24 / 50
5品目:有る日のカレイの煮つけ(580円)
(5-3)最後の矜持
しおりを挟む
「……え?」
ジョッキを洗いながらユウさんが尋ねてくる。身を屈めているので表情はうかがえない。
「初めて来た日に言っていただろう。『死にたい』と」
失恋直後で我を失い、酒に逃げていた時のことを思い出す。
「……例えですよ。よく使う表現じゃないですか」
「いいや、君は本当に死にたがっていた」
「さすがにフラれたくらいでそこまでは……」
「君にとって、ただの片思いの相手ではなかったのだろう?」
流水がシンクを叩く音と、ジョッキをスポンジで磨く音が、はっきりと耳に届く。
「……なるべくネタとして昇華できるように振る舞ったつもりなんですけどね」
ユウさんの言う通りだ。
死にたいなんて冗談。一種の比喩。
それこそが嘘で、僕の最後の矜持だったのかもしれない。
僕はあの日、心の底から死を望んでいた。
ただの失恋であれば、もっと素直に泣きわめいたり愚痴ったりできたのかもしれない。
「大げさに言えば、僕にとって望海さんは神様のような存在だったんです」
根暗で一人ぼっちで、幽霊しか見えていなかった僕に、人と接するきっかけを与えてくれたのが望海さんだ。彼女と出会わなければ、今も僕は孤独なままだっただろう。教師なんて人と心を通わせる仕事を志すこともなく、引きこもりにでもなっていたかもしれない。
会話をする楽しさ、共感できる嬉しさ、片思いのもどかしさ、誰かのために頑張ろうとするひたむきさ、自分のために生きようと思える前向きさを教えてくれた望海さんのことが、僕は大好きだった。あの人さえいれば、僕は何でもできるような気がした。
だから彼女が淫行で教職を追われたと知った時、僕は心の支えを失った。
偶像視していたつもりはない。一人の女性が性欲を抱き、自慰やセックスをするなんて普通のことだ。
それでも、担任の言葉に感動し、それがきっかけで教師を目指した人が、複数の生徒と関係を持っていたという事実は、鉄球となり僕の支柱を真横から打ち砕いた。
一か月も経てば、ある程度は傷も癒えてきた。今さら別の仕事に就くつもりもない。僕は僕で、理想の教師を目指すだけだ。
「だからもう、大丈夫です」
「そうか」
タオルで手を拭き、ユウさんが口元だけで笑みを作る。
「知っての通り、この店はいわゆる幽霊居酒屋だ。普通の人間には知覚すらできない。ここに来る者はみな、生と死の境界が曖昧になっている」
「つまり人間の客は、もれなく死にたがりということですね」
初見の時点で心配されていたとは、なんだか申し訳ない。
「でも僕、今でもこのお店に通えていますが」
あまり考えたくないが、まだ自殺願望が拭えていないということだろうか。
「君はもう、『ゆう』に認知されてしまっているからな」
死を望んだ僕が『ゆう』を発見したように、『ゆう』もまた、再び生きようとする僕を捉えたということか。わかるようなわからないような理屈だが、幽霊要素に関係なく僕はこのお店が好きだ。料理も酒もおいしいし、初めての飲み友達もできた。河岸を変える理由は見当たらない。
「僕はこれからも、『ゆう』に通いますよ」
決意でも所信表明でもない、単なる報告。
それでも少し、照れくさい。
「……さて、そろそろ次の注文をしようかな!」
空気を切り替えるべく、セリフ口調とともに僕は黒板を見上げる。
生ものを食べたから、次はそれ以外で攻めたいところだ。『鳥ハム』か、『ごちゃ混ぜコロッケ』か、『炭火焼トマト』か。
だが僕は、黒板メニューの違和感にとっくに気づいていた。
今度はこちらが、嘘を暴くターンだ。
ジョッキを洗いながらユウさんが尋ねてくる。身を屈めているので表情はうかがえない。
「初めて来た日に言っていただろう。『死にたい』と」
