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月の砂漠のかぐや姫 第39話
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烏達渓谷はゴビ北東に広がる草原の一角にあります。この一帯は、南北に流れる黄河の恵みにより遊牧に適した草原が大きく広がっているので、月の民と新興匈奴はこの地域を奪い合って、何度もいさかいを起こしているのでした。
月の民の戦い方の特徴は、馬に乗ったまま敵に矢を射る「騎射」にありました。この機動力を活かした戦い方は、「馬と共に生まれ、馬と共に生き、馬と共に死す」と言われた遊牧民族独特のもので、これに立ち向かえる国はありませんでした。しかし、同じ遊牧民族である匈奴との闘いでは、この優位性が存在しませんでした。秦などとの闘いでは、敗走したと見せかけて、かさにかかって追いかけてくる敵を「背面騎射」で撃退したことが何度もあったのですが、遊牧民族の戦い方をよく知る匈奴は慎重に弓の間合いを図って行動するので、戦局を決定づける契機が生まれないのです。しかし、烏達渓谷の戦いによって、月の民は匈奴の主力へ決定的な損害を与えて草原の争奪戦に終止符を打ち、ゴビ一帯での彼らの覇権を確実にしたのでした。
烏達渓谷では、阿部が中心となって立てた作戦のとおり、戦が進みました。早朝の草原で、御門が率いる双蘼族騎馬隊と匈奴騎馬隊が会戦しました。御門は折を見て、敗走するふりをして烏達渓谷の中に逃げ込みます。もちろん、匈奴騎馬隊は反撃の背面騎射や伏兵を警戒するのですが、烏達渓谷は両側に切り立った山がそびえており、伏兵を置くには適した地形ではありません。また、朝方は山から草原へ冷たい空気が降りてきていたのですが、御門が敗走し始めた頃は陽がだいぶん上がって来ていて、草原から山へ、つまり自分たちの側から敗走する御門たちの側への風向きに変わっていました。「これは勝機だ」と考えた匈奴の単于は、全軍に御門たちを追って烏達渓谷へ侵入するように指示を出したのでした。
そのころ、烏達渓谷の中では、大伴たちが「月の巫女」の儀式の準備を整えていました。「計画通りに御門が匈奴騎馬隊を引き連れて、烏達渓谷の中に入ってきた」との合図を鏑矢で受けた大伴たちは、秋田の指示の元で整えた儀式を執り行いました。
儀式の中、不思議なことが起こりました。竜の玉が置かれた祭壇で弱竹姫が唄を歌い始めると、なんと、今まで草原から山へと吹き上げていた風の向きが、急にその向きを変え始めたのです。その傾向は儀式が進むにつれてどんどんと強まっていき、それが終わった時には、烏達渓谷の中を、山から草原へ向かう強風が吹き抜けていたのでした。
「まずい」と匈奴の単于が思ったときには既に遅く、届くはずもなかった月の民の矢が、目の前の空を埋め尽くしていました。機をとらえて「背面騎射」で御門たちが放った矢が、強い風に乗って匈奴騎馬隊の上に降り注いだのです。その後の戦いは、まさに一方的なものでした。お互いに弓矢を主な武器とする騎馬民族です。左右に逃げ場がないところで、風下に立ってしまった匈奴は、単于とその周囲のものがなんとか逃げ延びただけでも幸運と言えるほどの、壊滅的な打撃を受けたのでした。一方で、御門たち月の民の側はほとんど被害は出ておらず、まさに、阿部と御門が描いた通りの完勝でした。
ところが、月の民の完勝であるこの戦いは、大伴達に大きな代償を要求したのでした。あらかじめ、秋田からは「儀式によって月の巫女にどのような影響があるかわからない」と聞かされてはいたのですが、想像することを避けていた、最悪の事態が起きてしまったのでした。
弱竹姫が消えてしまったのです。
儀式の最後に、弱竹姫は立ち上がって唄を歌いあげると、天から自分を吊り下げていた糸がぷつりと切れたかのように、祭壇の上に崩れ落ちました。そして、大きな声をあげて大伴や阿部が走り寄るその目の前で、その身体はどんどんと透き通っていき、最後には消えてなくなってしまったのです。そうです、祭壇の上には、光を発しなくなった竜の玉とその台の他には、もうなにもなくなってしまったのでした。
「消えてしまったんですか? 月に還られたのではないのですか?」
羽磋は驚きの声を上げました。先代の月の巫女(もっとも、竹姫は貴霜族が月の巫女と呼んでいるだけで、まだ、正式な月の巫女ではないのですが)が、烏達渓谷の戦いで月に還ったということは聞いたことがありますが、消えてしまったということは、今初めて聴いた事柄でした。
「ああ、消えてしまったのだ。跡形も無くな。だが、お前が知らぬのも当然のことだ。これは、儀式の場にいた阿部殿、俺、秋田、そして、わずかな警備のものしか知らぬことだ。ああ、もちろん御門殿もご存知だがな。警備のものについては、秋田がこの話を漏らすと精霊のお怒りを買って本人を含む一族全般に災厄が訪れると、きつく言い含めていたのでな、広がっていないのだろう」
大伴は、あまり感情のこもらない、いや、感情を押し殺したような声で説明をしました。ただ、大伴も知らぬことではあるのですが、この話が広がっていないもう一つの理由として、その場にいた警備のものたちは、御門と阿部の秘かな手配によって、遠くパルティアの地へ向かう交易隊に配置替えとなり月の民から切り離されていた、ということもあるのでした。
「しかし、消えてしまったとは‥‥‥」
