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身バレしないはずだった

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 亜希は方向転換して、先週撮影をおこなったのと同じ場所に向かった。このあたりは比較的人が少なく、いつも落ち着いているほうなので、亜希のお気に入りと言ってよかった。
 木のベンチに腰を下ろして、何か飲みたいな、と思った。コンビニのコーヒーを買って、ももちゃんにカップを持たせるのはどうだろうと、ふと閃く。辺りに人があまりいないことを確かめて、亜希はトートバッグからももちゃんを出し、空になった布のバッグと一緒に膝に乗せた。

「いい天気だねぇ、早くあったかくなるといいね」

 小さくひとりごちて、ゆっくり連れ立って歩く老夫婦や、ベビーカーを押しながら男の子の手を引く若い母親が通り過ぎるのを眺める。道が広いので、ぬいぐるみを膝に抱く30女には、誰も目もくれない。気楽なような寂しいような、少し複雑な気持ちにも、だいぶ慣れた。
 薄青い空を見上げてから、視界を目の高さに戻すと、左手から男性が1人で歩いてくるのが見えた。亜希の視力は悪くないので、それがぬくもりぬいぐるみ病院の大西であることを、すぐに察知した。
 うわっ、何でこんな時間に歩いてんのよ! 亜希は反射的に、ももちゃんをバッグに足から戻して立ち上がる。その間にも大西は近づいてきていて、医師の制服の上にダウンジャケットを羽織っているとわかった。
 亜希の足が右手に向かって6歩動いた途端、少し離れたところから背中に呼びかけられた。

「住野さん」

 亜希は震え上がり、脳内で普段活動していないシナプスまで騒ぎ出したのを自覚した。ちょっと、何でバレてんの⁉︎ 気づかれるはずない、髪の毛括ってないし眼鏡もしてないのに。
 足が勝手に動き、走り出す。住野さん、待って、と追い縋ってくる声に、一瞬絆されてしまいそうになるが、ハッピーストア鷺ノ宮店の住野だとバレる訳にはいかない。やけに心臓がどきどきした。いや、走って逃げてる時点でアウトのような気も……。
 足音が一気に近づいてきたと思った瞬間、肘を掴まれ身体が引っ張られた。体幹の弱い亜希はふらふらと後じさり、追って来た男に引き寄せられる。

「待ってください、住野さんですよね、何で逃げるんですか」

 ひええっ、あんたこそどうして追ってくるのよっ! 男の声が近くて、亜希は一気にパニック状態に陥った。

「違います、人違いです、離してください」

 予想に反して、肘を掴んでいた手が離れた。

「すみません、乱暴なことをして……人違いならほんとにすみません、えっと」

 亜希は戸惑う大西の声に、ちらっと首を後ろに向ける。マスクの上の涼やかな目と綺麗な額を確認して、亜希はふいと顔を背けた。

「……やっぱり住野さんじゃないですか、今日はお休みなんですね」
「あの、だから人違いですから」
「……じゃあ、もものかいぬしさん」

 言われて亜希は叫びそうになった。その場を離れようとしたが、今度は二の腕をぐっと掴まれる。その力の強さに、男の手だなぁと妙に冷静に考えた。

「鞄に入ってるの、ももさんですよね?」

 言われた亜希はひいぃ、と胸の中で怯えた声を上げた。何も悪いことしてないのに、何で職質されてんの私?

「あの、勘弁してください、そっとしておいてください」

 口から出たのは、暗い過去を隠す薄幸な女の台詞のような泣き言だった。大西は少し力を緩めたが、手を離そうとはしてくれない。

「これからコーヒー買って病院に戻るから、お時間あるなら一緒に来てください」

 亜希は再度、横目で大西の顔を窺う。彼はこれまで接して受けた印象と違って、やや強引に思えた。舐められているのだと思うと、途端に苛立ちが湧き上がる。

「……修理を頼みそうな上客を逃がしたくないってことですか」

 つい強めの言葉が口をついて出た。大西はえっ、と小さく言う。

「そんな風に感じられたなら申し訳ありません……メールや問診票を拝見して迷ってらっしゃるように感じました」
「迷ってたらどうだっていうんですか、お安くないんだから当たり前でしょう?」
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