失恋直後で我を失い、酒に逃げていた時のことを思い出す。
「……例えですよ。よく使う表現じゃないですか」
「いいや、君は本当に死にたがっていた」
「さすがにフラれたくらいでそこまでは……」
「君にとって、ただの片思いの相手ではなかったのだろう?」
流水がシンクを叩く音と、ジョッキをスポンジで磨く音が、はっきりと耳に届く。
「……なるべくネタとして昇華できるように振る舞ったつもりなんですけどね」
ユウさんの言う通りだ。
死にたいなんて冗談。一種の比喩。
それこそが嘘で、僕の最後の矜持だったのかもしれない。
僕はあの日、心の底から死を望んでいた。
ただの失恋であれば、もっと素直に泣きわめいたり愚痴ったりできたのかもしれない。
「大げさに言えば、僕にとって望海さんは神様のような存在だったんです」
根暗で一人ぼっちで、幽霊しか見えていなかった僕に、人と接するきっかけを与えてくれたのが望海さんだ。彼女と出会わなければ、今も僕は孤独なままだっただろう。教師なんて人と心を通わせる仕事を志すこともなく、引きこもりにでもなっていたかもしれない。
会話をする楽しさ、共感できる嬉しさ、片思いのもどかしさ、誰かのために頑張ろうとするひたむきさ、自分のために生きようと思える前向きさを教えてくれた望海さんのことが、僕は大好きだった。あの人さえいれば、僕は何でもできるような気がした。
だから彼女が淫行で教職を追われたと知った時、僕は心の支えを失った。
偶像視していたつもりはない。一人の女性が性欲を抱き、自慰やセックスをするなんて普通のことだ。
それでも、担任の言葉に感動し、それがきっかけで教師を目指した人が、複数の生徒と関係を持っていたという事実は、鉄球となり僕の支柱を真横から打ち砕いた。
一か月も経てば、ある程度は傷も癒えてきた。今さら別の仕事に就くつもりもない。僕は僕で、理想の教師を目指すだけだ。
「だからもう、大丈夫です」
「そうか」
タオルで手を拭き、ユウさんが口元だけで笑みを作る。
「知っての通り、この店はいわゆる幽霊居酒屋だ。普通の人間には知覚すらできない。ここに来る者はみな、生と死の境界が曖昧になっている」
「つまり人間の客は、もれなく死にたがりということですね」
初見の時点で心配されていたとは、なんだか申し訳ない。
「でも僕、今でもこのお店に通えていますが」
あまり考えたくないが、まだ自殺願望が拭えていないということだろうか。
「君はもう、『ゆう』に認知されてしまっているからな」
死を望んだ僕が『ゆう』を発見したように、『ゆう』もまた、再び生きようとする僕を捉えたということか。わかるようなわからないような理屈だが、幽霊要素に関係なく僕はこのお店が好きだ。料理も酒もおいしいし、初めての飲み友達もできた。河岸を変える理由は見当たらない。
「僕はこれからも、『ゆう』に通いますよ」
決意でも所信表明でもない、単なる報告。
それでも少し、照れくさい。
「……さて、そろそろ次の注文をしようかな!」
空気を切り替えるべく、セリフ口調とともに僕は黒板を見上げる。
生ものを食べたから、次はそれ以外で攻めたいところだ。『鳥ハム』か、『ごちゃ混ぜコロッケ』か、『炭火焼トマト』か。
だが僕は、黒板メニューの違和感にとっくに気づいていた。
今度はこちらが、嘘を暴くターンだ。
0
お気に入りに追加
83
あなたにおすすめの小説
流星の徒花
柴野日向
ライト文芸
若葉町に住む中学生の雨宮翔太は、通い詰めている食堂で転校生の榎本凛と出会った。
明るい少女に対し初めは興味を持たない翔太だったが、互いに重い運命を背負っていることを知り、次第に惹かれ合っていく。
残酷な境遇に抗いつつ懸命に咲き続ける徒花が、いつしか流星となるまでの物語。
【完結】悪兎うさび君!
