22 / 109
女王は危機一髪で通りがかりの騎士に救われる
3
しおりを挟む
純度の高過ぎる恐怖で、亜希は一切身動きできなかった。男は再度口を開く。
「お金さえ出してくれたら、何もしないから」
亜希はぷるぷると首を振る。支払いが済んでいる配達だったので、現金は本当に一銭も持っていなかった。何かあれば、大概のことはスマートフォンのアプリで片がつくからだ。
「財布出せって言ってんだよ」
男が苛立ち始めた。肩に置かれた手に力が入り、亜希は震え上がる。殺されるのではないかという思いから息が上がり、苦しい。
誰か、来て。窓の外にぎくしゃくと視界を移すと、人が普通に歩いていた。誰も亜希の危機に気づいていない。助けを求めるのだ、扉を開けて、走って出たらいいだけだ。理性がそう叫んでいるのに、指一本も動かすことができなかった。
駐車場の前を通りかかった男性が、こちらに首を向けたのが見えた。車を見ているようだ。中の様子がおかしいと、察してくれているのだろうか。
亜希はひとつ息を吸い、キーを握ったままの右手を振り上げた。自分の身体なのに、こんなに思うように動かないものなのか。背後で男が身構えたのがわかる。相手が動く前に、そのまま窓に拳を打ちつけると、ごん、と重い音がした。
金縛りが解けたようだった。亜希は必死で窓を叩いた。やめろてめぇ、という声がして、振り上げた右手首を掴まれた。全身に鳥肌が立ったような気がした。
「ぎゃああっ! 離せっ! 離してっ!」
声が出ると身体が動く。亜希は左肩を男の手から引き剥がし、今度は左手で窓をばんばん叩いた。すると、車を見ていた男性が、こちらに向かって走り始めた。
「助けて! 助けて! お願い!」
早く来て! 亜希は夢中で叫んだ。黙れ! と男も叫び、亜希の口を手で塞ごうとしたが、思いきり首を振って拒絶した。
男性がやって来て、ドアを外から開けようとしていたが、開かない。焦った亜希は意味のわからない言葉を口から垂れ流しながら、何とか鍵を開ける。次の瞬間、ドアが勢いよく開き、男が亜希の右手首から手を離した。
絶対に逃げる! 亜希はその言葉だけを頭に浮かべ、運転席から文字通り転がり出た。
「住野さん!」
名前を呼んだのは、知っている声だった。後部座席の反対側のドアが開き、黒ずくめの男が慌てて出て来て、躓いて転ぶ。亜希の上半身を抱き止めた男性は、大声で道行く人に向かって叫ぶ。
「そいつ、捕まえてください! 車上荒らしですっ!」
人々は一瞬歩みを止め、よろよろと走り出す男に注目した。亜希を抱く男性はスマートフォンを出し、警察に電話をしようとしたが、再度叫んだ。
「捕まえてくれ! そいつ泥棒だ!」
男性が3人、道路から駐車場に駆け込んで来た。そして逃げようとする男に、一斉に飛びかかる。押さえ込まれた男はぎゃあぎゃあ言っていたが、そのうち大人しくなったようだった。
亜希はただただ呆然となり、からからに乾いて貼りついた喉からはひと言も出てこなかった。パトカーが来るまで、そう時間はかからなかった。
大西千種に肩を抱かれたまま、亜希は警察官の質問にぽつぽつと答えていたが、頭の中が動き始めると、店に連絡していないことに気づいた。
「すみません、店に……会社に連絡するの忘れてました、私配達中で」
「ああ、今電話なさってください、これ社用車ですよね?」
警察官に言われ、亜希は店に電話を入れた。面接を予定通り終えたのだろう、真庭が出てくれた。彼は亜希の説明に、電話口でええっ! と叫んだ。
「すっ、住野さん、怪我してないのか!」
「私は大丈夫です、今ちょっとおまわりさんが車の中を見てますけど、済んだら戻ります」
亜希は真庭に伝えるべきことを、混乱の収まりきらない脳内で整理する。
「阪口さんには時間になったら上がるよう言ってください、和田さんと木場さんには、滞りなく配達が済んだと」
「わかった、車は警察に任せて電車で帰って来たらいいじゃないか」
「駐車場塞いでるからフロイデハウスに迷惑かも……」
その時、肩を抱いていた手が軽く亜希を揺さぶった。思わず左側を見ると、大西が心配そうな目をしていた。亜希は彼に頷く。真庭も予想以上に心配してくれているので、しっかりしなくては。
「とにかく私は大丈夫です、犯人もその場で捕まりました、本社に報告しておいたほうがいいかもしれないです」
「わかった、車のことはほんとに気にしなくていいから」
通話を切って、ひとつ溜め息をつく。外で突っ立ったままで、随分寒いことにようやく気づく。
「お金さえ出してくれたら、何もしないから」
亜希はぷるぷると首を振る。支払いが済んでいる配達だったので、現金は本当に一銭も持っていなかった。何かあれば、大概のことはスマートフォンのアプリで片がつくからだ。
「財布出せって言ってんだよ」
男が苛立ち始めた。肩に置かれた手に力が入り、亜希は震え上がる。殺されるのではないかという思いから息が上がり、苦しい。
