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ぬいぐるみ医師の思うこと
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てきぱきと商品を運び清算した住野という店員は、動きにも話し方にも無駄が無かった。最初はそのことに軽い好感を覚えただけだったが、受付周辺に飾られた、退院した患者たちの写真を見つめる彼女の横顔を見て、「もものかいぬし」ではないかと閃いた。ニュートラルブラウンの豊かな髪や白い頬は、確かに千種の目と記憶に刻まれたものに似ている。
いやしかし、あまりに雰囲気が違い過ぎないか? 父の仕事の影響か、千種は女性が髪型やメイク、あるいは小物を変えても見間違えることはあまり無い。やたらともやもやしたので、賭けに出た。再び公園で「もものかいぬし」こと住野亜希を見かけて、強引に捕まえた。彼女はしぶしぶついて来たが、制服を身につけている時とは違い、捕獲された小動物のように千種を警戒し、ももちゃんを触らせたくない素振りさえ見せた。そんな彼女に、千種は不覚にも、心の何処かを齧り取られてしまったのである。
それが所謂ギャップ萌えという現象らしいと千種は気づき、1人で失笑せざるを得ない。30に手が届くまでに、恋愛や交際はそこそこ経験した。もっとあのひとのことを知りたいと思う感情が、どういう種類のものなのか知らない訳がないのだが、今更という感が強い。
続けて事件が起きた。珍しくシフト通りにすぐに上がれたあの夜、千種は駐車場の前で、ハッピーストアの車が停まっていると気づいた。住野さんが乗っていたらいいなとぼんやり思っていたら、本当に運転席に、彼女はいた。しかも、あり得ない状況で。
自分でもよく亜希を助けられたと思う。無我夢中だったので、実はあの時のことをところどころよく覚えていないのだが、千種は彼女の信頼を一気に得ることに成功してしまった。
メッセージのやり取りを日々するようになり、千種は亜希にやや極端な二面性があることを確信した。不埒者に襲われた後でも、上司に状況を声も震わせずに説明する(身体は震えていたが)気の強さや怜悧さと、ぬいぐるみを手放せない幼稚さや頼りなさ。どちらかが演技だという訳ではない。そのことが、彼女自身の首をじわりと締め上げ、息苦しくさせているように千種には思える。
亜希はきっと、周囲の人間に片方の顔しか見せていない。千種は彼女の両方の顔を知ることになった上に、どうも信用されているらしいので心弾ませているが、この先どうする、という場所に来ていた。
亜希はガードが堅く、千種に向けている好意の種類がまだよくわからないので、下手に動きたくなかった。だから代ぬいぐるみを見つけられない対応策に、変な提案をしてしまったと若干後悔しているのだが、心から出た言葉だったし、千種も今はねちねちした関係を求めていない。ただもう少しだけ、彼女と距離を詰めたいと考えているだけである。そしてそうすることで、もっとたくさんの彼女の顔を見てみたい。
「……難しいなぁ」
つい千種は、キーボードを叩く手を止めひとりごちた。横で院長の羽間が、ルーペをかけた顔をこちらに向けた。彼はその手に一昨日届いたテディベアと鋏を持ち、さっきから背中の縫い目を慎重に解いている。
「どうした、ももちゃんのことか?」
「あ、あの子の治療方針はもう大体纏まりました、明日配ります」
「じゃあ大阪行きか? 今月は本院でいきなり無茶振りされるようなことは無いと思うけどな」
「大阪は……俺も大丈夫だと思います」
羽間は、ん? と小首を傾げた。千種は基本的に、この人には公私共々隠し事が上手くできないのだが、今はあまり亜希の話はしたくない。
「いや、住野さんに好みの代ぬいを用意してあげられなかった……ことが気になってます、かね」
千種が答えると、羽間は笑った。
「構わないとおっしゃったんだろう?」
「ま、そうなんですけど」
ごまかしながら応じた。千種が亜希に提案した内容を羽間が知ったら、叱られ呆れられるだろう。
