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月の砂漠のかぐや姫 第283話
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「王柔殿、理亜を頼みます」
羽磋は理亜の背中を押して王柔に預けると、「母を待つ少女」の母親に向き直りました。改めて正面から見ると、横から眺めていた時よりも、母親の姿がとても大きく感じられました。大人を数人も重ねたような大きさにまで膨らんだその身体が、自分の上に覆いかぶさってくるように感じられます。そして、高い位置から見下ろされる母親の視線が自分の身体を貫き通して、理亜や王柔にまで突き刺さっていくように感じられました。
それでも、いまの羽磋はここから逃げることなど考えていませんでした。
羽磋はグッと下腹に力を込め、左足を一歩前へ出しました。右手は腰ひもに差した小刀の柄を握っていました。この小刀は父である大伴から譲られたもので、大伴が若い頃に青海に潜む竜を倒した時にその血を吸ったものでした。
遠い遠い昔に月から来た者が自然の力などと一つになり精霊となったのだと、月の民の中では言い伝えられていますが、竜は違います。月から来た者を祖とするのではなく、それ以前から地上にあった力ある者です。そのためなのか、竜の中には精霊と対立し、それを喰らうものもあると言われています。「母を待つ少女」の母親の力が精霊の力によるものであれば、竜の血を受けたこの小刀こそが、それに対抗できる力になるかもしれません。
ただ、羽磋はその小刀の柄を握りしめてはいたものの、それを母親に向かって突き立てるつもりはありませんでした。
ゆっくりと自分たちに近づいて来る母親は、普通の大人の何人分もある大きさを持つ異形であり、その全身からは自分たちへの憎しみと怒りが発せられているのが、羽磋にもよくわかっています。それに、先ほどまでこの母親は、理亜が必死になって訴えていたことを頭から否定して彼女を悲しませていましたし、王柔に対しては激風を発して吹き飛ばし大きな痛みを与えています。
それでも、羽磋は「母を待つ少女」の母親に対して、心の底から湧き上がるような強い怒りを覚えることはありませんでした。むしろ、母親の感じていた激しい怒りと深い絶望を自分の事のように感じ、母親を何とかしてやりたいとさえ思っていたのです。
自分たちの敵として受けとっても良いように思える「母親を待つ少女」の母親に対して、どうして羽磋はそのように思うようになっていたのでしょうか。
羽磋は濃青色の球体の中で母親の記憶を追体験しました。それはもちろん遠い昔の出来事であり、彼が送ってきた遊牧生活とも全く異なるものです。でも、羽磋には母親の記憶に刻まれていた強い感情に覚えがありました。それは、自分が一番大事にしていたもの、それが自分を裏切ったと思った時に生じる、激しい怒りと深い絶望でした。
「母を待つ少女」の母親は、病気で倒れた大切な娘の命を助けるために存在するかどうかも不確かな薬草を求める旅に出ました。そして、多くの困難を乗り越えた末にそれを手にして娘の元に帰るのですが、自分を迎えた娘は砂岩の像という異形になっていました。自分と娘の生活と命を弄び翻弄した挙句に、良い結果どころか穏やかな死という普通の終わりさえ与えないこの世界、自分たち以外の他者に対して、彼女がどれだけ怒りを覚え絶望したことでしょうか。
一方で羽磋は、ほんの小さな頃から、竹林で拾われた聖なる子、竹と一緒に過ごしてきました。それは、自分の母親が彼女の乳母となったからでしたが、彼自身は彼女のことを乳兄弟という関係以上に近しく感じていました。そして、成長するに従い彼女が感じるようになった「皆の中で自分だけが異なる」という疎外感を何とかしてあげたいと、ずっと考えていました。さらに、皆と同じように働いて役に立ちたいと積極的に声を上げる竹の姿勢や、「世界のいろんなところを見てみたい」という彼女の夢に触れる中で、ずっと彼女を傍で支えたい、彼女と一緒に世界を回りたいという気持ちが、彼の心の中に生まれました。
逃げた駱駝を二人で探したバダインジャラン砂漠での夜に、そのような気持ち全てを込めて、羽磋は竹に「輝夜」という名を贈りました。竹はそれを今までにないほど喜んでくれました。羽磋は自分の気持ちが彼女に届いたのだと、とても幸せな気持ちでした。でも、次に彼女に会った時に、竹はその名を覚えてはいませんでした。それには理由があったことを後に羽磋は知ることになるのですが、その時には彼はそれを知りませんでした。そのために羽磋は、竹が自分の贈った名を忘れているということで、彼女が自分を裏切って自分の想いや自分自身を否定したように感じ、これまでに覚えたことのないほどの激しい怒りや大きな絶望を感じたのでした。