「いや、その場にいた俺や阿部殿、そして、秋田でさえ、そのようなことは想像もしていなかったのだ。何らかのこと、そう、万が一のことがあって、月に還られることがあるのではないか、という漠然とした不安を抱いていたのは事実だが、まさか、消えてしまうなどとは、な」
月の民の戦い方の特徴は、馬に乗ったまま敵に矢を射る「騎射」にありました。この機動力を活かした戦い方は、「馬と共に生まれ、馬と共に生き、馬と共に死す」と言われた遊牧民族独特のもので、これに立ち向かえる国はありませんでした。しかし、同じ遊牧民族である匈奴との闘いでは、この優位性が存在しませんでした。秦などとの闘いでは、敗走したと見せかけて、かさにかかって追いかけてくる敵を「背面騎射」で撃退したことが何度もあったのですが、遊牧民族の戦い方をよく知る匈奴は慎重に弓の間合いを図って行動するので、戦局を決定づける契機が生まれないのです。しかし、烏達渓谷の戦いによって、月の民は匈奴の主力へ決定的な損害を与えて草原の争奪戦に終止符を打ち、ゴビ一帯での彼らの覇権を確実にしたのでした。
烏達渓谷では、阿部が中心となって立てた作戦のとおり、戦が進みました。早朝の草原で、御門が率いる双蘼族騎馬隊と匈奴騎馬隊が会戦しました。御門は折を見て、敗走するふりをして烏達渓谷の中に逃げ込みます。もちろん、匈奴騎馬隊は反撃の背面騎射や伏兵を警戒するのですが、烏達渓谷は両側に切り立った山がそびえており、伏兵を置くには適した地形ではありません。また、朝方は山から草原へ冷たい空気が降りてきていたのですが、御門が敗走し始めた頃は陽がだいぶん上がって来ていて、草原から山へ、つまり自分たちの側から敗走する御門たちの側への風向きに変わっていました。「これは勝機だ」と考えた匈奴の単于は、全軍に御門たちを追って烏達渓谷へ侵入するように指示を出したのでした。
そのころ、烏達渓谷の中では、大伴たちが「月の巫女」の儀式の準備を整えていました。「計画通りに御門が匈奴騎馬隊を引き連れて、烏達渓谷の中に入ってきた」との合図を鏑矢で受けた大伴たちは、秋田の指示の元で整えた儀式を執り行いました。
儀式の中、不思議なことが起こりました。竜の玉が置かれた祭壇で弱竹姫が唄を歌い始めると、なんと、今まで草原から山へと吹き上げていた風の向きが、急にその向きを変え始めたのです。その傾向は儀式が進むにつれてどんどんと強まっていき、それが終わった時には、烏達渓谷の中を、山から草原へ向かう強風が吹き抜けていたのでした。
「まずい」と匈奴の単于が思ったときには既に遅く、届くはずもなかった月の民の矢が、目の前の空を埋め尽くしていました。機をとらえて「背面騎射」で御門たちが放った矢が、強い風に乗って匈奴騎馬隊の上に降り注いだのです。その後の戦いは、まさに一方的なものでした。お互いに弓矢を主な武器とする騎馬民族です。左右に逃げ場がないところで、風下に立ってしまった匈奴は、単于とその周囲のものがなんとか逃げ延びただけでも幸運と言えるほどの、壊滅的な打撃を受けたのでした。一方で、御門たち月の民の側はほとんど被害は出ておらず、まさに、阿部と御門が描いた通りの完勝でした。
ところが、月の民の完勝であるこの戦いは、大伴達に大きな代償を要求したのでした。あらかじめ、秋田からは「儀式によって月の巫女にどのような影響があるかわからない」と聞かされてはいたのですが、想像することを避けていた、最悪の事態が起きてしまったのでした。
弱竹姫が消えてしまったのです。
儀式の最後に、弱竹姫は立ち上がって唄を歌いあげると、天から自分を吊り下げていた糸がぷつりと切れたかのように、祭壇の上に崩れ落ちました。そして、大きな声をあげて大伴や阿部が走り寄るその目の前で、その身体はどんどんと透き通っていき、最後には消えてなくなってしまったのです。そうです、祭壇の上には、光を発しなくなった竜の玉とその台の他には、もうなにもなくなってしまったのでした。
「消えてしまったんですか? 月に還られたのではないのですか?」
羽磋は驚きの声を上げました。先代の月の巫女(もっとも、竹姫は貴霜族が月の巫女と呼んでいるだけで、まだ、正式な月の巫女ではないのですが)が、烏達渓谷の戦いで月に還ったということは聞いたことがありますが、消えてしまったということは、今初めて聴いた事柄でした。
「ああ、消えてしまったのだ。跡形も無くな。だが、お前が知らぬのも当然のことだ。これは、儀式の場にいた阿部殿、俺、秋田、そして、わずかな警備のものしか知らぬことだ。ああ、もちろん御門殿もご存知だがな。警備のものについては、秋田がこの話を漏らすと精霊のお怒りを買って本人を含む一族全般に災厄が訪れると、きつく言い含めていたのでな、広がっていないのだろう」
大伴は、あまり感情のこもらない、いや、感情を押し殺したような声で説明をしました。ただ、大伴も知らぬことではあるのですが、この話が広がっていないもう一つの理由として、その場にいた警備のものたちは、御門と阿部の秘かな手配によって、遠くパルティアの地へ向かう交易隊に配置替えとなり月の民から切り離されていた、ということもあるのでした。
「しかし、消えてしまったとは‥‥‥」
「いや、その場にいた俺や阿部殿、そして、秋田でさえ、そのようなことは想像もしていなかったのだ。何らかのこと、そう、万が一のことがあって、月に還られることがあるのではないか、という漠然とした不安を抱いていたのは事実だが、まさか、消えてしまうなどとは、な」
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