カントリー
ライト文芸
……ある日、メチル森には…
一匹のうさぎがいました。
そのうさぎは運動も勉強も出来て
皆から愛されていました。
が…当然それを見て憎んでいる
人もいました。狐です。
いつもみんなに愛される
うさぎを見て狐は苛立ちを覚えていました。
そして、ついに狐はうさぎに呪いを、
かけてしまいました。
狐にかけられた呪いは…
自分の性格と姿を逆転する
呪い…
運のいい事。
新月と三日月と満月の日に元の姿に戻れる
けれど…その日以外は醜い姿のまま
呪いを解く方法も
醜い姿を好きになってくれる
異性が現れない限り…
一生呪いを解くことはできない。
そんなうさぎと…
私が出会うなんて
思いもしなかった。
あなたと出会ったおかげで
つまらなかった毎日を
楽しい毎日に変えてくれたんだ。
これは、ふざけた兎と毎回ふざけた兎によって巻き込まれる主人公M iと森の動物たちのお話。
呪われた兎は果たして、呪いを解く事はできるのか?
2023年2月6日に『完結』しました。
ありがとうございます!
心の落とし物
緋色刹那
ライト文芸
・完結済み(2024/10/12)。また書きたくなったら、番外編として投稿するかも
・第4回、第5回ライト文芸大賞にて奨励賞をいただきました!!✌︎('ω'✌︎ )✌︎('ω'✌︎ )
〈本作の楽しみ方〉
本作は読む喫茶店です。順に読んでもいいし、興味を持ったタイトルや季節から読んでもオッケーです。
知らない人、知らない設定が出てきて不安になるかもしれませんが、喫茶店の常連さんのようなものなので、雰囲気を楽しんでください(一応説明↓)。
〈あらすじ〉
〈心の落とし物〉はありませんか?
どこかに失くした物、ずっと探している人、過去の後悔、忘れていた夢。
あなたは忘れているつもりでも、心があなたの代わりに探し続けているかもしれません……。
喫茶店LAMP(ランプ)の店長、添野由良(そえのゆら)は、人の未練が具現化した幻〈心の落とし物(こころのおとしもの)〉と、それを探す生き霊〈探し人(さがしびと)〉に気づきやすい体質。
ある夏の日、由良は店の前を何度も通る男性に目を止め、声をかける。男性は数年前に移転した古本屋を探していて……。
懐かしくも切ない、過去の未練に魅せられる。
〈主人公と作中用語〉
・添野由良(そえのゆら)
洋燈町にある喫茶店LAMP(ランプ)の店長。〈心の落とし物〉や〈探し人〉に気づきやすい体質。
・〈心の落とし物(こころのおとしもの)〉
人の未練が具現化した幻。あるいは、未練そのもの。
・〈探し人(さがしびと)〉
〈心の落とし物〉を探す生き霊で、落とし主。当人に代わって、〈心の落とし物〉を探している。
・〈未練溜まり(みれんだまり)〉
忘れられた〈心の落とし物〉が行き着く場所。
・〈分け御霊(わけみたま)〉
生者の後悔や未練が物に宿り、具現化した者。込められた念が強ければ強いほど、人のように自由意志を持つ。いわゆる付喪神に近い。
家政夫くんと、はてなのレシピ
真鳥カノ
ライト文芸
12/13 アルファポリス文庫様より書籍刊行です!
***
第五回ライト文芸大賞「家族愛賞」を頂きました!
皆々様、本当にありがとうございます!
