月の砂漠のかぐや姫

くにん

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月の砂漠のかぐや姫 第314話

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 もちろん、王柔がその決定に納得したはずがありません。「魔鬼城」とも呼ばれるヤルダンは、砂岩の台地が複雑に入り組んでいて、案内人無しで迷わずに通り抜けることなどできません。また、台地の裾野には無数の襞があり、日中でも太陽の光が差し込むことの無いその暗がりには、人に害をなす精霊が住み着いているとの伝説もあります。それに、そもそも、このヤルダンから直近の村までは、かなりの距離があるのです。病気の女の子を一人でそこに残していくということは、彼女が死んでしまっても構わないと寒山が考えているからできることなのです。
 でも、その決定を下したのはこの交易隊を率いる隊長であり、王柔は彼に雇われたヤルダンの案内人に過ぎませんでした。仮にその立場の違いを考えに入れなかったとしても、寒山は王柔の父親ほどの年齢であり、他人を寄せ付けない冬山のような厳しさで大勢の交易隊員をまとめ上げていることから「寒山」と言う名で呼ばれているほどの苛烈な気質の男でした。それに対して、王柔は案内人としての経験もほとんどない若者であり、よく言えば優しく悪く言えば弱々しい人柄ゆえに「王柔」と呼ばれる男でした。つまり、この二人の間には意見を交わしたりできるような空気は存在していませんでした。命令をする者と黙ってそれに従う者。二人の関係はそれ以外の何ものでもありませんでした。
 この時の王柔にできたことと言えば、自分の腰紐に結び付けていた水袋を少女に握らせたこと、そして、「頑張って土光村まで来るんだ。そこには王花さんという、僕の母親のような人がいる。きっと、理亜の力にもなってくれる。そうだ、王花さんは理亜のお母さんになってくれるよ。僕も、土光村で待ってるからっ」と一息で話して、理亜を力づけようとしたことだけでした。
 その後、心を引き裂かれるような思いでその場を離れた王柔は、寒山の交易隊を案内してヤルダンを抜け、土光村へ着きます。案内の仕事を終えた彼は、王花の酒場に報告に行くのではなく、村の入口に立って理亜を待ち続けます。当然の事ではありますが、彼がいくら「母を待つ少女」のように立ち続けても、理亜が現れることはありません。小さな女の子が一人でヤルダンを抜けて土光村で辿り着くなど、できるはずが無いのです。それは、ヤルダンの案内人である王柔が一番わかっているのです。
 ところが、王柔が村の入口に立ち始めてから二日目の夕方、彼はヤルダンへと続く道の上に小さな人影を認めました。それは、理亜でした。なんと、理亜は一人でヤルダンを抜けて土光村へ辿り着いたのです。
 理亜は、この一人でヤルダンに取り残された時に、「母を待つ少女」の奇岩に会ったと話したのでした。
「そうだ、やっぱりあの時の事なんだ!」
 理亜が人の身体に触れられなくなったり、夜になると消えてしまったりするようになったのは、彼女が一人で土光村に辿り着いた後の事です。ですから、この時に彼女に何かがあったのではないかとは、以前から王柔と羽磋も考えてはいたのでした。ただ、そこで何があったかについては、彼らは想像することもできないでいました。ようやくいま、耳から入る理亜の言葉の数々を足掛かりにして、王柔はあの時の理亜の様子を心の中に浮かび上がらせることができるようになったのでした。

 遠い西国から奴隷として連れて来られた理亜。ただでさえ、小さな女の子の身体はその長い旅の疲れでボロボロになっていたというのに、死に至る流行り病として恐れられている風粟の病が、高熱と言う追い打ちをかけていました。
 体力の限界をとうに超えてしまっている理亜の意識はぼんやりとしていて、自分の周囲で何が起きていたのか、おぼろげにしかわかっていませんでした。いきなり繋がれていた縄が外されて、自分は地面に転がされました。同じ列に一繋ぎにされていた他の奴隷たちが、「ヒイィッ」と声を上げて、一斉に自分から遠ざかって行ったような気がします。いや、それは自分の口から出た悲鳴だったでしょうか。はっきりと覚えているのは、日差しをたっぷりと浴びたゴビの大地が背中に触れ、とても熱かったことぐらい・・・・・・。
 その時からいままでどれくらいの時間が流れたのか、ちっともわかりません。いま理亜は砂岩の塊に背中を預けて座り込み、身体を休めています。彼女の周りには、誰もおりません。背中に触れる砂岩はもう熱く感じません。彼女がゆっくりと首を上げて空を見つめると、ヒエンソウで染めたように鮮やであった青空は、オアシスの水底のように深みのある紺色へと変わり、その一部は水平線に没しようとする太陽が投げる焚火の炎のような赤や朱の光で染められていました。
 理亜は、少しずつ意識がはっきりとしてくるのを感じました。これまではずっと歩きどおしだったのですが、こうして座って休むことができて、僅かなりでも体力を回復できたのでしょう。
 彼女は手にしていた皮袋から、水を一口飲みました。
「イタッ。痛い・・・・・・」
 乾ききった喉に、水が酷くしみました。でも、何とか飲み込んだその一口の水は、彼女の身体に大きな力を与えたようでした。
 理亜は、ゆっくりと立ちあがりました。
 彼女は、自分が置き去りにされたときの様子はあまり覚えていませんでしたが、王柔が水の入った皮袋を手渡してくれ、必死に自分を元気づけてくれたことは覚えていました。
「歩かないト・・・・・・。オージュ・・・・・・。村に行く。オーカさん。オカア・・・・・・さん」
 理亜は重い身体を引きずるようにしながらも、一歩、また、一歩と、前へ進み出しました。
 前へ。ああ、前へ。
 過去の記憶を思い出しながら語る理亜は、この時の自分の行動を「明るい方に歩いたヨ」としか説明しなかったのですが、ヤルダンの案内人である王柔にはそれだけで事情がわかりました。
 理亜が交易隊から放置された場所はヤルダンの東の端の近くでした。そこから東へ進めばヤルダンを出ることができ、交易路に従ってさらに進めば王柔が待っていた土光村に着くことができます。彼女の話を聞くいまのいままで、王柔は理亜がそのように歩いて村へとたどり着いたのだと思っていました。
 ところがそうではなかったのです。理亜は明るい方へと歩いて行ったのです。それは、何の知識もない場所に突然放り出された少女が、夜の闇が迫りくる中で少しでも明るい方へと進んだ、自然な行動だったのでしょう。でも、次第に夜に染まっていく空の中で、夕焼けが残る方角と言えば、そう、西の空です。理亜は僅かに回復した体力を振り絞って歩き出しましたが、それはヤルダンの出口がある東の方ではなく、ヤルダンの深部である西の方へ向けてだったのでした。

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