月の砂漠のかぐや姫

くにん

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月の砂漠のかぐや姫 第229話

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 グラグラッと羽磋の視界が揺れたかと思うと、輝夜姫の姿は見えなくなっていました。羽磋の目に入るのは、青い光の塊とそれにぼんやりと照らし出されている洞窟の岩壁だけでした。羽磋の心の中には、今まで感じだことのない「怯え」や「臆病」の風が吹いていました。王柔が羽磋に対して「駱駝に川の水を飲ませておきますね」と話し掛けたのは、この時だったのでした。
「あの時は王柔殿に声を掛けられて、駱駝がどうなってしまうんだろうと、とても心配になりました」
「すみません、川の水に精霊の力が働いていることを、僕が深く考えておらず・・・・・・」
 再び謝り出した王柔を羽磋は慌てて止めました。素直に反省をするのは王柔の良いところなのですが、あまりに何度も謝られては話が前に進みません。
「いえ、もうそれは済んだことですから。ただ、あの時に王柔殿に声を掛けてもらえたのは、僕にとってはとても幸運だったと思うんです。と言うのは、僕の心の中にはこの先に対する不安や過去に経験した悲しみが、急速に膨れ上がってきていたんです。王柔殿に言われたことにびっくりしてそちらに意識が行かなかったら、その不安や悲しみが僕の中で爆発していたかもしれません」
「はぁ、まぁお役に立てていたのなら良いのですが。でも、まさか、羽磋殿が」
 王柔は羽磋の話を聞いて、とても怪訝そうな顔をしていました。自分が話しかけたことが羽磋にとって良い切っ掛けとなったのならそれは嬉しいことです。ただ、王柔にとって羽磋は、自分よりも年若いにもかかわらずいつも物事をしっかりと考えている若者でした。王柔は羽磋を頼りにしていると言っても過言ではありませんでした。不安や悲しみが心の中で爆発しそうだったと本人の口から言われても、そのような羽磋などとても想像できなかったのでした。
「本当なんです、王柔殿。王柔殿の話の後で駱駝が急に騒ぎ立てましたし、それが走り去ったかと思うとすぐにものすごい勢いで戻って来て、もう少しで僕たちは駱駝に弾き飛ばされるところでした。あの時はとても自分の心の中に意識を向ける余裕なんてありませんでした。でも、今思えば、それが良かったんです。あのまま心の中の不安等に捕らわれていたら最後にはそれが爆発して、僕が駱駝のように悲鳴を上げて走り出していたかもしれません。そして、僕の心の中に不安や悲しみの風が吹いたのは、きっとあの青い光を見つめ過ぎたことが原因なんです」
 羽磋はとても強い勢いで一息で話しました。それは、羽磋の中にはまだ「あの時は本当に危なかった」という強い危機感が残っていたからでした。
 あの時に羽磋の心に吹いた冷たい風は、まるでハイイログマのような強い力で彼を捕まえようとしていました。おそらくは、一度掴まってしまったら、もうそこから逃げ出すことはできなかったでしょう。悲しみの冷たい風が臆病の腕を伸ばして羽磋の心に触れたその瞬間、それが逃げ出す最後の機会でしたが、羽磋は身体を震わせてその風に耐えるのに精一杯で逃げ出すことなど考えてもいませんでした。でも、王柔の予想外の行動と駱駝の大騒ぎ、さらに、駱駝の猛突進がその最後の機会に生じました。羽磋はそれらに対処するために、心の中から外へと急速に意識を切り替えました。図らずもそのことで、羽磋は冷たい風から逃げ出すことに成功したのでした。
 羽磋はこの洞窟にも冷たい風が吹いているかのように、ギュッと腕を組んで身体を小さくしました。それでも、彼は話すのを止めませんでした。
「あの青い光。あれには精霊の力が宿っています。そして僕は思うのです。その精霊が、人や駱駝の心に恐怖や悲しみ呼び起こしているのだと」
「恐怖や悲しみ、ですか」
 王柔も月の民の男ですから、自分たちの遠い祖先と共に月から来たものが大地や空や水と交わって精霊となったことは知っていました。月の巫女が祭祀を行い精霊に感謝を捧げたり、その言葉を人々に伝えたりする場面も見たことがあります。でも、羽磋が言うように精霊自体が意識を持って人や動物に影響を与える等とは聞いたことがありません。
 王柔は言葉を濁して羽磋の顔を見ました。羽磋は真剣な表情で真っすぐに王柔を見つめ返しました。その視線の短剣の先のような鋭さは、彼の考えの強固さを表していました。
 王柔は先ほどの駱駝の様子を思い出していました。
 あの駱駝は青い光を放つ川の水を飲んだ後で、王柔が今まで聞いたことのないような大声を上げて騒ぎ立てました。そして、何かに追われるようにここから洞窟の奥の方へ走り去ってしまいました。さらには、今度は洞窟の奥で恐ろしい何かに出会ってしまったかのように悲鳴を上げると、地面に立っている王柔たちを弾き飛ばすような勢いで戻ってきて、そのまま大空間の方へと消えていきました。あの駱駝は、確かに恐怖に捕らわれていました。

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