千種もパソコンの画面に視線を戻す。ももちゃんの修理スケジュール兼カルテを、仕上げてしまうつもりだった。特別なひとの大切な子を任せてもらえるという、快い緊張感がある。大西さんを信じているという亜希の嬉しい言葉に、必ず応えたかった。
いやしかし、あまりに雰囲気が違い過ぎないか? 父の仕事の影響か、千種は女性が髪型やメイク、あるいは小物を変えても見間違えることはあまり無い。やたらともやもやしたので、賭けに出た。再び公園で「もものかいぬし」こと住野亜希を見かけて、強引に捕まえた。彼女はしぶしぶついて来たが、制服を身につけている時とは違い、捕獲された小動物のように千種を警戒し、ももちゃんを触らせたくない素振りさえ見せた。そんな彼女に、千種は不覚にも、心の何処かを齧り取られてしまったのである。
それが所謂ギャップ萌えという現象らしいと千種は気づき、1人で失笑せざるを得ない。30に手が届くまでに、恋愛や交際はそこそこ経験した。もっとあのひとのことを知りたいと思う感情が、どういう種類のものなのか知らない訳がないのだが、今更という感が強い。
続けて事件が起きた。珍しくシフト通りにすぐに上がれたあの夜、千種は駐車場の前で、ハッピーストアの車が停まっていると気づいた。住野さんが乗っていたらいいなとぼんやり思っていたら、本当に運転席に、彼女はいた。しかも、あり得ない状況で。
自分でもよく亜希を助けられたと思う。無我夢中だったので、実はあの時のことをところどころよく覚えていないのだが、千種は彼女の信頼を一気に得ることに成功してしまった。
メッセージのやり取りを日々するようになり、千種は亜希にやや極端な二面性があることを確信した。不埒者に襲われた後でも、上司に状況を声も震わせずに説明する(身体は震えていたが)気の強さや怜悧さと、ぬいぐるみを手放せない幼稚さや頼りなさ。どちらかが演技だという訳ではない。そのことが、彼女自身の首をじわりと締め上げ、息苦しくさせているように千種には思える。
亜希はきっと、周囲の人間に片方の顔しか見せていない。千種は彼女の両方の顔を知ることになった上に、どうも信用されているらしいので心弾ませているが、この先どうする、という場所に来ていた。
亜希はガードが堅く、千種に向けている好意の種類がまだよくわからないので、下手に動きたくなかった。だから代ぬいぐるみを見つけられない対応策に、変な提案をしてしまったと若干後悔しているのだが、心から出た言葉だったし、千種も今はねちねちした関係を求めていない。ただもう少しだけ、彼女と距離を詰めたいと考えているだけである。そしてそうすることで、もっとたくさんの彼女の顔を見てみたい。
「……難しいなぁ」
つい千種は、キーボードを叩く手を止めひとりごちた。横で院長の羽間が、ルーペをかけた顔をこちらに向けた。彼はその手に一昨日届いたテディベアと鋏を持ち、さっきから背中の縫い目を慎重に解いている。
「どうした、ももちゃんのことか?」
「あ、あの子の治療方針はもう大体纏まりました、明日配ります」
「じゃあ大阪行きか? 今月は本院でいきなり無茶振りされるようなことは無いと思うけどな」
「大阪は……俺も大丈夫だと思います」
羽間は、ん? と小首を傾げた。千種は基本的に、この人には公私共々隠し事が上手くできないのだが、今はあまり亜希の話はしたくない。
「いや、住野さんに好みの代ぬいを用意してあげられなかった……ことが気になってます、かね」
千種が答えると、羽間は笑った。
「構わないとおっしゃったんだろう?」
「ま、そうなんですけど」
ごまかしながら応じた。千種が亜希に提案した内容を羽間が知ったら、叱られ呆れられるだろう。
千種もパソコンの画面に視線を戻す。ももちゃんの修理スケジュール兼カルテを、仕上げてしまうつもりだった。特別なひとの大切な子を任せてもらえるという、快い緊張感がある。大西さんを信じているという亜希の嬉しい言葉に、必ず応えたかった。
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