***
大学に入ったばかりの泉竹志は、母の知人から、家政夫のバイトを紹介される。
派遣先で待っていたのは、とてもノッポで、無愛想で、生真面目な初老の男性・野保だった。
妻を亡くして気落ちしている野保を手伝ううち、竹志はとあるノートを発見する。
それは、亡くなった野保の妻が残したレシピノートだった。
野保の好物ばかりが書かれてあるそのノートだが、どれも、何か一つ欠けている。
「さあ、最後の『美味しい』の秘密は、何でしょう?」
これは謎でもミステリーでもない、ほんのちょっとした”はてな”のお話。
「はてなのレシピ」がもたらす、温かい物語。
※こちらの作品はエブリスタの方でも公開しております。
独身寮のふるさとごはん まかないさんの美味しい献立
水縞しま
ライト文芸
旧題:独身寮のまかないさん ~おいしい故郷の味こしらえます~
第7回ライト文芸大賞【料理・グルメ賞】作品です。
◇◇◇◇
飛騨高山に本社を置く株式会社ワカミヤの独身寮『杉野館』。まかない担当として働く有村千影(ありむらちかげ)は、決まった予算の中で献立を考え、食材を調達し、調理してと日々奮闘していた。そんなある日、社員のひとりが失恋して落ち込んでしまう。食欲もないらしい。千影は彼の出身地、富山の郷土料理「ほたるいかの酢味噌和え」をこしらえて励まそうとする。
仕事に追われる社員には、熱々がおいしい「味噌煮込みうどん(愛知)」。
退職しようか思い悩む社員には、じんわりと出汁が沁みる「聖護院かぶと鯛の煮物(京都)」。
他にも飛騨高山の「赤かぶ漬け」「みだらしだんご」、大阪の「モダン焼き」など、故郷の味が盛りだくさん。
おいしい故郷の味に励まされたり、癒されたり、背中を押されたりするお話です。
すこやか食堂のゆかいな人々
山いい奈
ライト文芸
貧血体質で悩まされている、常盤みのり。
母親が栄養学の本を読みながらごはんを作ってくれているのを見て、みのりも興味を持った。
心を癒し、食べるもので健康になれる様な食堂を開きたい。それがみのりの目標になっていた。
短大で栄養学を学び、専門学校でお料理を学び、体調を見ながら日本料理店でのアルバイトに励み、お料理教室で技を鍛えて来た。
そしてみのりは、両親や幼なじみ、お料理教室の先生、テナントビルのオーナーの力を借りて、すこやか食堂をオープンする。
一癖も二癖もある周りの人々やお客さまに囲まれて、みのりは奮闘する。
やがて、それはみのりの家族の問題に繋がっていく。
じんわりと、だがほっこりと心暖まる物語。
神楽囃子の夜
紫音
ライト文芸
※第6回ライト文芸大賞にて奨励賞を受賞しました。応援してくださった皆様、ありがとうございました。
【あらすじ】
地元の夏祭りを訪れていた少年・狭野笙悟(さのしょうご)は、そこで見かけた幽霊の少女に一目惚れしてしまう。彼女が現れるのは年に一度、祭りの夜だけであり、その姿を見ることができるのは狭野ただ一人だけだった。
年を重ねるごとに想いを募らせていく狭野は、やがて彼女に秘められた意外な真実にたどり着く……。
四人の男女の半生を描く、時を越えた現代ファンタジー。

【完結】ぎゅって抱っこして
かずえ
BL
幼児教育学科の短大に通う村瀬一太。訳あって普通の高校に通えなかったため、働いて貯めたお金で二年間だけでもと大学に入学してみたが、学費と生活費を稼ぎつつ学校に通うのは、考えていたよりも厳しい……。
でも、頼れる者は誰もいない。
自分で頑張らなきゃ。
本気なら何でもできるはず。
でも、ある日、金持ちの坊っちゃんと心の中で呼んでいた松島晃に苦手なピアノの課題で助けてもらってから、どうにも自分の心がコントロールできなくなって……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる