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月の砂漠のかぐや姫 第62話
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「そうか、俺は人を殺そうとしていたのか……」
羽磋は、自分の右手をじっと見つめました。自分がそのようなことをするだなんて、これまで、想像したこともありませんでした。でも、それは事実ですし、また、ひょっとしたら、今後も有り得ることなのかもしれませんでした。
「いいか、羽磋。俺はお前を気に入った。だから、前もって言っておく。俺は、交易隊の護衛なんかしているせいで、色んな危ない場面にあってきた。俺の周りにいた奴もな。さっきみたいに、盗賊に襲われることもあるし、交易のゴタゴタに巻き込まれることもある」
「は、はい」
冒頓の口調は、兄が弟に狩りの仕方を教えるような優しいものでしたが、その内容はもっと厳しいものでした。
「お前は、かなり生真面目な性格のようだ。俺の部下に、お前のような真面目で人の良い奴がいたが……死んだよ。交易の貨物にケチをつけてきた奴らがいてな。まぁ、始めから金を払うつもりがなくて、なんとか難癖付けて、こちらを追い払うか殺してしまおうという、とんでもない奴らだった。相手が先に刀を抜いて襲ってきたんだが、そいつは、いざというときに迷ってしまったんだ。相手を殺してしまうかもしれないってな」
「そうなんですか。でも、相手が襲ってきたんですよね。それなら・・・・・・」
「ああ、そうやって割り切れればいいし、いっそ、立ち回りをしている間ずっと、夢中で何も考えなければいいんだ。だけど、いざというときに、人を殺したことがない奴は、それも真面目な奴ほど、自分のすることに躊躇してしまう。もちろん、人を殺すことを勧めているんじゃないぜ。だけどな、俺はお前に死んでほしくねぇんだ。お前は面白いからな。だから、羽磋、迷うな。いざというときに、ためらうな。必要なら、今のうちに、そういうことも含めて覚悟を決めておけ。自分が何のため部族を出たのか。目的を果たすために、どこまでできるのかを。反省することが出来るのは、生きている奴だけだぜ。羽磋、死んだら終わりだからな」
「死んだら終わり、ですか」
「そうだ、死んだら終わりだ。後から考えることはできねぇんだよ。いざというときに迷うなんて、論外だ。考えるなら、前もってしとけよ。こうやって言うのは簡単なんだが、腹くくるのは案外難しいぞ」
「ありがとうございます、冒頓殿」
羽磋は、自分の中に冒頓の言葉が染み渡っていくのを感じました。それは、その言葉が、厳しい戦いを生き抜いてきた男が、自分の通ってきた道を歩もうとしている少年へむける、優しさが形となったものだったからでした。羽磋は、馬上で冒頓に頭を下げました。冒頓のこの言葉が、羽磋の命を救う日が来ることを、この時の彼が知る由もなかったのですが。
冒頓は、しゃべりすぎた自分に照れてしまったのか、羽磋に軽く手をあげたかと思うと、交易隊の方へ馬を走らせていきました。その後を、慌てて、苑が追いかけていきました。二人は、交易隊の列へ合流したかと思うと、今度は先頭の方へと走って行きました。
その場に残された羽磋は、もう一度、盗賊の死体の方を振り向きました。それらは、交易路から少し外れた河原に、無造作に投げ捨てられています。やがて、狼やジャッカルなどの肉食の獣が、彼らを片付けてしまうのでしょう。数刻前までは、馬を操ったり、刀を振り回したりしながら、大声をあげて羽磋や苑に襲い掛かっていた彼らは、今では物言わぬ存在となってしまっていました。
「死んだら終わり、か。俺が旅に出た目的、そして、そのためにどこまでできるか、か」
羽磋は、冒頓の言葉を、繰り返しました。
少し前までの自分は、遊牧隊の一員として羊たちを追っていました。その自分が、バダインジャラン砂漠での一夜をきっかけに、今は、ゴビを渡る交易隊の一員となって肸頓(キドン)族の根拠地を目指しています。その大きな変化の間、羽磋は、目の前の事態に対処するのに精一杯で、ゆっくりと深く考えを巡らせる機会がありませんでした。
目的、いえ、旅に出た目的については考えるまでもありません。それについては、羽磋の心の奥底から最も浅いところまで、一つのことで統一されています。
