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月の砂漠のかぐや姫 第24話
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やがて、渓谷中に広がった、月を間近で見るかのごときその強い光は、少しずつ少しづつ力を弱めていきました。でも、最後にその光が収まった先は、元の竜の玉ではありませんでした。今、柔らかな白黄色の光を放っているもの、それは、竜の玉を前に座っている、白い羽衣を身にまとった弱竹姫の実体でした。
弱竹姫の意識体が見守る中で、弱竹姫の実体はか細い声で唄を歌い始めました。それは、弱竹姫が意識したものではありません。もはや、風の中で揺蕩っているものと、祭壇の上で鎮座しているものには何のつながりもないとでも言うかのように、あるいは、その身体に新しい意識が生まれたかのように、身体がひとりでに歌声をあげているのでした。
その唄はとても小さな細い声で歌われたのですが、不思議なことに、細長く伸びた谷の至る所にまで、風によって運ばれていきました。それは、とても優しい、でも、とても哀しい響きの唄でした。
旧き友。長い間会っていなかった友。
孤独な友。自分は忘れられたものと諦めている友。
だけれども、私は貴方を忘れていない。貴方と共に在るよ。
その唄の詩は、旧き友に語り掛けるような内容でした。
なんども繰り返し歌われるその唄は、大伴や阿部の張り詰めた心を静かに揺さぶりました。祭壇の周囲の兵たちの表情も、懐かしい過去を思い出しているときのように、落ち着いたものになっていました。いつしか、彼らは、今、自分がどこに在るのか、何をしているのかも忘れ、唄と共に自分の心がこの渓谷に広がっていくかのように感じ始めました。
祭壇の上には、輝きを無くしてただの岩のようになった竜の玉を前に、うっすらと白黄色に輝く弱竹姫が座り、小さな声で歌い続けています。
ゆっくりと、ゆっくりと。繰り返し、繰り返し。
祭壇の周囲に立てられた旗竿の先には、細長い布が結び付けられていました。それは、唄が始まる前は、谷の奥側、つまり山の上の方へと風に流されていましたが、今ではだらりと垂れ下がっています。まるで、風までもがその動きを止めて弱竹姫の唄に聴き入っているかのようでした。
その様子を祭壇の上から見守っている弱竹姫の意識体も、自分の実体が歌うどこか懐かしい唄に、すっかり心を奪われていました。旧き友、懐かしき友。自分も、昔どこかで、このような友を持っていたのでしょうか‥‥‥。
その優しい唄のお陰か、ここ数日で初めて心穏やかであった弱竹姫ですが、突然、自分の記憶に違和感を覚えました。
「あれ、昔、私は何をしていたの? なに、どうして、思い出せない」
思いだせないのです。昔の友の事だけでなく、子供の頃の自分のことが。それも、唄が何度も繰り返され時間が経つにつれて、思いだせることがどんどんと少なくなっていくのです。
「おかしい、おかしいわ。思い出せない。わからない。そう、私は、弱竹。私は、月の巫女。私はここで儀式をしているのよ。そして、私の友は、友は‥‥‥」
弱竹姫は、自分の心の中を必死で駆け巡り、これ以上消えてしまうことがないように記憶をかき集めました。でも、儀式が進むにつれて、拾い上げることができる記憶がどんどんと減っていくのです。さらには、拾い上げたもの、思い出せたものも、いつの間にか、弱竹姫の手のひらの上から消え去っていくのです。
怖い、怖い、怖い。それは、今まで弱竹姫が感じたことのない、根源的な恐怖でした。
「私は弱竹。私は弱竹。私は弱竹」
弱竹姫は何かに縋り付きたくて自分の名前を唱え続けました。自分の記憶が、自分の存在が、今、消えていこうとしているのです。このままだと、どうなるのだろう。わたしは、わたしは弱竹。わたしは弱竹。わたしは、大伴殿や阿部殿にもう一度会いたい弱竹なのに、わたしは、わたしは‥‥‥。
必死に記憶をつなぎとめようとする弱竹姫でしたが、弱竹姫の記憶は少しずつ消え去ろうとしていました。同時に、弱竹姫の意識体も、段々とその姿が薄らいできていました。その一方で、まるで、弱竹姫の記憶を喰って力としているかのように、弱竹姫の身体は途切れることなく唄を歌い続けているのでした。
今、風が動き始めました。先ほどまでとは、風の向きが異なります。谷の入口から山の上へと吹き上げられていた風は、山から谷の入口へと吹き降ろす風へ変化していました。
旗竿に結び付けられた細布が、風に吹かれて踊り始めました。徐々に強くなる風の流れの中で、旗竿の細布は幾匹もの白黄色の魚になって、山に顔を向けて力強く泳ぎだしました。祭壇の上から弱竹姫の唄は流れ続けていますが、風が強くなるのに歩調を合わせるかのように、徐々にその歌声は大きくなってきました。
「私、私が消える。私は、私は・・・・・・誰・・・・・・」
弱竹姫は、もはや自分が誰なのか、それすらも思い出せなくなっていました。
やがて、祭壇から流れる歌声がこれまでで一番大きくなりました。弱竹姫の実体は立ち上がり、唄の最後の一節を朗々と歌い上げると、天から身体を吊るしていた糸がぷつりと切れたかのように、どぅっと崩れ落ちました。
祭壇上空には、何もありません。草原から見上げた空は、山肌に切り取られて蒼い敷布のようです。そこには、雲一つ浮かんでいません。そして、もはやその青空のどこにも、弱竹姫の意識体は存在していませんでした。
烏達渓谷には、風が、山からの風が、強く吹き降ろしていました。
弱竹姫の意識体が見守る中で、弱竹姫の実体はか細い声で唄を歌い始めました。それは、弱竹姫が意識したものではありません。もはや、風の中で揺蕩っているものと、祭壇の上で鎮座しているものには何のつながりもないとでも言うかのように、あるいは、その身体に新しい意識が生まれたかのように、身体がひとりでに歌声をあげているのでした。
その唄はとても小さな細い声で歌われたのですが、不思議なことに、細長く伸びた谷の至る所にまで、風によって運ばれていきました。それは、とても優しい、でも、とても哀しい響きの唄でした。
旧き友。長い間会っていなかった友。
孤独な友。自分は忘れられたものと諦めている友。
だけれども、私は貴方を忘れていない。貴方と共に在るよ。
その唄の詩は、旧き友に語り掛けるような内容でした。
なんども繰り返し歌われるその唄は、大伴や阿部の張り詰めた心を静かに揺さぶりました。祭壇の周囲の兵たちの表情も、懐かしい過去を思い出しているときのように、落ち着いたものになっていました。いつしか、彼らは、今、自分がどこに在るのか、何をしているのかも忘れ、唄と共に自分の心がこの渓谷に広がっていくかのように感じ始めました。
祭壇の上には、輝きを無くしてただの岩のようになった竜の玉を前に、うっすらと白黄色に輝く弱竹姫が座り、小さな声で歌い続けています。
ゆっくりと、ゆっくりと。繰り返し、繰り返し。
祭壇の周囲に立てられた旗竿の先には、細長い布が結び付けられていました。それは、唄が始まる前は、谷の奥側、つまり山の上の方へと風に流されていましたが、今ではだらりと垂れ下がっています。まるで、風までもがその動きを止めて弱竹姫の唄に聴き入っているかのようでした。
その様子を祭壇の上から見守っている弱竹姫の意識体も、自分の実体が歌うどこか懐かしい唄に、すっかり心を奪われていました。旧き友、懐かしき友。自分も、昔どこかで、このような友を持っていたのでしょうか‥‥‥。
その優しい唄のお陰か、ここ数日で初めて心穏やかであった弱竹姫ですが、突然、自分の記憶に違和感を覚えました。
「あれ、昔、私は何をしていたの? なに、どうして、思い出せない」
思いだせないのです。昔の友の事だけでなく、子供の頃の自分のことが。それも、唄が何度も繰り返され時間が経つにつれて、思いだせることがどんどんと少なくなっていくのです。
「おかしい、おかしいわ。思い出せない。わからない。そう、私は、弱竹。私は、月の巫女。私はここで儀式をしているのよ。そして、私の友は、友は‥‥‥」
弱竹姫は、自分の心の中を必死で駆け巡り、これ以上消えてしまうことがないように記憶をかき集めました。でも、儀式が進むにつれて、拾い上げることができる記憶がどんどんと減っていくのです。さらには、拾い上げたもの、思い出せたものも、いつの間にか、弱竹姫の手のひらの上から消え去っていくのです。
怖い、怖い、怖い。それは、今まで弱竹姫が感じたことのない、根源的な恐怖でした。
「私は弱竹。私は弱竹。私は弱竹」
弱竹姫は何かに縋り付きたくて自分の名前を唱え続けました。自分の記憶が、自分の存在が、今、消えていこうとしているのです。このままだと、どうなるのだろう。わたしは、わたしは弱竹。わたしは弱竹。わたしは、大伴殿や阿部殿にもう一度会いたい弱竹なのに、わたしは、わたしは‥‥‥。
必死に記憶をつなぎとめようとする弱竹姫でしたが、弱竹姫の記憶は少しずつ消え去ろうとしていました。同時に、弱竹姫の意識体も、段々とその姿が薄らいできていました。その一方で、まるで、弱竹姫の記憶を喰って力としているかのように、弱竹姫の身体は途切れることなく唄を歌い続けているのでした。
今、風が動き始めました。先ほどまでとは、風の向きが異なります。谷の入口から山の上へと吹き上げられていた風は、山から谷の入口へと吹き降ろす風へ変化していました。
旗竿に結び付けられた細布が、風に吹かれて踊り始めました。徐々に強くなる風の流れの中で、旗竿の細布は幾匹もの白黄色の魚になって、山に顔を向けて力強く泳ぎだしました。祭壇の上から弱竹姫の唄は流れ続けていますが、風が強くなるのに歩調を合わせるかのように、徐々にその歌声は大きくなってきました。
「私、私が消える。私は、私は・・・・・・誰・・・・・・」
弱竹姫は、もはや自分が誰なのか、それすらも思い出せなくなっていました。
やがて、祭壇から流れる歌声がこれまでで一番大きくなりました。弱竹姫の実体は立ち上がり、唄の最後の一節を朗々と歌い上げると、天から身体を吊るしていた糸がぷつりと切れたかのように、どぅっと崩れ落ちました。
祭壇上空には、何もありません。草原から見上げた空は、山肌に切り取られて蒼い敷布のようです。そこには、雲一つ浮かんでいません。そして、もはやその青空のどこにも、弱竹姫の意識体は存在していませんでした。
烏達渓谷には、風が、山からの風が、強く吹き降ろしていました。
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