月の砂漠のかぐや姫

くにん

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月の砂漠のかぐや姫 第189話

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 羽磋が子供の頃の遊びで、ナツメヤシの木の上からオアシスに飛び込んだ時もそうでした。高いところから飛び込むと、その勢いで水中で体がぐるぐると回転してしまい、どちらが上か下かもわからない状態になってしまいます。もちろん、そのまま水中にいると息ができませんから、不安な気持ちがどんどんと大きくなってきます。そのため、まだ小さくて羽と呼ばれていた頃の彼は、早くどちらが上かを探して水面に顔を出そうと必死にもがくのですが、なかなか思い通りに浮かび上がることはできなかったのでした。それどころか、彼はもがいたことで力を失ってしまい、このままおぼれてしまうのではないかという恐怖が、心の中一杯に広がってしまったのでした。
 その時には、一緒に遊んでいた年長者が水中で手足をやたらと動かしてもがいている羽を助け起こしてくれて、大事には至りませんでした。羽は怖い思いをしたと泣きべそをかき、もうこんな遊びは嫌だと駄々をこねたのでしたが、彼は羽の頭を撫で笑いながら、飛び込み遊びのコツを教えてくれたのでした。人の体は自然と浮き上がるようにできているから、そういう時はもがくのではなくて、逆に体の力を抜くのだと。
 活発な子であった羽が機嫌を直して、もう一度木に登って水中に飛び込み、今度は教わったとおりにやってみると、なんと水の中で自然と自分の体が浮き上がるではありませんか。例え水中であっても、どちらが上かがわかれば、羽は恐怖を感じることはありませんでした。体が自然と浮き上がる力に、自分が水を掻き分ける力を足してやればいいのです。あっという間に、羽は飛び込み遊びのコツを覚えたのでした。
 このような子供の頃の体験があったので、羽磋は激しい川の流れの中に落下するという状況の中でも、無駄に慌てることなく、体の力を抜くことで浮き上がる力を感じ取ったのでした。そして、どちらが上かを意識出来た後は、その浮き上がる力と自分が水をかく力を上手く使って、素早く水上に顔を出すことができたのでした。
「お、王柔殿はっ。理亜はっ」
 谷底の狭い個所を走る川の流れは、激しく複雑でした。
 羽磋は体が水流で運ばれていくことには抵抗せずに、少しでも水面から高く顔を出そうと努力しました。それは、自分と一緒に川に落ちたはずの王柔と理亜を探すためでした。
「どこだ、二人は・・・・・・。ああ、いたっ」
 川岸や川底の地形により複雑なうねりが生じている水面には、落下した駱駝の体やそれが運んでいた荷が浮き沈みしながら、羽磋と一緒に下流へと運ばれていました。その中に、見覚えのある赤い頭布が見えたのです。王柔です、交易隊の案内役の目印として赤い頭布を巻いた王柔に違いありません。その近くには、きっと理亜でしょう。小柄な人影も見えます。
 でも、その二人は、羽磋のように川の流れに対応しながら浮かんでいるようには見えません。ぐったりとしていて、意識を失っているようにも見えます。川に落下した時には慌てることがなかった羽磋の心に、さぁっと冷たいものが沸き立ちました。
「王柔殿、理亜っ。お願いですから、無事でいてくださいっ」
 羽磋は、赤い頭布をめがけて、懸命に泳ぎ始めました。
 もともと同じところから落下した彼らでしたから、今もそれほど離れたところを流されているわけではありません。それが幸いしました。急いで王柔の傍に泳ぎついた羽磋が体に触れたとたん、王柔は両手両足を激しく動かしてもがき始めました。羽磋が心配していたような、最悪の事態には陥っていなかったのです。少なくとも、今は。
「王柔殿、王柔殿。慌てないで大丈夫です。ほら、顔を上げてっ。ほらっ」
 まだ自分が水中にいるものと思って振り回している王柔の両腕を避けながら、羽磋は彼の上半身の下に潜り込みました。そして、思いきり水を蹴って浮上し、王柔の上半身を大きく水から外へと押し出しました。
「グボウッ。ホウフ、オフ、オフッ・・・・・・。ああ・・・・・・。あああ・・・・・・・。良かった、息ができる・・・・・・。あぁ・・・・・・。羽磋殿、でしたか。ありがとう、ございます。ふううう」
 王柔は、急に自分の体が浮き上がり見通しの悪い水の中から外に押し出されたことに戸惑いを覚えましたが、それ以上に、とうとう我慢できずに吐き出してしまった息と入れ替わりに胸の中に入ってきた新鮮な空気の甘さの方に、心を奪われてしまいました。いつもは何気なく吸っている空気です。それが、こんなにも甘いなんて。体中に染み渡るなんて。息ができることをこんなにも感謝したのは、王柔にとって生まれて初めてのことでした。
 実際のところ、王柔は必死でもがいてはいたものの水上に顔を出すことが全くできず、呼吸も限界に近づいていたところだったのです。自分のすぐ横に浮かび上がってきた羽磋の顔を見て、王柔は深い感謝を覚えながら、さらに一つ大きな深呼吸をしました。
 胸の奥まで行き渡った新鮮な空気が、王柔の頭を塗りつぶしていた灰色の雲を吹き飛ばしてくれました。
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