幽霊居酒屋『ゆう』のお品書き~ほっこり・じんわり大賞受賞作~

及川 輝新

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9品目:あなたのためのチキン南蛮(550円)

(9-1)初恋

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 八年前のあの日、僕は一人の教育実習生に恋をした。

 一か月前のあの日、僕は奈落の底に突き落とされた。

 ところが落下地点にあったのは、地獄ではなく楽園だった。



 アルコール休憩を挟みながら、ひと月かけてそこから少しずつ這い上がっていった。ようやく光が見えてきたところだった。

 崖を登り切った先にあるのは希望か、絶望か。あるいは、大地にはもう何も残っていないかもしれない。完全なる虚無。地の底でのんびり生涯を終えればよかったと後悔するかもしれない。

 それでもいいのだ。大事なのは、ちゃんと向き合うこと。戦うか逃げるか第三の道を選ぶかは、その時に初めて考えればいい。考えれば考えるほど躊躇してしまうのがオチだ。

「なーんて」

 これから僕がやろうとしていることは、きっと大したことじゃない。大人になる過程で、多くの人が通る道。ちょっと状況が特殊なだけで。

 だからちっとも緊張する必要なんてない。心臓が騒がしい理由は、単に約二週間ぶりの訪問だからに違いない。僕はいつもと同じく、ビールやから揚げや飲み友達と会うのを楽しみに、能天気に扉を開けるだけでいい。

「こんばんは!」

 声が大きかったからか、客の視線が一斉に集まってくる。

「おう、ユッキー!」
「行真くん久しぶりー」
「もう来ないかと思ったぞー」

 顔なじみの人たちに挨拶をして、厨房を向く。

「いらっしゃい、行真」

 ユウさんの控えめな笑みには、安堵の色が含まれていた。

「一人なんですけど、入れますか?」
「いつもの席が空いてるよ」

 L字カウンターの奥に移動する途中で店内を見回したが、望海さんの姿はない。



「望海さんが来るのはいつも零時半ごろだよ」



 奥の席には見慣れた先客がいた。手元にはヨッポロビールといぶりがっこクリームチーズ。相変わらず女子高生にあるまじき構図だ。

「久しぶり、マナ」
「昨日ユッキーの家で会ったばかりじゃん」

 そう言いつつも、マナは嬉しそうだ。

「僕もとりあえずビールを、プレモルで」
「はいよ」

 ユウさんが慣れた手つきでサーバーからビールを注ぐ。久しぶりの来店だからか、一人しかいない厨房はやけに広く感じる。

「プレモルお待たせしました~」

 黄金比のビールがすぐに運ばれてくる。

「ありがとう、アイハ」
「今日は頑張ってくださいね」

 主語は何か、訊くまでもない。カントリー調のエプロンドレスをふわりとたなびかせ、アイハはテーブル席に注文を取りにいった。

「では、久々の再開を祝って、乾杯」
「だから昨日も会ったって。乾杯」

 ジョッキを合わせ、ぐぐっと中身を胃に注いでいく。

 うまい。やっぱりビールは最高だ。

「前から失礼するよ、今日のお通しだ」

 薄切りチーズのような色と形をしたものが二切れ。乳製品とは異なる発酵のにおいがする。割りばしで小さく切って口内へ。

 甘くてしょっぱい。味噌の風味だ。薄黄色のスライス食品の正体は、チーズではなく豆腐だった。これは豆腐の味噌漬けだ。味噌の強い香りや濃い味に負けることなく、豆腐も舌の上で存在感をしっかり主張している。原材料は同じなのに相殺せず、互いのよさを引き立てていた。

「……あと、これも受け取ってくれ」

 ユウさんがためらいがちに差し出したのは、片手サイズの青い封筒だった。

「預かりものだ。行真に渡してくれと頼まれた」

 箸を置き、両手で受け取る。裏の署名を見て、僕は目を見開いた。

「イオリさん……?」





 このお店で一度だけ顔を合わせたことがある、雑誌記者の女性だ。理想と現実の間でもがき苦しむ彼女に梅茶漬けをご馳走したのだが、直接会話をしたのはわずかで、手紙をもらう理由が思い当たらない。

「先月、駅前の漬物屋で会ったんだ。偶然かと思ったが、彼女はずっと私が来るのを待っていたらしい。この封筒を行真に託してほしいと」

 霊感を持たず、生きる活力を取り戻したイオリさんは、きっと『ゆう』にたどり着けなかったのだろう。



「ここには、望海すみかの死の真相が書かれている」
「っ!」



 突如出てきた名前に、思わず身構えてしまう。

「おおむねの内容は彼女から聞いている。事が事だけに、渡すタイミングを見計らっていたんだ。あの頃の行真は、望海すみかが亡くなっていることすら知らないはずだったから」

 僕は失恋の傷を癒すべく、望海さんのことを忘れようとしていた。マナをはじめとするお客さんたちも後押ししてくれた。それが結果的に、ユウさんに手紙のことを打ち明けづらくさせていたのだ。

「そんな中、望海すみかがここに現れた。もっと早く渡していれば、君に与えるショックも少なくて済んだかもしれないのに。隠すような形になってしまい、すまなかった」

 カウンターを挟んで、ユウさんが深々と頭を下げる。

 前回お店を訪れた際、ユウさんの様子がおかしかった理由を理解した。僕に何度も手紙を渡そうとして、そのたびに迷い、気づかい、当惑し、手を引っ込めていたのだ。

「……謝る必要なんてないですよ。むしろ謝るのは僕の方だ」

 ユウさんもただの一人の人間であることは、サシ飲みの時にわかっていたはずなんだ。それなのに、幽霊相手に堂々と商売をするこの人を、心のどこかで上に見ていたのかもしれない。それが知らず知らずのうちに伝わってしまい、プレッシャーになっていたんだ。

「僕の方こそ、来るのが遅くなってすみません。手紙は確かに受け取りました」



 ここからは僕が頑張る番だ。

 手が小さく震えている。これは恐怖だ。僕は死の真相を知るのが怖い。

 もしも望海さんの死因が自殺だったら。その理由が淫行に起因するものだとしたら。自分はこの世から逃げたのだと、本人に思い出させないといけないとしたら。青黒い感情がじわじわと、心臓を侵食していく。負けそうになる。押しつぶされそうになる。

 ふと、手紙を握る手に温もりが宿った。

 左隣を見やると、マナが僕の両手を包み込んでいた。

「……負けないで」

 どこまでも真っ直ぐで、純真な瞳だった。

 体温を持たないはずのマナの温かさ。そうか、これは心の温度だ。



 これさえあれば、僕は。



 意を決して、僕は二つ折りの手紙を開いた。
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