月の砂漠のかぐや姫

くにん

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月の砂漠のかぐや姫 第32話

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 そして、羽が選択した言葉は、正確に竹姫の心の中心を貫き通しました。
 「竹姫」。この言葉を羽が口にしたことが、これまでにあったでしょうか。いいえ、羽はこれまでにこの言葉を口にしたことは、一度もありませんでした。それは竹姫を人々の中から排除する言葉、彼女を追い詰める言葉であることを、羽は幼少の頃から認識していたのですから。そのため、二人がどんなに喧嘩をした時でも、羽が竹姫を呼ぶ言葉は、愛称である「竹」だったのです。どんなに竹姫に対して腹を立てたときでも、その言葉だけは口にしなかったのです。
 しかし、その言葉が、今、自分が竹姫に拒絶されたと感じた羽の口から、産み落とされてしまったのでした。
「羽‥‥‥」
 竹姫は、何も言うことができませんでした。竹姫は、いつの間にか、両肩をさすっていた手で、ぎゅっと自分を抱きしめていました。
 自分の発した言葉で心を傷つけられて何も言えなくなってしまった、そんな竹姫の姿を見ても、いえ、見たからこそ、もう羽は自分を止めることができなくなっていました。自分の発した言葉やそれに対する相手の反応で加速度的に心を高ぶらせてしまう、子供の喧嘩でよく見られる心理状況に落ちいっていたのです。このような状態になってしまうと、もう自分で自分の制御はできません。行きつくところまで行くしかないのです。羽は、自分の腹の底にたまっているものを、思いつくまま全て竹姫にぶつけました。
「ええ、竹姫。今まで失礼ばかりしてすみませんでした。俺ごときが、竹姫と一緒に旅をして回るなんて、大それた夢を持ってしまいました。竹姫が行きたいところに俺が連れて行ってやる、いろんな世界を二人で見て回る、それが俺の夢だったんです。でもいいんです。全部忘れてください。竹姫がそれを喜んでくれて、「約束だよ」と言ってくれた、それは二人の夢で二人だけの秘密だなんて、舞い上がっていた俺が馬鹿でした。月の巫女と秘密を持つなんてありえないですよね。あーもうっ、その約束の証に名前を贈るなんて、俺は、俺はっ。すみません、すみません、すみませんでしたっ」
 羽は、もう竹姫の方を見ることはできませんでした。自分の足元を見下ろしながら、感情に押されるがまま一気にそれだけの言葉を吐き出すと、羽は後ろを向いて走り出しました。
 羽は、それ以上竹姫の前にいることが、できなかったのでした。なぜなら、多くの子供たちと同様に、自分の腹の底にたまっていたものを、言葉という形で相手に投げつけているにしても、その途中の頃からは、気づき始めていたのです。自分のやっていることが、いわゆる「八つ当たり」だということが。ただ、わかったとしても、自分の感情の迸りを止める手段を、まだ十二歳に過ぎない彼は持っていなかったのです。羽は、自分の感情を制御できずに、竹姫に対して刃物のような言葉をぶつけながらも、そんな自分を恥ずかしく思い、走り去らずにはいられなかったのでした。

「羽‥‥‥」
 竹姫は、走り去っていく羽を、目で追うことしかできませんでした。
 羽が自分の前で話したこと全てを、呑み込めたわけではありません。むしろ、耳で聞いてはいても心では全く理解できていませんでした。ある言葉の衝撃があまりにも大きすぎて、他の言葉が霞んでしまっていました。
 羽が自分のことを「竹姫」と呼んだのです。羽が「竹姫」と。
 幼少の頃から、羽だけは自分のことを「竹」と呼んでくれていました。それは、約束したわけでもお願いしたわけでもなかったのですが、竹姫にとっては、自分と世界とをつなぐ数少ない心のよりどころの一つだったのです。
 自分のことを「人外の存在」と呼ぶ竹姫でしたが、本当は心の底でそれを淋しく思い、自分も皆と同じように過ごしたいと思っていたのです。そのような竹姫が、自分を「月の巫女」として特別扱いして「竹姫」と呼ぶのではなく、他の仲間に呼び掛けるように愛称で「竹」と呼んでくれる羽にどれほど救われていたのか、考えることもできないほどでした。
 でも、竹姫にとってはなぜだかわからない理由で怒ってしまった羽は、自分のことを「竹姫」と呼んだのです。竹姫は、いつでも、いつまでも、自分の傍にいてくれると考えていた羽が、自分とつないでいた手を離して、自分と一線を引いて暮らしている人々がいる方へ走り去ってしまったように思えました。
 竹姫の心の中で、彼女は一人になってしまいました。みんなは遠く離れたところで、竹姫をじっと見ています。それは、確かに暖かなまなざしで、畏敬の念が込められたものでもありましたが、決して、自分たちの友人を見るときのものではありません。今まで、手をつないで自分の傍らにいてくれていた羽は、その手を振りほどいて皆のところへ走り去ってしまいました。皆と合流した羽は、ゆっくりとこちらを振り向きました。みんなも、羽も、竹姫を見つめるその表情は柔和で優しそうです。そう、まるで、大切なお客人を迎えるときのように。そして皆で声をそろえて、こういうのです。「どうかされましたか、竹姫」と。
 ゴビの一角に建てられた宿営地に降り注ぐ朝の陽ざしの中、一人残された竹姫はぶるぶるっと体を震わせました。竹姫は泣いてはいませんでした。ただ、あたかも何者かから自分の身を守るかのように、その両腕はしっかりと自分の両肩を掴んでいました。何故でしょうか、とてもとても寒くて、胸の奥がしきりに痛みを訴えるのでした。
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