所あって」
かなとは道の先を指差した。
「誰かに僕と一緒に入るのを見られたら困るということでしたら、あそこを右に曲がってすぐの自動ドアから入ってください……中で合流できます」
池袋のこんな裏道で誰にも会わないとは思ったが、言われた通りに動いた。道を右に折れて、頰に冷たい風を受けると、まだ引き返せると不意に思った。
しかし暁斗は自動ドアの中に入ってしまった。あの子ともっと話したい。神崎は話すだけでもいいと言った。誰かと積極的に話したい、相手のことを知りたいと思うのは久しぶりだった。暖房の風にほっとしながらゆっくり足を運んで、その先にかなとが待っているのを視界に入れる。
「どの部屋がいいですか?」
かなとの視線の先を追うと、確かにそこはラブホテルのフロントに他ならなかった。任せます、と仕事の時には滅多に口にしない言葉を吐き、暁斗は呆然と部屋の写真の並ぶパネルを見つめた。
「じゃあ安くて普通のとこにしますよ」
かなとは鍵を受け取り、暁斗の背中を押して廊下を進んだ。彼の手の感触を、コート越しなのにやけに意識する。笑いを含んだ声が背後から聞こえた。
「そんなに緊張しないでください、僕まで緊張します」
「あなたは……学生さん?」
暁斗はずっと気になっていたことをやっと訊いた。部屋の扉を開けながら、違います、とかなとは答えた。
「僕は27です、まあいつも子どもっぽく見られるんですけど」
それでも俺より10も下なのか。暁斗は促されるままに、かなとに鞄と紙袋を渡し、コートを脱いでソファに腰を下ろした。かなとはさりげなく暁斗のコートをソファの背から取り上げ、ハンガーに掛けながら、今度は少し心配そうな声色になった。
「大丈夫ですか? やめても構わないですよ、今の気持ちが聞きたいです……嫌ですか?」
「嫌じゃないです、その……あなたと少し話がしてみたい……んだけれど……」
人に思いを伝えるのは、何て大変な作業なのだろう。ベッドがやたらに大きい以外は、ビジネスホテルのような設えの部屋に目を遣り、目の前の「実質ナンバーワンスタッフ」に視線を戻す。黒いコートを脱いだ彼は、その中も黒のニットにグレーのパンツという、随分明度の低いいでたちだった。
「桂山さんは男性が好きだって自覚があまり無いんですか?」
かなとは訊いてきた。
「あなたは男性が好きだからこの仕事をしているんですか?」
かなとは暁斗の問いに、唇を尖らせた。
「質問返しとかダメですよ」
「あ、ごめんなさい」
かなとはふふっと笑って、小首を傾げる。可愛らしいな、と思う。
「えーっと……高校生になる頃には男性が好きだって自覚がありました」
「今この仕事のことも含めて周りに隠してるの?」
かなとは暁斗の目をまっすぐ見据えてきた。力のある瞳だ。きっと見かけに似合わず気が強いに違いない、と暁斗は思った。
「基本的にはそうです」
「……きついですよね?」
かなとはうーん、と上に視線をやった。真面目に考えてくれている。
「嫌な思いはいろいろしています、でも仕方ないでしょう? それに男性が好きな男性も女性が好きな女性もたくさんいます、一人じゃないと思っています」
かなとの言葉は易しくて的確だった。
「それがわかるからこの仕事をしているのかも知れないです」
奏人は微笑む。暁斗は目の前の男の子に対して、ひどく申し訳ない気持ちになった。興味半分で問いかけて、彼の指向や仕事への真摯な姿勢を茶化してしまったような気がしたのだ。
「……私は自分が同性愛者だとしたら……それを認めるのが怖い」
暁斗の呟きに、かなとははい、と応じた。
「認めたとしても……周りに知られたらどうなるのだろうと不安になります」
かなとはなるほど、と言った。
「でも周りにバレたとして……何か失いますか? 今は性的指向を理由に仕事を辞めさせたり……その人を貶めるような態度を取ったりしたほうが非難されます」
「でもあなたも基本的には黙っているんでしょう? 何故?」
「まだ大っぴらにできないのは確かです、奇異な目で見てくる人も多いし」
俺はクソだ、こんな若い子に答えを求めたりして。暁斗はかなとの静かな表情を見て、自分の馬鹿さ加減に泣きそうになった。
「じゃあまず確かめましょうか、未確定の出来事に不安を抱くのは時間の浪費です」
かなとは明るく言って立ち上がり、暁斗の腕を引いて浴室に向かった。彼が扉を開けると、やはりそこは紛うことなくラブホテルで、やたらに広いガラス張りの浴場が目に飛び込んできた。引き返せないところにまで来たことを悟り、暁斗は愕然とした。
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