「俺の目的は、輝夜を月に還すこと。それ以外にない。だけど、そのために、どこまでするか。いや、できるか、か。確かに、覚悟ができていなかったのかもな。輝夜のためならば、何でもしないといけないし、そのためには、生きていないといけないって覚悟が」
人を殺すこと、いや、傷つけることでさえも、自ら進んですることでないのは明らかです。でも、先程のように、自分の命を守るためにその必要があるのであれば……。羽磋は、自分の腰に差している短剣を、ぎゅっと握りしめました。
ここにはもう、遊牧隊という自分を守ってくれる存在はありません。羽磋は、これから独りで進んで行かなければならないのです。ひょっとしたら、匈奴から月の民へ出された冒頓は、羽磋のそのような状況に自分の少年の頃を重ねたのかも知れません。もちろん、命のやり取りに発展するようなことが、今後あるのかどうかはわかりませんし、それに対して覚悟を決めるといっても、全く想像がつかないというのが正直なところなのですが、いずれにしても、冒頓の言葉が、羽磋にとって自分を見つめ直す良いきっかけとなったのでした。
羽磋は、生真面目に冒頓達が走り去った方へ頭を下げると、護衛隊の残りの男達と共に、交易隊の一番後ろに従って、進み始めるのでした。
交易隊が通り過ぎたあと、隘路はすっかりと静かになってしまいました。
やがて、太陽の光が弱まり、山肌が作り出す影の境界があやふやになってきたころ、風が流れてきました。その風は、辺りが暗くなるにつれて強くなり、打ち捨てられた盗賊たちの上に、ゴビの砂を運んでくるのでした。
一体どのような過去があって、彼らはこのような結末に辿り着いたのでしょうか。
頭布を巻いた彼らは月の民の男のようでしたが、果たして、月に還ることが出来たのでしょうか。
ボウゥッ。ゾゾゾゥ・・・・・・。
細長い隘路を吹き抜ける風が、彼らに問いかけました。もちろん、なんらかの返事があるわけではありません。でも、風は、そのようなことを気にはしないのです。返事があろうがなかろうが、生きていようが死んでいようが、風は気にはしないのです。
シュゥゥゥ・・・・・・ゾゾゾウゥウ・・・・・・。
赤茶色の砂で飾られた男達は、月が見守る下で、獣たちの腹を満たすことになるのでしょう。
例えそうであっても、今だけ。今だけは。
風の精霊が、彼らの元を訪れているのでした。
羽磋は、自分の右手をじっと見つめました。自分がそのようなことをするだなんて、これまで、想像したこともありませんでした。でも、それは事実ですし、また、ひょっとしたら、今後も有り得ることなのかもしれませんでした。
「いいか、羽磋。俺はお前を気に入った。だから、前もって言っておく。俺は、交易隊の護衛なんかしているせいで、色んな危ない場面にあってきた。俺の周りにいた奴もな。さっきみたいに、盗賊に襲われることもあるし、交易のゴタゴタに巻き込まれることもある」
「は、はい」
冒頓の口調は、兄が弟に狩りの仕方を教えるような優しいものでしたが、その内容はもっと厳しいものでした。
「お前は、かなり生真面目な性格のようだ。俺の部下に、お前のような真面目で人の良い奴がいたが……死んだよ。交易の貨物にケチをつけてきた奴らがいてな。まぁ、始めから金を払うつもりがなくて、なんとか難癖付けて、こちらを追い払うか殺してしまおうという、とんでもない奴らだった。相手が先に刀を抜いて襲ってきたんだが、そいつは、いざというときに迷ってしまったんだ。相手を殺してしまうかもしれないってな」
「そうなんですか。でも、相手が襲ってきたんですよね。それなら・・・・・・」
「ああ、そうやって割り切れればいいし、いっそ、立ち回りをしている間ずっと、夢中で何も考えなければいいんだ。だけど、いざというときに、人を殺したことがない奴は、それも真面目な奴ほど、自分のすることに躊躇してしまう。もちろん、人を殺すことを勧めているんじゃないぜ。だけどな、俺はお前に死んでほしくねぇんだ。お前は面白いからな。だから、羽磋、迷うな。いざというときに、ためらうな。必要なら、今のうちに、そういうことも含めて覚悟を決めておけ。自分が何のため部族を出たのか。目的を果たすために、どこまでできるのかを。反省することが出来るのは、生きている奴だけだぜ。羽磋、死んだら終わりだからな」
「死んだら終わり、ですか」
