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12月 1

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――あなたは私に興味が無いんでしょう?

 そう言い放った蓉子の声が脳裏に蘇る。知り合った頃を含めた12年間に、見たことの無い表情をしていた。何故彼女はこんな哀しい顔をしているのだろう? きみはいつも俺の自慢だった。尊敬し、愛情を持って接してきた……つもりだったのに。

 桂山かやま暁斗あきとは社員食堂の窓から、見るともなしにビルの群れを視界に入れていた。冬の晴れた空がやけに清々しい。今日で離婚届を出して丸5年、蓉子と夫婦として過ごした日々と同じだけの時間が経ったことになる。
 5年間独りで過ごしてみて、やっとわかったことがある。妻の「興味が無い」という言葉が、ある意味真実だったことだ。暁斗は蓉子を、学生時代から好ましく思っていた。ゼミの一学年下の後輩。聡明で、気が利いて、振り返るほどの美形ではないが、笑顔が華やかで、名前の通りほころび始めた芙蓉を連想させた。交際を始めたのはお互い社会人になってからだった。結婚しても、新鮮味が衰えない関係だったと思う。一緒に何処に行っても、何をしても楽しかった……ただ一つ、セックスを除いては。

 昨年の春、学生時代に籍を置いていたテニス部の同期数人としこたま飲んだ。参加したのが男ばかりだったこともあり、離婚の原因を振られた暁斗は酔って口を滑らせた。

「たぶん全然……しなかったから」

 暁斗が独り身になって少々経つということもあり、皆が遠慮なくその言葉に反応した。

「何それ、合わなかったってこと?」
「合わないってわからないんだけどー」
「おまえの仕事キツいんだよなぁ、嫁さんその辺理解してやってほしかった~」
「蓉子さん寂しかったんだ、やっぱいくら疲れててもレスは可哀想だよ」
「てか俺レスとかありえん、結婚って好きな女とやりたい放題する免罪符じゃん」

 好き勝手な言葉が飛び交う。

「おまえ2回生の頃付き合ってた女とも……合コンで知り合った子だよ、同じ理由で別れたんじゃなかった?」

 そうなの? という声が覆いかぶさる。暁斗は振られたと認識しているが、桂山くんがキス以上してくれないとその子が言っていたと、随分後になって聞かされ、驚いた。

「あはは、実は女に興味無かったりして!」

 暁斗は密かにぎくりとなった。女そのものに興味が無い。高校生の時くらいから、心の何処かに引っかかっていなかったか。みんな女の裸がどうしてそんなに好きなのだろう?
 男性が持たない膨らみや窪みを持つ女性のからだは美しい、と暁斗は思う。蓉子も均整の取れたからだの持ち主で、服を着ていてもそうでなくても、時に見惚みとれた。でもそれは、造形美に対する感想だ。美しい風景に感動するのに似ていて、性欲を催させるものではなかった。妻がそろりと寝間着を脱いで自分のベッドに滑り込んでくる時、暁斗は素直に嬉しくなってその美しいものを抱きしめる。でもそれ以上気持ちが動かないので、愛撫を求められて困惑し、勃起しないことに焦った。夫婦生活への義務感は2年も経つとじわりと苦痛に変わり始めた。仕事の疲れを理由に拒み、寝てしまったふりをするのが当たり前になった。

「何かとにかく面倒臭くて……おまえらそんなことないの? 俺だけ?」

 やや酔いが醒めたのを自覚しながら、暁斗は笑いを取る方向に話を誘導する。おまえだけだよ、もう枯れてんのかよと場は大いに盛り上がった。



「お邪魔っ」

 山中やまなか穂積ほづみが正面にがちゃりと音を立てて盆を置いた。お疲れ様です、と暁斗は気の無い対応をして、これはやり過ぎだと反省し、きちんと彼のほうに向き直った。
 山中は同じ大学の3年上の先輩だ。暁斗はこの男と就職活動の職場訪問以来の付き合いだが、はっきり言って好きなタイプではない。

