幽霊居酒屋『ゆう』のお品書き~ほっこり・じんわり大賞受賞作~

及川 輝新

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5品目:有る日のカレイの煮つけ(580円)

(5-2)本日の初体験

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 出汁と醤油の澄んだ味わい。針生姜の爽やかな芳しさ。低質なセラチン特有の脂っぽさがまるでなく、すっきりとした余韻が残る。枝豆や椎茸の歯触りも心地よい。

 煮こごりとは、こんなにも奥深い料理だったのか。

 僕は慌ててビールを飲み干した。市松模様のメニューブックを取り、ドリンクのページを開く。この後の料理を考えると、最も適したお酒は日本酒だ。

 しかし、僕はすぐにメニューブックを閉じた。

「おすすめの日本酒ってありますか?」

 僕はポン酒に関しての知識はさっぱりなのだ。

 こういう時は下手に狙いをつけず、店主に訊くのが一番だ。

「そうだな……」

 ユウさんはカウンターに並んだ一升瓶の中から、赤いボトルを選定する。

「これは『此方こなた』という東北地方の銘柄でな。ふくよかな香りとしっかりしたキレが特徴の酒だ。製造数が少ないからほとんど地元で消費されてしまうのだが、知り合いから譲ってもらったんだ。都内でも飲めるところは限られるぞ」

 そんな希少性をアピールされては、頼まないわけにはいかない。

「じゃあそれを冷で、一合」

 ユウさんはほくそ笑み、いそいそと用意を始める。

 やがてカウンターに、焼き物の片口とお猪口が置かれる。重厚感のある土色のお猪口には、既に透き通った液体がなみなみと注がれている。

 僕がそれを持つと、向かいでユウさんも同じものを掲げていた。

「言っただろう? 今日はゆるくやらせてもらうと」
「そうでしたね」

 僕は小さく笑い、器を鳴らして乾杯する。

 ゆっくりと、確かめるように中身をすする。

 清らかな香りが、花を嗅ぐようにふんわりと広がり、鼻から抜けていく。それでいてキリっとした辛口が、口内を引き締める。刺激は強いがツンとくる感じはまるでなく、舌の上の余韻にじっくり浸ることができる。

 そこに煮こごりを入れると、酒と醤油の風味が混ざり合い、互いの味わいを引き立てる。

「いいですね、これ」
「だろう?」

 お猪口に残った酒をぐいっと流し込む。まるで身体の内側に清流が生まれたようだ。



 ふぅ、と息を吐き、改めて辺りを見回す。

 いつも客のにぎやかな声に包まれている分、静寂な店内はどこか落ち着かない。

「アイハはどこかで休んでるんですか?」

 彼女には生前の記憶がない。目が覚めた時にわかっていたのは自分の名前だけで、どこから来たのか、なぜ死んだのかも覚えていないという。そうなれば、生前の住まいだって忘却の彼方だ。果たして「戻る場所」は残されているのだろうか。

「お盆中、あの子には私の実家で過ごすよう住所を教えてある」
「この店で寝泊まりはできないんですか?」
「奥に最低限の生活ができるスペースは与えているがな。ずっとここにいたままじゃ窮屈だし、いつまで経っても記憶が戻らないだろう。外に出れば、何かのきっかけで自我を取り戻すかもしれないしな」

 なるほど。ユウさんと僕、それと幽霊の客しか訪れない店に籠っているより、同じ屋内でも外界の刺激を受ければ、何かが記憶を呼び覚ますヒントになるかもしれない。窓から見る景色、外で遊ぶ子どもたち、テレビのニュース番組、他人の家のにおい。きっかけはどこにあるかわからないのだから、多くのものに触れるのはいいことだ。

「まぁ、こっちとしてはただ働きしてくれる従業員がいなくなるのは困るんだがな」

 本音とも冗談ともつかない口調で、ユウさんがぐいっと日本酒をあおる。

「はいよ、こっちもお待たせ」

 正方形の青い器に盛られた、透き通るような薄桃色の刺身。
カレイの薄造りだ。皿の中央には薔薇盛りでエンガワもある。

 刺身盛りと一緒に出された小皿には、ねっとりした琥珀色の醤油が入っていた。

「これは肝醤油。塩蒸しの肝を裏ごしして醤油と合わせたものだ」

 初めての体験だ。この店ではいつも新しい出会いがある。

 割りばしで薄造りを丁寧に一枚はがし、そっと肝醤油に付け、口に運ぶ。

「おっ?」

 筋肉質で引き締まった歯ごたえ。噛むたびに舌の上で身がプリッと跳ね返る。まさに旬の魚って感じだ。
 
 さっぱりしたカレイが濃厚な肝をまとい、絡み合っている。はじめは肝醤油の甘みと酸味と塩味と苦味。何度か歯の上下を合わせると、奥から身の清涼感が現れて喉を通り抜けていく。だからこそ口の中がしょっぱくならず、爽やかな後味が残る。

 エンガワは対照的に、ぷりぷりのとろとろだ。同じ魚なのに、部位でこうも味わいが違うとは。

 一般的に、エンガワといえばヒラメが有名だが、百円の回転ずしで使われているのは安価なカレイのものだという。僕は舌が肥えているわけでもないのでこっちで十分だ。



 これが、夏の海の味か。

 片口から酒をお猪口に注ぎ、ぐいっと傾ける。

 言うまでもなく、日本酒とも合う。

「うまいです」

 幸せだ。

 齢二十二にして、晩酌の時間に幸福を見いだすようになってしまった。悪いことだろうか。三大欲求というくらいだし、珍しいことでも何でもない。うまい飯とうまい酒でハッピーになれるのは、至極当たり前のことなのだ。



 何事もないように、ユウさんが僕に尋ねた。





「もう、死にたくなくなったか?」
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