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8品目:宅飲み、押しかけ、チーズたら(298円)
(8-1)不穏
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九月の二週目に入っても夏はまだまだ終わらない。残暑と呼ぶには早すぎる。その証拠に、本日三杯目のビールもするすると、胃という滝壺に流れ落ちていく。
「……はぁ」
ジョッキを空けると、思わず息が漏れた。
これはおいしいため息ではない。もちろんユウさんの淹れたビールは今日も美味で、泡との比率も絶妙だ。
でも、そうじゃなくて。
「ユッキー、来ないなぁ」
右隣は今日も空席だ。
彼とはもう十日以上顔を合わせていない。ケンカをしたわけでも他にお気に入りのお店を見つけたわけでもないと思う。
そう、原因はわかりきっている。
八月末日の深夜一時過ぎ、ようやく二日酔いから脱したわたしはいつものように『ゆう』を訪れた。
彼は来ているだろうか。今日は何を一緒に食べよう。教員試験の勉強は順調かな。数日おきに会っているのに、やりたいこと、訊きたいこと、話したいことは尽きない。
ドアを開くと、目の前のテーブル席に彼はいた。
カウンター席に座っていないことにも驚いたが、さらに意外だったのは、彼が相席をしていたことだ。相手はジョーさんでもイオリさんでもない、スーツ姿の見知らぬ人物だった。
六分咲きの花のような控えめな笑みを浮かべる女性は、大人っぽくもあり、子どもっぽくも見えた。年齢は二十代後半くらいだろうか。座る姿勢は美しく、どことなく気品がある。日頃から他人の目線を意識しているような印象だ。
彼がこちらを振り向いた。
「……よ、マナ」
その顔に、わたしは凍りついた。
左右非対称な眉。眇めた瞳。不自然に吊り上がった唇。
泣き出すのを必死に堪えるように、無理やり笑顔を作っていたのだ。
その瞬間、わたしはすべてを悟った。この女の人が誰なのか。どういう状況なのか。
「こんばんは。行真さんのお友達ですか?」
女性は膝を曲げ、中腰の状態でわたしに挨拶をする。
「私は……あぁ、そうだ、わからないんでした。ごめんなさい。私ってば、自分の死因も職業も、何も思い出せないんです。ここは私と似た境遇の人たちが集まる場所だって、さっき行真さんに教えてもらって」
「……ユッキー、これって……」
溌剌さと落ち着きを伴った、女子高生とも女子大生とも異なる明るい雰囲気をまとっている。それなのにこの人からは生きた人間特有のオーラをまるで感じない。
つまりは幽霊。
彼のかつての想い人、望海すみかさんは、死んでいた。
以前にアイハさんが言っていた。幽霊には三種類いると。
タイプA、死んだことを自覚しており、自分が誰で、どうして死んだのかも知っている。
タイプB、死んだ自覚だけがなく、あたかも生きているように振る舞っている。
タイプC、死んだ自覚どころか、自分が誰なのかもわからない。
この女性は、紛れもないタイプCだ。
肩まで伸びた黒のポニーテールは艶やかで、桜色の唇も潤っている。瞳は生気に満ち溢れ、見るもの、触れるもののすべてが新鮮、といった風に爛々としている。まるで異国の地に初めて降り立った観光客のようだ。街中に紛れていたら、彼女がよもや幽霊だと思う人はいないだろう。
わたしが入り口で立ち尽くしていると、ふいに彼が腰を上げる。
「ごめん、マナ。今日は帰るよ。アイハ、お会計」
「でもユッキー、この人」
「……ごめん」
財布から乱暴に取り出した一万円札をアイハさんに渡して、彼は逃げるようにお店を去っていった。
彼女が来店してから、二人でどれくらい話したのだろう。訊きたいこと、言いたいこと、確かめたいことは山のようにあったはずだ。ただ、記憶がなければ咎めることも糾弾することもできない。
彼が初めて『ゆう』を訪れた日。若い男の人に緊張していたわたしは酒の勢いを借りて、彼に失恋の経緯を尋ねた。
望海すみかという教師は、複数の教え子と関係を持ち、学校を追放されたという。それが本当ならわたしはいち生徒として、女性として、人として軽蔑する。潔癖とか考えすぎとか言われようと、それが本心だ。
この人が職を失った後に亡くなったのだとしたら、死因が病気や他殺とは思えない。
自殺。
不穏な二文字が、わたしの心を渦巻き始める。
聖職者としての地位を失い、友人や家族からも侮蔑の眼差しを浴び、孤立の果てに自死を選んだのだとしたら。彼もそんな想像をしてしまったからこそ、これ以上この場にいられなかったのだろう。
「ねえ、マナさん」
女性……望海さんが、小さく手招きをする。
「あなた、行真さんの友達なんでしょう?」
「……そうですけど」
「よかったら一緒に飲まない?」