「相変わらず疲れてんなぁ、バリバリ外回りしてた頃のほうが魅力的だったぞ」

 山中は暁斗を覗きこみながら軽口を叩く。企画畑のホープ、容姿も悪くなく、ややチャラいが人当たりは悪くない。女にもてるはずが未だ独身なのは、彼が同性愛者だからだ。

「山中さんにとって魅力的でなくてもいいですから」
「冷たいぞ、……あっ胡椒振るの忘れた」

 山中はこれまたがちゃりと手帳やスマートフォン、それに名刺入れを置き、ラーメンのどんぶりを片手に厨房に向かって歩いて行く。銀の華奢な名刺入れから、ざらりと小さな紙が滑り出した。だらしないなと思いつつ、暁斗はトランプのように並んだ名刺たちに目をやる。
 愛想の無い白い名刺たちの中に、薄青い色が見えた。暁斗の指がその名刺を引っぱり出す。随分洒落た名刺なので、何処の会社かと思ったのである。

「……何だこれ」

 思わず呟いた。左上に筆記体でDiletto e Martirとあり、ど真ん中に「たかふみ」、下部の右寄りに03と090から始まる二つの電話番号と、二つのメールアドレス。住所はない。入社以来営業課で働き続けている暁斗には、まともな会社のまともな名刺でないことはすぐに理解できた。

「興味あるのか、それ?」

 頭の上から声が降ってきて、暁斗は顔を跳ね上げた。すみません、と咄嗟とっさに口から出た。

「何の名刺だと思う?」

 山中はにやにやしながらどんぶりをテーブルに置き、暁斗の前に座った。

「……行きつけのゲイバーの、ってとこですかね?」

 答えながら胸の中がざわざわするのを自覚した。ゲイであることをカムアウトしているこの男と自分は、もしかして同類、同類とまで行かなくとも、似ているのではないかと、ここしばらく考えてきたからだ。

「もっと刺激的なやつだ、紹介してやるぞ」
「刺激的?」

 暁斗はどうでもいい口調を装って尋ねたが、耳が勝手にそばだっていた。山中はひと口ラーメンをすすってから、囁き声で答えた。

「デリヘルだよ、かわいい男の子が来てくれる」

 暁斗は渋面を隠しきれなくなった。だからこいつは嫌なんだ、と思う。山中がゲイで、それを隠し立てせず堂々と生きているのは構わない。嫌だと思うどころか、感心さえする。しかし男を金で買い、それを自慢気に語るのはどうなのか。そう、同性愛者であることを珍しいアクセサリーであるかのようにひけらかす、露悪的なこの態度がかんさわるのだ。

「ふうん、楽しそうで何よりですね」
「まあな、結構金を取るだけあっていい子が来るんだけど……一見さんお断りできちんとした紹介者がいないと会員になれない」

 大きな会社の経営者や政治家も会員にいる、とでも言いたいのだろうか。くだらないマウンティングに暁斗はうんざりしながら、自分の盆に手をかけた。

「桂山のおかげでクリスマスはたかふみと楽しく過ごせそうだしな、感謝してるぞ」
「俺のおかげ?」

 山中の言葉に腰を浮かせてとどまった。山中はラーメンを口に入れ、飲み下してから言った。

「おまえが仕事取ってきた人のうちの一人が俺をここに繋いでくれたんだ」
「……誰ですか?」
「あちらさんはカミングアウトしてないから教えてやれない」

 山中はもう笑っていなかった。暁斗はそうですか、と平静を装って席を立った。



 その日の午後、あまり急ぎの仕事が無かったせいか、暁斗の頭の中には山中の名刺の画像がちらついて仕方がなかった。18時になると、営業1課の部屋から、一人二人と社員が消えていく。業務に師走の慌ただしさはあるものの、クリスマスや正月を目前に控えて、何となく社内にもうきうきした空気感があった。
 クリスマスをたかふみと。……呑気なもんだ、年明けに大きなプロジェクトを抱えてるくせに。暁斗は舌打ちしそうになりながら、お先です、と声をかけてきた宇野にお疲れ、と返す。
 壁にかかる時計を見ていると、互いに仕事が終わってから待ち合わせ、ほとんど言葉を交わさずに、蓉子と区役所に離婚届を提出しに行ったことが、何故か鮮明に思い出された。

