月の砂漠のかぐや姫

くにん

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月の砂漠のかぐや姫 第80話

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 しかし、王柔は砂岩でできた立像ではなく、息をする生身の若者ですから、体力には限界があります。二日目の夕方にもなると、西の方を眺める王柔の視線は、ぼんやりとしたものになってきました。さらに、まだ報告もしていないのに、ずっとここでこうしてはいられないという意識も、段々と大きくなってきました。
「ごめんよ、理亜、ごめんよ・・・・・・」
 それは、王柔がつぶやいた何度目の謝罪の言葉だったのでしょうか。
 二日目の太陽が空の高いところから地平線近くにまで降りてきて、ゴビの台地の赤色が空の朱色と混じり始めた頃、とうとう王柔は重い腰を上げる決断をしたのでした。
「とにかく、一度酒場に行って、王花さんに報告をしなければいけない。ごめんよ・・・・・・あ、あれはっ、ああっ」
 その時、王柔は見たのでした。西の方から、小さな人影がこちらに近づいてくるのを。
 太陽を背にして歩いてくるその姿は、逆光のために顔は判りませんでした。でも、王柔が、その小さな人影が誰かを間違えるはずがないではありませんか。
 その人影は、自分よりも何倍も何倍も長く伸びている西日が形作った黒い影の上を、それが道だとでも言うかのように歩いて、こちらに近づいてきました。
「理亜、理亜、理亜ぁっ!!」
 王柔は叫びました。そして、走り出しました。
 西から土光村を目指して近づいてくる小さな人影、それは、あの奴隷の少女、理亜だったのでした。
「理亜、理亜、あっ・・・・・・」
 昨日から夜通しゴビを見つめ続けていた王柔の身体は、自分の思うようには動かず、数歩進んだところで彼は勢いよく転んでしまいました。それでも、王柔は直ぐに立ち上がって、また走り出しました。痛みなど感じませんでした。理亜がいる、理亜がいる。少しでも早く、理亜のところに行きたい。ただ、それだけでした。
 小さな人影も、こちらの方へ向かって駆けだしていました。もう、その格好や表情までもはっきりとわかります。理亜です。確かに、それは置き去りにされた奴隷の少女、理亜でした。
「オージュ、オージューッ」
「理亜、理亜ぁーっ」
 お互いの距離はどんどんと小さくなっていきます。
 王柔の心は喜びで溢れていました。理亜がここに現れたことへの驚きや戸惑いが心に浮かぶ隙間は、全くありませんでした。
「良かった、理亜、良かったー!」
 王柔は走ってくる理亜を迎えようと、腰を落として両手を広げました。
「オージューッ」
 王柔に逢えた喜びと安心の気持ちからでしょうか、理亜の顔は泣き笑いのように崩れていました。ヤルダンの中に置き去りにされてからこれまで、理亜はどれだけ不安だったのでしょうか、どれだけ苦しかったのでしょうか。やっと、やっと、兄のように思う王柔に逢うことができたのです・・・・・・。
 二人の頭上の空はもう夜の色に染められていて、夕焼けは西の空の一部にわずかに残るだけになっていました。二人はゴビの台地にそれぞれ長い影を作っていましたが、理亜が王柔の胸に飛び込み、王柔が自分の思いを込めて彼女をぎゅっと抱きしめることで、その影は一つになり・・・・・・ませんでした。
 理亜の身体は、王柔の身体を通り抜けました。
 王柔の両腕は、理亜の身体を抱きしめることはできませんでした。
「え・・・・・・」
「ア、アレ・・・・・・」
 理亜は王柔の背中側に走り抜けていました。
 振り返ってお互いを不思議そうに見つめる二人。
 王柔は「何が起きているのか全く分からない」という表情を浮かべながら、ゆっくりと理亜に近づきました。理亜はそんな王柔を見上げながら、黙ったままで待っていました。理亜の頭をなでようと、王柔は右手を伸ばしました。その右腕は細かく震えていたのですが、それは疲れからくるものだけではありませんでした。
 おそるおそる伸ばされた王柔の手のひらは、理亜の柔らかな髪に触れることはできませんでした。それどころか、その手は理亜の頭と重なってしまいました。理亜の身体はそこにあるように見えるのに、形あるものはそこには存在していないのでした。
「オージュ・・・・・・」
 びっくりして手を引いた王柔に、泣き笑いの表情を浮かべながら理亜は語り掛けました。同じ泣き笑いの表情であっても、先程までの「幸せの涙と嬉しさの笑いが混在したもの」ではなくて、「悲しみで今にもこぼれそうな涙と、不安を無理やり閉じ込めようとする笑いが混在したもの」だったのですが。
「オージュ・・・・・、ワタシ、どうしちゃったんダロウ・・・・・。オージュに、さわりたいノニ・・・・・・」
 王柔の胸に飛び込もうとした先程とは違って、今度は理亜はゆっくりと王柔に近づきました。そして、ちょうど自分の肩の高さにある彼の胴に、両手でしがみつこうとしました。でも……、彼女の両手は、王柔の存在を感じることはできず、その両腕は自分の胸の前でむなしく重ねあわされたのでした。
 王柔を見上げる理亜の頬を涙が伝い、乾いたゴビの台地にぽつぽつと黒い染みをつくりました。戸惑うばかりの王柔に、理亜は自分の心の中に浮かんでいる恐ろしい考えを打ち明けようとしました。
「ワタシ、オージュ、ワタシ・・・・・・、ヒョッとした」
 その時。西の空の先で、太陽が完全に大地の陰に没しました。太陽の眷属はその力を失い、月の眷属が力を振るう時間が来たのです。
 そして。
 理亜は、忽然とその姿を消してしまいました。
 先程まで王柔の前に立ち王柔と会話をしていた理亜は、今ではそれらが夢の中での出来事であったかのように、どこにもいなくなってしまったのでした。
「り、理亜?」
 夢か、自分は夢でも見ていたのか? 目の前にいた理亜の姿が、全く何の前触れもなく消えてしまうなんてありえない。そもそも、目の前に理亜がいたというのは、自分が夢の中で見た幻だったのではないか。
 まず、王柔は自分を疑いました。
 しかし、王柔のつま先では、いくつかの黒い染みが地面に残されているのです。ああ、これは、先程、理亜が流した涙の跡ではないのでしょうか。やはり、理亜は、間違いなく王柔の目の前にいたのです。
「理亜、やっぱり、理亜はここにいたんだ。どうして、どうして 理、亜……」
 ただでさえ王柔の心と体は疲れ切っていました。そこへ、思いもかけない理亜との再会の喜びと、想像もつかない彼女の消失の絶望が加わったことで、彼の心の底は破れる寸前になってしまいました。
「理・・・・・・」
 王柔は、ガクッと膝を地につけると、その場に崩れ落ちました。これ以上負荷がかかって自分自身が壊れてしまわないように、生き物としての安全弁が働いたのです。つまり、王柔は気を失って倒れてしまったのでした。

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