誰か、来て。窓の外にぎくしゃくと視界を移すと、人が普通に歩いていた。誰も亜希の危機に気づいていない。助けを求めるのだ、扉を開けて、走って出たらいいだけだ。理性がそう叫んでいるのに、指一本も動かすことができなかった。
駐車場の前を通りかかった男性が、こちらに首を向けたのが見えた。車を見ているようだ。中の様子がおかしいと、察してくれているのだろうか。
亜希はひとつ息を吸い、キーを握ったままの右手を振り上げた。自分の身体なのに、こんなに思うように動かないものなのか。背後で男が身構えたのがわかる。相手が動く前に、そのまま窓に拳を打ちつけると、ごん、と重い音がした。
金縛りが解けたようだった。亜希は必死で窓を叩いた。やめろてめぇ、という声がして、振り上げた右手首を掴まれた。全身に鳥肌が立ったような気がした。
「ぎゃああっ! 離せっ! 離してっ!」
声が出ると身体が動く。亜希は左肩を男の手から引き剥がし、今度は左手で窓をばんばん叩いた。すると、車を見ていた男性が、こちらに向かって走り始めた。
「助けて! 助けて! お願い!」
早く来て! 亜希は夢中で叫んだ。黙れ! と男も叫び、亜希の口を手で塞ごうとしたが、思いきり首を振って拒絶した。
男性がやって来て、ドアを外から開けようとしていたが、開かない。焦った亜希は意味のわからない言葉を口から垂れ流しながら、何とか鍵を開ける。次の瞬間、ドアが勢いよく開き、男が亜希の右手首から手を離した。
絶対に逃げる! 亜希はその言葉だけを頭に浮かべ、運転席から文字通り転がり出た。
「住野さん!」
名前を呼んだのは、知っている声だった。後部座席の反対側のドアが開き、黒ずくめの男が慌てて出て来て、躓いて転ぶ。亜希の上半身を抱き止めた男性は、大声で道行く人に向かって叫ぶ。
「そいつ、捕まえてください! 車上荒らしですっ!」
人々は一瞬歩みを止め、よろよろと走り出す男に注目した。亜希を抱く男性はスマートフォンを出し、警察に電話をしようとしたが、再度叫んだ。
「捕まえてくれ! そいつ泥棒だ!」
男性が3人、道路から駐車場に駆け込んで来た。そして逃げようとする男に、一斉に飛びかかる。押さえ込まれた男はぎゃあぎゃあ言っていたが、そのうち大人しくなったようだった。
亜希はただただ呆然となり、からからに乾いて貼りついた喉からはひと言も出てこなかった。パトカーが来るまで、そう時間はかからなかった。
大西千種に肩を抱かれたまま、亜希は警察官の質問にぽつぽつと答えていたが、頭の中が動き始めると、店に連絡していないことに気づいた。
「すみません、店に……会社に連絡するの忘れてました、私配達中で」
「ああ、今電話なさってください、これ社用車ですよね?」
警察官に言われ、亜希は店に電話を入れた。面接を予定通り終えたのだろう、真庭が出てくれた。彼は亜希の説明に、電話口でええっ! と叫んだ。
「すっ、住野さん、怪我してないのか!」
「私は大丈夫です、今ちょっとおまわりさんが車の中を見てますけど、済んだら戻ります」
亜希は真庭に伝えるべきことを、混乱の収まりきらない脳内で整理する。
「阪口さんには時間になったら上がるよう言ってください、和田さんと木場さんには、滞りなく配達が済んだと」
「わかった、車は警察に任せて電車で帰って来たらいいじゃないか」
「駐車場塞いでるからフロイデハウスに迷惑かも……」
その時、肩を抱いていた手が軽く亜希を揺さぶった。思わず左側を見ると、大西が心配そうな目をしていた。亜希は彼に頷く。真庭も予想以上に心配してくれているので、しっかりしなくては。
「とにかく私は大丈夫です、犯人もその場で捕まりました、本社に報告しておいたほうがいいかもしれないです」
「わかった、車のことはほんとに気にしなくていいから」
通話を切って、ひとつ溜め息をつく。外で突っ立ったままで、随分寒いことにようやく気づく。
11
あなたにおすすめの小説
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜
来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。
望んでいたわけじゃない。
けれど、逃げられなかった。
生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。
親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。
無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。
それでも――彼だけは違った。
優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。
形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。
これは束縛? それとも、本当の愛?
穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
『冷徹社長の秘書をしていたら、いつの間にか専属の妻に選ばれました』
鍛高譚
恋愛
秘書課に異動してきた相沢結衣は、
仕事一筋で冷徹と噂される社長・西園寺蓮の専属秘書を務めることになる。
厳しい指示、膨大な業務、容赦のない会議――
最初はただ必死に食らいつくだけの日々だった。
だが、誰よりも真剣に仕事と向き合う蓮の姿に触れるうち、
結衣は秘書としての誇りを胸に、確かな成長を遂げていく。
そして、蓮もまた陰で彼女を支える姿勢と誠実な仕事ぶりに心を動かされ、
次第に結衣は“ただの秘書”ではなく、唯一無二の存在になっていく。
同期の嫉妬による妨害、ライバル会社の不正、社内の疑惑。
数々の試練が二人を襲うが――
蓮は揺るがない意志で結衣を守り抜き、
結衣もまた社長としてではなく、一人の男性として蓮を信じ続けた。
そしてある夜、蓮がようやく口にした言葉は、
秘書と社長の関係を静かに越えていく。
「これからの人生も、そばで支えてほしい。」
それは、彼が初めて見せた弱さであり、
結衣だけに向けた真剣な想いだった。
秘書として。
一人の女性として。
結衣は蓮の差し伸べた未来を、涙と共に受け取る――。
仕事も恋も全力で駆け抜ける、
“冷徹社長×秘書”のじれ甘オフィスラブストーリー、ここに完結。
黒瀬部長は部下を溺愛したい
桐生桜
恋愛
イケメン上司の黒瀬部長は営業部のエース。
人にも自分にも厳しくちょっぴり怖い……けど!
好きな人にはとことん尽くして甘やかしたい、愛でたい……の溺愛体質。
部下である白石莉央はその溺愛を一心に受け、とことん愛される。
スパダリ鬼上司×新人OLのイチャラブストーリーを一話ショートに。
鬼隊長は元お隣女子には敵わない~猪はひよこを愛でる~
霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
「ひなちゃん。
俺と結婚、しよ?」
兄の結婚式で昔、お隣に住んでいた憧れのお兄ちゃん・猪狩に再会した雛乃。
昔話をしているうちに結婚を迫られ、冗談だと思ったものの。
それから猪狩の猛追撃が!?
相変わらず格好いい猪狩に次第に惹かれていく雛乃。
でも、彼のとある事情で結婚には踏み切れない。
そんな折り、雛乃の勤めている銀行で事件が……。
愛川雛乃 あいかわひなの 26
ごく普通の地方銀行員
某着せ替え人形のような見た目で可愛い
おかげで女性からは恨みを買いがちなのが悩み
真面目で努力家なのに、
なぜかよくない噂を立てられる苦労人
×
岡藤猪狩 おかふじいかり 36
警察官でSIT所属のエリート
泣く子も黙る突入部隊の鬼隊長
でも、雛乃には……?
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
腹黒上司が実は激甘だった件について。
あさの紅茶
恋愛
私の上司、坪内さん。
彼はヤバいです。
サラサラヘアに甘いマスクで笑った顔はまさに王子様。
まわりからキャーキャー言われてるけど、仕事中の彼は腹黒悪魔だよ。
本当に厳しいんだから。
ことごとく女子を振って泣かせてきたくせに、ここにきて何故か私のことを好きだと言う。
マジで?
意味不明なんだけど。
めっちゃ意地悪なのに、かいま見える優しさにいつしか胸がぎゅっとなってしまうようになった。
素直に甘えたいとさえ思った。
だけど、私はその想いに応えられないよ。
どうしたらいいかわからない…。
**********
この作品は、他のサイトにも掲載しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる