月の砂漠のかぐや姫

くにん

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月の砂漠のかぐや姫 第2話

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 村人から尊敬を込めて翁と呼ばれる老人は、竹林で拾った赤子を白衣に包んで連れ帰り、大切に育てることにしました。
 でも、翁の妻も彼と同じ年頃でしたから、赤子に乳を与えることはできません。そこで、翁は、讃岐の村で最近子供を産んだ女を探し、乳母とすることにしました。見つかったのは、有隣という名の女性でした。彼女は、讃岐の村が所属する貴霜族の大伴という若者の妻で、ちょうど半年ほど前に男児を出産したところでした。
 月の民は、子供が成人するまでの間は、正式な名をつけませんでした。病気などの理由で幼いうちに命を落とす子が多く、成人した時をもって名を与え、正式に一族に迎えることとしていたのです。
 子供たちは、生まれた家の父の名にちなみ、男の子であれば「だれだれの一郎」あるいは「二郎」などと呼ばれ、女の子であれば「だれだれの一女」あるいは「二女」などと呼ばれました。近しい仲の間では、男親の名で呼んだりあだ名のようなもので呼んだりすることも、珍しくはありませんでしたが。
 竹林で翁に拾われた赤子は、女の子でした。翁と彼の妻には子供がないこともあったせいか、女の子をそれはそれは大切に育てました。女の子は、月の民の慣習からすれば「造麻呂の一女」と呼ばれるところでしたが、多くの人からは、拾われた場所にちなんだのか「竹姫」と呼ばれていました。
 翁の一日は「昨日は竹姫はよくお休みだったかね」と有隣に尋ねることから始まりました。日中は自分で竹姫をあやしたり抱いたりして過ごしました。赤子には夜中も授乳が必要なために、夜休む際に有隣に竹姫を預けるときには、何度も「なにかあった時にはすぐに声をかけるように」と確認し、竹姫の頬をさすってから、部屋に下がるほどでした。
 翁を始め、竹林から突然現れた竹姫を、不思議にこそ思え気味悪く捉える者は、村にはおりませんでした。神々や精霊と人間との距離が近くて、神隠しや奇跡などに触れる機会があった時代ですし、神域から現われた赤子は、村人にはむしろ吉兆とさえ感じられたのかもしれません。そして、なにより、竹姫はとてもかわいらしい赤子だったのでした。心の中に暗い思いを抱えている人でも、竹姫の笑顔を見ると、心の闇夜が晴れて清らかな満月で照らされるかのような思いがするのでした。また、放牧を主な生業とする月の民の中では珍しく、讃岐の村には、祁連山脈から流れ出る水脈を活かして小麦などを育てる農夫が多く暮らしていましたが、夕刻に翁の腕の中で眠る竹姫の寝顔を見ると、一日の疲れが吹き飛んでしまうようでした。

 それからは竹姫を中心にして数か月がまるで数日のように過ぎました。
 そして、初夏のある日のことです。
「おーい、遊牧に出ていた連中が帰ってきたぞぉ」
 高台で農作業をしていた村人の一人が、大きな声をあげました。
 月の民は、たくさんの遊牧民族が集まった国でした。いくつもの部族のなかでも特に大きな五つの部族、すなわち、休蜜(キュウミ)族、双蘼(シュアミ)族、肸頓(キドン)族、貴霜(クシャン)族及び都密(ヅミ)族の中から選ばれた単于と呼ばれる王が、国全体を動かしていました。
 当時の王は、双蘼族から選ばれた御門という男でした。大事なことは、一年に数度各部族の代表者が集まって、大集会を開き決定していました。月の民は主に羊や馬などを遊牧して暮らしているので、部族によって場所に違いはあるものの、羊たちに食べさせる草を求めて季節により生活する場所を変えるのですが、一方で、遊牧生活せずに、讃岐の村のように作物を育て定住する、農耕を中心とした村も幾つか存在していました。彼らは、同じ部族の中で、農耕生活の者は小麦等の作物を、遊牧生活する者は肉、乳製品、羊毛などを提供しあい、一体として暮らしていたのでした。さらに、月の民の中には、東の秦(中国)、南の天竺(インド)、西の安息(ペルシア)などと交易をおこなう者までおりました。
 貴霜族は主にゴビの東側を中心にして遊牧を行っていましたが、夏の間はゴビに照り付ける太陽の熱射を避け、祁連山脈の間に広がる冷涼な祁連草原で遊牧を行うこととしていました。讃岐の村は、祁連山脈を北から南へ通り抜ける経路のちょうど入口にあることから、貴霜族の遊牧隊はこの移動の機会に村に立ち寄り、休憩や物の交換を行うこととしていました。もちろん、これは遊牧に出ている者と村に残っている者との、貴重な交流の機会でもありましたので、数日前から、村人は遊牧の群れの姿が見えないものかと辺りを気にして、そわそわとしていたのでした。
「やっと帰ってきたか!」
「久しぶりに、あいつに会えるなぁ」
 村人はそれぞれの作業の手を止めて高台に集まり、まだ、遠くにポツンポツンと見えるだけの小さな羊や馬の群れを指さしたり眺めたりして、騒ぎ立てました。中には、家の中から、赤子を抱いて出てきた女性もいました。月の民では、身重の女性は厳しい遊牧生活には連れて行かずに、村に残して出産に備えさせることとしていたので、このような機会に初めて父が自分の子の顔を見ることになることが多いのでした。有隣もそうした出産に備えて村に残った女性の一人だったのでした。
 赤子を連れた女性は、初めて赤子の顔を夫に見せられる喜びと、その時にどんな顔を夫が見せるだろうかという想像で胸がいっぱいでした。また、別の者は、久しぶりに会う友の顔と声を思い出していました。遊牧に出た息子を久々に手料理でもてなそうと喜ぶ老夫婦もいましたし、体調を崩して村で休んでいたもののこの機会に遊牧隊に戻ることを熱望している若者もおりました。そう、讃岐の村人たちは皆、久しぶりの放牧隊の帰村の喜びに、文字通り沸きかえっていたのでした。
「今夜は、宴だ!」
 誰かが叫びました。
「おおぅ!」
「あいつら馬乳酒しか飲んでないだろう。村のとっておきの麦酒を出すか」
 人々は、嬉しさで興奮していました。
「さあ、今のうちに作業を片付けてしまうよ」
「ああ。あとでゆっくりとあいつらと話ができるようにな」
「あんた、瓜を井戸におろして冷やしておいておくれ。この村は祁連様のお陰で冷たい水があるからね。あの子に冷たいものを食べさせてやろう」

 人々がざわめくその間にも、遊牧隊が率いる家畜の群れは少しずつ少しずつですが大きくなり、やがて人影や天幕や物資を運ぶ荷車の姿も見えてくるようになるのでした。

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