「課長、雑用残ってるなら片づけておきますよ」

 営業事務の藤江に言われて、我に返った。自分がこんな時期に会社でぐずぐずしていると、部下の様々な楽しみを奪うことになる。

「何もないよ、もう帰る……忘年会の場所は決まった? よそと合同でなくていい?」
「店は絞り込んでます、1課だけでやろうかって僕たちは話してますけど良かったですか?」
「うん、じゃそれでいい」

 話が終わると、暁斗は帰宅の準備を始めた。残業している部下たちに挨拶し、トイレに寄ると、あの青い名刺に書かれていた電話番号が何故か頭に浮かんだ。仕事柄、暁斗は名刺に書かれた情報を取り込むのが早い。電話番号は、一番に記憶に刷り込まれる。
 ……何を考えてる⁉︎ 暁斗はスマートフォンを無意識に取り出した自分に激しく動揺し、小走りでエレベーターホールに向かった。しかし、電話をしてみたい衝動が収まらない。違う、とエレベーターの中で首を振る。確かめたいのだ、自分が「普通」でないのかどうかを……蓉子を当たり前に愛せなかったのが何故なのかを。
 社のビルを出ると、暁斗は入口から離れて足を止めた。ゆっくりとスマートフォンを鞄から取り出し、若い頃に初めての会社に連絡を取った時のように、ひと呼吸置いてキーパッドを表示する。指が微かに震えた。そんな自分が滑稽で思わず小さく笑うと、覚悟ができた。まだ、間違えましたと言い訳をする時間はある。

「はい、ディレット・マルティールです」

 2回のコールで聴こえたのは、落ち着いた女の声だった。いささか暁斗は拍子抜けした。

「こんな時間に失礼します、……私、株式会社エリカワ営業課の桂山と申します」

 高級(らしい)会員制のクラブやら何やらを先方が気取っている以上、きちんと名乗るほうが良いと判断した。

「かやま様ですね、ありがとうございます、どなたかからこちらについてお聞きになったのですか?」

 女は慣れた、しかし丁寧な話し方をした。それが暁斗の緊張をわずかに解く。うちの会社のオペレーターで、これだけ見事に話せる者がどれくらいいるだろうと思いながら、山中穂積の名を出す。

「山中様にはいつも贔屓にしていただいております、かやま様とも末永くお付き合いさせていただけますと幸いでございます」

 女の声に朗らかな笑いが混じったのを聞いて、暁斗は苦笑した。いつも贔屓、ね。

「ではまずわが社の利用システムをご説明したいのですが、メールをお送りいたしましょうか?」

 女があまりに滑らかで心地よく話すため、暁斗はどういう会社に電話をしていたのかを忘れそうになっていた。途端にしどろもどろになった。

「あっ、いえ、その……まだ使うかどうか……何というのか、迷っていまして、そもそも私に、あの……使う資格があるのかどうかがわかりませんので……」

 まるで新入社員の電話応対だった。暁斗は電話を切りたくなったが、女はなるほど、とやんわり返してきてくれた。

「かやま様、今どちらに? 会社でしたら東京駅近くですよね?」

 女の言葉にはい、と答える。

「もしご都合がよろしければ……わたくしが東京に参るか、あるいはかやま様が大崎までお越しいただけませんか? わたくしお話を伺いたく思います」

 女の大胆な提案に一瞬失語した。2秒後、暁斗は答えた。

「……承知しました、私が今からそちらへ参ります」

 どうにでもなれと思った。電話を切ると、その場にしゃがみこんでしまいそうになった。頭を振ってから、暁斗は駅に向かう。約束した以上、相手を待たせる訳にはいかない。心臓がばくばくして、息が上がった。

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