それに、羽磋には「母を待つ少女」の母親の怒りと絶望を、自分が感じたものと同じように思える大きな理由がありました。それは、そこに「誤解」があるということでした。
羽磋は理亜の背中を押して王柔に預けると、「母を待つ少女」の母親に向き直りました。改めて正面から見ると、横から眺めていた時よりも、母親の姿がとても大きく感じられました。大人を数人も重ねたような大きさにまで膨らんだその身体が、自分の上に覆いかぶさってくるように感じられます。そして、高い位置から見下ろされる母親の視線が自分の身体を貫き通して、理亜や王柔にまで突き刺さっていくように感じられました。
それでも、いまの羽磋はここから逃げることなど考えていませんでした。
羽磋はグッと下腹に力を込め、左足を一歩前へ出しました。右手は腰ひもに差した小刀の柄を握っていました。この小刀は父である大伴から譲られたもので、大伴が若い頃に青海に潜む竜を倒した時にその血を吸ったものでした。
遠い遠い昔に月から来た者が自然の力などと一つになり精霊となったのだと、月の民の中では言い伝えられていますが、竜は違います。月から来た者を祖とするのではなく、それ以前から地上にあった力ある者です。そのためなのか、竜の中には精霊と対立し、それを喰らうものもあると言われています。「母を待つ少女」の母親の力が精霊の力によるものであれば、竜の血を受けたこの小刀こそが、それに対抗できる力になるかもしれません。
ただ、羽磋はその小刀の柄を握りしめてはいたものの、それを母親に向かって突き立てるつもりはありませんでした。
ゆっくりと自分たちに近づいて来る母親は、普通の大人の何人分もある大きさを持つ異形であり、その全身からは自分たちへの憎しみと怒りが発せられているのが、羽磋にもよくわかっています。それに、先ほどまでこの母親は、理亜が必死になって訴えていたことを頭から否定して彼女を悲しませていましたし、王柔に対しては激風を発して吹き飛ばし大きな痛みを与えています。
それでも、羽磋は「母を待つ少女」の母親に対して、心の底から湧き上がるような強い怒りを覚えることはありませんでした。むしろ、母親の感じていた激しい怒りと深い絶望を自分の事のように感じ、母親を何とかしてやりたいとさえ思っていたのです。
自分たちの敵として受けとっても良いように思える「母親を待つ少女」の母親に対して、どうして羽磋はそのように思うようになっていたのでしょうか。
羽磋は濃青色の球体の中で母親の記憶を追体験しました。それはもちろん遠い昔の出来事であり、彼が送ってきた遊牧生活とも全く異なるものです。でも、羽磋には母親の記憶に刻まれていた強い感情に覚えがありました。それは、自分が一番大事にしていたもの、それが自分を裏切ったと思った時に生じる、激しい怒りと深い絶望でした。
「母を待つ少女」の母親は、病気で倒れた大切な娘の命を助けるために存在するかどうかも不確かな薬草を求める旅に出ました。そして、多くの困難を乗り越えた末にそれを手にして娘の元に帰るのですが、自分を迎えた娘は砂岩の像という異形になっていました。自分と娘の生活と命を弄び翻弄した挙句に、良い結果どころか穏やかな死という普通の終わりさえ与えないこの世界、自分たち以外の他者に対して、彼女がどれだけ怒りを覚え絶望したことでしょうか。
一方で羽磋は、ほんの小さな頃から、竹林で拾われた聖なる子、竹と一緒に過ごしてきました。それは、自分の母親が彼女の乳母となったからでしたが、彼自身は彼女のことを乳兄弟という関係以上に近しく感じていました。そして、成長するに従い彼女が感じるようになった「皆の中で自分だけが異なる」という疎外感を何とかしてあげたいと、ずっと考えていました。さらに、皆と同じように働いて役に立ちたいと積極的に声を上げる竹の姿勢や、「世界のいろんなところを見てみたい」という彼女の夢に触れる中で、ずっと彼女を傍で支えたい、彼女と一緒に世界を回りたいという気持ちが、彼の心の中に生まれました。
逃げた駱駝を二人で探したバダインジャラン砂漠での夜に、そのような気持ち全てを込めて、羽磋は竹に「輝夜」という名を贈りました。竹はそれを今までにないほど喜んでくれました。羽磋は自分の気持ちが彼女に届いたのだと、とても幸せな気持ちでした。でも、次に彼女に会った時に、竹はその名を覚えてはいませんでした。それには理由があったことを後に羽磋は知ることになるのですが、その時には彼はそれを知りませんでした。そのために羽磋は、竹が自分の贈った名を忘れているということで、彼女が自分を裏切って自分の想いや自分自身を否定したように感じ、これまでに覚えたことのないほどの激しい怒りや大きな絶望を感じたのでした。
それに、羽磋には「母を待つ少女」の母親の怒りと絶望を、自分が感じたものと同じように思える大きな理由がありました。それは、そこに「誤解」があるということでした。
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