月の砂漠のかぐや姫

くにん

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月の砂漠のかぐや姫 第319話

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 奴隷買い付け人は、自らは引き続き奴隷市場に目を光らせておくために西国に残ることにして、理亜とその母親は他の奴隷と一緒に月の民に戻る寒山の交易隊に託すことにしました。ただし、彼は理亜が特別な奴隷であることを、寒山や交易隊員には伝えませんでした。男が受けていた命令が、他言無用のものだったからです。その代わりに、彼は一通の書を記して封筒に収めると、それを閉じる蜜蝋に自分の印をしっかりと押し付けてから、「月の民で奴隷を受け取る男に、これを渡してください」という言葉と共に、寒山に渡したのでした。
 もしも、理亜が特別な理由で買い付けられた奴隷であることを、寒山が知らされていたとしたら! 彼女が風粟の病を発症したのは、もう交易隊が月の民の国内へ入った後のことでしたから、なんとしてでも彼女をその命令を下した男の元へ連れて行こうと、必死で努力したことでしょう。
 でも、彼はその事情を知らなかったのです。そのため、他の奴隷たちや交易隊員に風粟の病が広がることを恐れた寒山は、彼女をヤルダンの中へ置き去りにしてしまったのです。できるだけ多くの品物を無事に目的地に届け、それにより最大の利益を上げることを使命とする交易隊の隊長として、それは決して間違った判断ではありませんでした。しかし、知らずにしたこととは言え、特別な資質を持った女の子をヤルダンに放棄してしまったという事実は、後に彼の立場に大きな影響を及ぼすことになるのでした。

 さて、ヤルダンに残された理亜は、フラフラとさ迷い歩いた末に母を待つ少女の奇岩が立つ場所へ辿り着き、そこで砂漠では命と同じ価値があるとされる水を相手の足元へ注ぐという、月の巫女が執り行う儀式にも似た行為を行いました。そして、そもそもそれを行った理亜は、精霊と交流する力を持つ特別な者として、西国の奴隷市場で買われた少女でした。
 さらに、その行為が行われた場所と言えば、精霊や悪霊の力に満ちた場所として人々から恐れられているヤルダンの中でしたし、それが行われた時間と言えば、月の精霊が頭上から見守っている夜半でした。
 行為。人。場所。それに、時。
 月の巫女が儀式を執り行って精霊と交流し、人知を超えた不可思議な出来事を生じさせる際に必要なこれらの要素が、あの夜のヤルダンの深部では全て揃っていたのでした。そして、これらの要素はある切っ掛けによって動き出し、理亜へ、そして、母を待つ少女の奇岩へ働きかけて、不可思議な変化を与えたのでした。
 では、その切っ掛けとは何だったのでしょうか。
「あなたは、母さんを捜しているの?」
 これは、ヤルダンの広場に迷い込んだ理亜が初めて聞いた、母を待つ少女の言葉です。
 古くから伝わる物語によると、熱病に罹っていまにも死んでしまいそうな娘を助けるために、幻と言われる薬草を捜し求めて彼女の母親が長い旅に出ます。幸運にも娘の病気はその薬草の助けを借りることなく癒えるのですが、当然のことながら旅に出た母親はそれを知ることはありません。病み上がりの娘がいつまで待っても、母親は帰って来ません。娘は自分の為に当てもない旅に出た母親を想い、毎日村の外に立って彼女を待ち続けます。そのような日々がどれだけ過ぎた後かはわかりませんが、ある時、どこからか飛んできた精霊の力が娘に働きかけ、彼女は砂岩の像と化してしまいます。
 ところで、昔話は口伝えされるものですから、その詳細は語り手によって少しずつ異なります。ほとんどの物語では、彼女が砂岩の像と化してしまったことについて、簡単に「精霊の力によって」としか説明がされないのですが、ある語り手が語る物語では、その理由にも触れられています。その物語では、母親が精霊の力を秘めた薬草をついに見つけ出した時に、「これを届けるまであの娘が死んでしまわないように。私が帰るのを待っていてくれるように」と強く願ったことに精霊の力が反応し、遠く離れた場所にいる娘に影響を及ぼした。ただ、薬草の精霊は人の感情を理解していなかったので、彼女を砂岩の像にすることで、母親が帰って来る日まで死なないようにしたのだ、としています。
 どの様な理由があったかは明確にされていないにしても、娘が砂岩の像に姿を変えられてしまったということでは、全ての物語は一致しています。ただ、身体は砂岩の塊になってしまったのですが、娘の心は消えることなく生き続けていました。もちろん、自分の意志を声に出して表したり、感情を動きで表現したりすることはできなくなっています。それは、普通であれば、絶望したり心が壊れたりするような大変な出来事に違いなかったのですが、精霊の力が彼女の心の持ちようにも影響を与えていたのか、娘は心を激しく泡立てることなく、ただ一心に母親の帰りを待ち続けていたのでした。
 それが、砂岩の像に姿を変えられてからどれだけの時間が経った後だったのか、正確には娘にはわかりません。ただ、とても長い時間が経った後だったとは言えます。彼女が村の外で砂岩の塊に変えられてからずいぶんと経ったある日、とうとう彼女の母親が薬草を手にして村へ帰って来ました。その姿を認めた時に、娘はどれほど喜んだことでしょう。「お母さん! お母さんっ!」と、自分が声を出すことができなくなっているのも忘れて喜びの叫び声を上げようとし、地面にくっついてしまっている砂岩の足を引き抜いて駆けだそうとさえします。
 これが優しい心根を持った昔の人が創った物語であれば、「砂岩の像は月のように柔らかな光を放ちました。その光が治まると、そこには温かな身体を取り戻した娘が立っていました。母親と娘はお互いに走りよると、涙を流しながらしっかりと抱き合うのでした」とでもするところです。
 でも、口伝されているどの昔話の中にも、そのような温かな場面はありません。この後に起こる出来事として伝えられているのは、とても悲しいものなのでした。
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