「そうだ、死んだら終わりだ。後から考えることはできねぇんだよ。いざというときに迷うなんて、論外だ。考えるなら、前もってしとけよ。こうやって言うのは簡単なんだが、腹くくるのは案外難しいぞ」
「ありがとうございます、冒頓殿」
羽磋は、自分の中に冒頓の言葉が染み渡っていくのを感じました。それは、その言葉が、厳しい戦いを生き抜いてきた男が、自分の通ってきた道を歩もうとしている少年へむける、優しさが形となったものだったからでした。羽磋は、馬上で冒頓に頭を下げました。冒頓のこの言葉が、羽磋の命を救う日が来ることを、この時の彼が知る由もなかったのですが。
冒頓は、しゃべりすぎた自分に照れてしまったのか、羽磋に軽く手をあげたかと思うと、交易隊の方へ馬を走らせていきました。その後を、慌てて、苑が追いかけていきました。二人は、交易隊の列へ合流したかと思うと、今度は先頭の方へと走って行きました。
その場に残された羽磋は、もう一度、盗賊の死体の方を振り向きました。それらは、交易路から少し外れた河原に、無造作に投げ捨てられています。やがて、狼やジャッカルなどの肉食の獣が、彼らを片付けてしまうのでしょう。数刻前までは、馬を操ったり、刀を振り回したりしながら、大声をあげて羽磋や苑に襲い掛かっていた彼らは、今では物言わぬ存在となってしまっていました。
「死んだら終わり、か。俺が旅に出た目的、そして、そのためにどこまでできるか、か」
羽磋は、冒頓の言葉を、繰り返しました。
少し前までの自分は、遊牧隊の一員として羊たちを追っていました。その自分が、バダインジャラン砂漠での一夜をきっかけに、今は、ゴビを渡る交易隊の一員となって肸頓(キドン)族の根拠地を目指しています。その大きな変化の間、羽磋は、目の前の事態に対処するのに精一杯で、ゆっくりと深く考えを巡らせる機会がありませんでした。
目的、いえ、旅に出た目的については考えるまでもありません。それについては、羽磋の心の奥底から最も浅いところまで、一つのことで統一されています。
「俺の目的は、輝夜を月に還すこと。それ以外にない。だけど、そのために、どこまでするか。いや、できるか、か。確かに、覚悟ができていなかったのかもな。輝夜のためならば、何でもしないといけないし、そのためには、生きていないといけないって覚悟が」
人を殺すこと、いや、傷つけることでさえも、自ら進んですることでないのは明らかです。でも、先程のように、自分の命を守るためにその必要があるのであれば……。羽磋は、自分の腰に差している短剣を、ぎゅっと握りしめました。
ここにはもう、遊牧隊という自分を守ってくれる存在はありません。羽磋は、これから独りで進んで行かなければならないのです。ひょっとしたら、匈奴から月の民へ出された冒頓は、羽磋のそのような状況に自分の少年の頃を重ねたのかも知れません。もちろん、命のやり取りに発展するようなことが、今後あるのかどうかはわかりませんし、それに対して覚悟を決めるといっても、全く想像がつかないというのが正直なところなのですが、いずれにしても、冒頓の言葉が、羽磋にとって自分を見つめ直す良いきっかけとなったのでした。
羽磋は、生真面目に冒頓達が走り去った方へ頭を下げると、護衛隊の残りの男達と共に、交易隊の一番後ろに従って、進み始めるのでした。
交易隊が通り過ぎたあと、隘路はすっかりと静かになってしまいました。
やがて、太陽の光が弱まり、山肌が作り出す影の境界があやふやになってきたころ、風が流れてきました。その風は、辺りが暗くなるにつれて強くなり、打ち捨てられた盗賊たちの上に、ゴビの砂を運んでくるのでした。
一体どのような過去があって、彼らはこのような結末に辿り着いたのでしょうか。
頭布を巻いた彼らは月の民の男のようでしたが、果たして、月に還ることが出来たのでしょうか。
ボウゥッ。ゾゾゾゥ・・・・・・。
細長い隘路を吹き抜ける風が、彼らに問いかけました。もちろん、なんらかの返事があるわけではありません。でも、風は、そのようなことを気にはしないのです。返事があろうがなかろうが、生きていようが死んでいようが、風は気にはしないのです。
シュゥゥゥ・・・・・・ゾゾゾウゥウ・・・・・・。
赤茶色の砂で飾られた男達は、月が見守る下で、獣たちの腹を満たすことになるのでしょう。
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