これは罠か、はたまた無神経か、天然か。
戸惑ったり考えたりするだけ無駄だ。今すべきなのは、判断に足る材料を集めること。
先ほどまで彼がいた席に座り、わたしは望海さんと向かい合う。
「わたしも一度、あなたと話してみたかったんです」
「……はぁ」
ジョッキを空けると、思わず息が漏れた。
これはおいしいため息ではない。もちろんユウさんの淹れたビールは今日も美味で、泡との比率も絶妙だ。
でも、そうじゃなくて。
「ユッキー、来ないなぁ」
右隣は今日も空席だ。
彼とはもう十日以上顔を合わせていない。ケンカをしたわけでも他にお気に入りのお店を見つけたわけでもないと思う。
そう、原因はわかりきっている。
八月末日の深夜一時過ぎ、ようやく二日酔いから脱したわたしはいつものように『ゆう』を訪れた。
彼は来ているだろうか。今日は何を一緒に食べよう。教員試験の勉強は順調かな。数日おきに会っているのに、やりたいこと、訊きたいこと、話したいことは尽きない。
ドアを開くと、目の前のテーブル席に彼はいた。
カウンター席に座っていないことにも驚いたが、さらに意外だったのは、彼が相席をしていたことだ。相手はジョーさんでもイオリさんでもない、スーツ姿の見知らぬ人物だった。
六分咲きの花のような控えめな笑みを浮かべる女性は、大人っぽくもあり、子どもっぽくも見えた。年齢は二十代後半くらいだろうか。座る姿勢は美しく、どことなく気品がある。日頃から他人の目線を意識しているような印象だ。
彼がこちらを振り向いた。
「……よ、マナ」
その顔に、わたしは凍りついた。
左右非対称な眉。眇めた瞳。不自然に吊り上がった唇。
泣き出すのを必死に堪えるように、無理やり笑顔を作っていたのだ。
その瞬間、わたしはすべてを悟った。この女の人が誰なのか。どういう状況なのか。
「こんばんは。行真さんのお友達ですか?」
女性は膝を曲げ、中腰の状態でわたしに挨拶をする。
「私は……あぁ、そうだ、わからないんでした。ごめんなさい。私ってば、自分の死因も職業も、何も思い出せないんです。ここは私と似た境遇の人たちが集まる場所だって、さっき行真さんに教えてもらって」
「……ユッキー、これって……」
溌剌さと落ち着きを伴った、女子高生とも女子大生とも異なる明るい雰囲気をまとっている。それなのにこの人からは生きた人間特有のオーラをまるで感じない。
つまりは幽霊。
彼のかつての想い人、望海すみかさんは、死んでいた。
以前にアイハさんが言っていた。幽霊には三種類いると。
タイプA、死んだことを自覚しており、自分が誰で、どうして死んだのかも知っている。
タイプB、死んだ自覚だけがなく、あたかも生きているように振る舞っている。
タイプC、死んだ自覚どころか、自分が誰なのかもわからない。
この女性は、紛れもないタイプCだ。
肩まで伸びた黒のポニーテールは艶やかで、桜色の唇も潤っている。瞳は生気に満ち溢れ、見るもの、触れるもののすべてが新鮮、といった風に爛々としている。まるで異国の地に初めて降り立った観光客のようだ。街中に紛れていたら、彼女がよもや幽霊だと思う人はいないだろう。
わたしが入り口で立ち尽くしていると、ふいに彼が腰を上げる。
「ごめん、マナ。今日は帰るよ。アイハ、お会計」
「でもユッキー、この人」
「……ごめん」
財布から乱暴に取り出した一万円札をアイハさんに渡して、彼は逃げるようにお店を去っていった。
彼女が来店してから、二人でどれくらい話したのだろう。訊きたいこと、言いたいこと、確かめたいことは山のようにあったはずだ。ただ、記憶がなければ咎めることも糾弾することもできない。
彼が初めて『ゆう』を訪れた日。若い男の人に緊張していたわたしは酒の勢いを借りて、彼に失恋の経緯を尋ねた。
望海すみかという教師は、複数の教え子と関係を持ち、学校を追放されたという。それが本当ならわたしはいち生徒として、女性として、人として軽蔑する。潔癖とか考えすぎとか言われようと、それが本心だ。
この人が職を失った後に亡くなったのだとしたら、死因が病気や他殺とは思えない。
自殺。
不穏な二文字が、わたしの心を渦巻き始める。
聖職者としての地位を失い、友人や家族からも侮蔑の眼差しを浴び、孤立の果てに自死を選んだのだとしたら。彼もそんな想像をしてしまったからこそ、これ以上この場にいられなかったのだろう。
「ねえ、マナさん」
女性……望海さんが、小さく手招きをする。
「あなた、行真さんの友達なんでしょう?」
「……そうですけど」
「よかったら一緒に飲まない?」
これは罠か、はたまた無神経か、天然か。
戸惑ったり考えたりするだけ無駄だ。今すべきなのは、判断に足る材料を集めること。
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